マグカップ分の譲歩 14
結との会話で浮かび上がった別の可能性。
俺は再び二階廊下へ向かいながら、先程の結の言葉を反芻していた。
――扉を開けずに、マグカップだけを中へ入れた可能性があるわ。
そして俺は扉の前にたどり着く。
いつも何も気にせず通ってきた扉。その見た目は全く変わらないのに、今は一枚隔てた向こう側に白昼夢が創り出した幻想が広がっている。
マグカップを部屋の中に入れるために、俺は当然、その犯人がこの部屋に入ったものだと思っていた。
しかし――。
俺は、もう一度扉に手をかけ、ノブを回した。
ぎぎぎ、と悲鳴のような音を上げて扉が開く。視線の先には先程と変わらず水槽が広がっている。
今度は部屋に入らず、廊下から中を見渡した。
もし侵入経路が扉ではないのだとしたら、マグカップは一体どこから入れられたんだ。
俺の視線は部屋の奥にある窓ガラスへ向かった。
本来であればベッドのちょうど横にある腰窓。
引違いになっており、スライドして開けることができるが、中には召し合わせの錠がついている。その錠は、遠目にも閉まっていることが分かった。
今は七月なのもあり、蒸し暑い日には開けることもあったが、今日のような雨の日に開けておく理由はない。
そこで俺はふと思い当たり、目線を扉の上へと向けた。
換気用の小窓。
夕凪寮の古い部屋にはどこもついている、あのトランサム窓だ。
古いせいか、閉めてもわずかに隙間が残る。普段はただの風通しの悪い名残だと思っていたが、今はその隙間が妙に意味を持って見えた。
今まで気にも留めていなかったが、この隙間を使ったのか……?
いや、と思い直す。
トランサム窓は、比較的背の高い入口の扉のさらに上に設えてある。
俺は試しに出来る限り腕を伸ばしてみた。
爪先立ちになって、ふぬぬ、と気合を入れてみたが、指先は空を掻くだけだった。
「ぷくく、湊、なにやってるの」
横では雫が小馬鹿にしたように笑っている。
自分でも間抜けな格好だとは分かっているが、こいつに笑われると腹が立つのはなぜだろう。
俺は諦めてかかとを下ろし、改めて頭上の小窓を見た。
少なくとも、俺が床に立ったままどうにかできる高さではない。
ここを使うなら、足場がいる。
椅子では不安定だ。高さも足りるか怪しい。もっとちゃんとした、折り畳みの脚立みたいなものが。
その時、晴の証言が頭をよぎった。
――カシャン、カシャンって、金属っぽい音。
あれは、何かを運ぶ音だったのではないか。
トランサム窓を眺めながらそんなことを考えているうちに、俺の目線は、そこから廊下側の天井に泳ぎ、そして最後にぶら下がった電球へと向かう。
朝に見たものと同じはずなのに今度はあれ、と何か違和感を覚えた。
窓の外は鉛色の空。屋内は日中にも関わらず薄暗く、しかしその電球が煌々と自己主張するように明かりを灯している。
別におかしなことではない。それなのに、なぜこんなに……。
そのとき、俺の中で何かが繋がった。
「あれっ、どうしたの?」
突然歩き始めると、雫が戸惑いの声をあげた。
「方法が分かった。たぶん、誰がやったのかも」
そして、おそらくその動機は――。
俺は、胸にちくりとした痛みを感じながら、階段を下りていった。




