マグカップ分の譲歩 13
廊下に俺と雫の足音が並ぶ。どこか不揃いな床の軋む音が響き、外の雨音と混ざって消えていく。
遥と別れた俺と雫は、結の部屋へと向かっていた。
「……」
俺は先程の遥の部屋でのことが頭に残っていた。
分かっていたこととはいえ、雫との間の溝はまだ深い。
いや、遥だけではない。俺や他の寮生だってそうだ。
それくらい雫の存在は、俺たちにとって異質なものだった。
少し前を歩く雫に視線を向ける。
遥との会話を気にしているのかは、その後姿からは読み取れない。
――後で遥に謝りに行こう。それと、あの件についても。
俺は、遥の部屋を思い起こしながら、そんなことを考えた。
結の部屋は階段を挟んで俺の部屋とは反対側にあたる。
扉の前につき、そこで立ち止まる。俺は小さく息をついた。
実は結の部屋にはまだ一度も入ったことがない。
というよりも、そもそも寮生たちの個室に入ること自体が普段からそんなに機会はないのだ。
小規模な寮だし、皆集まりたいときは大体共用スペースにいるので、部屋を訪ねる理由がない。
だが、それでも一年過ごせば一度や二度くらい個室に入ることもあった。
実際、結以外の部屋には何かのきっかけで誘われ、中を見たことがあったが、とりわけ結はプライベートを表に出す性格ではないため、そういった機会がなかったのだ。
そしてこのときの俺の予想は当たることになる。
ノックの後、扉越しに用件を伝えたところ、結はいつも通りの調子で応じ、顔を出した。
部屋を出てきた結はそのまま後ろ手に扉を閉める。
「事件のことでしょ? いいわよ、下で話しましょう」
無理やり暴きたいという気持ちは毛頭ないが、立ち入ってはいけない雰囲気のある物事ほど立ち入りたくなってしまうのは、人間の性である。
そんな理由で、今日の俺は余計なことを聞いてしまった。
「部屋で話してもいいかと思ったんだけど、駄目か?」
「駄目ってこともないけど。どうして?」
「いや、何となく入れたくない理由でもあるのかなぁって」
「……別に。人をもてなせるような部屋になってないから、それだったらリビングの方が話しやすいってだけ」
それだけ言うと、結はスタスタと先に歩いていってしまった。
この話をするのはまだ早かったのかもしれない。俺は少し反省しながら、その後を追った。
そして三人でリビングへと降りる。
テーブルにつくが早いか、結はそれで、と切り出した。
「何を話せばいい?」
眼鏡の奥の双眸が、真っ直ぐとこちらを見る。
人によってはこの遊びのなさが苦手という意見もあるが、俺はこの率直さが嫌いではなかった。
特に結の合理的な思考は、今みたいな複雑な場面でとても頼りになる。
「まず、日中何をしていたか聞かせてもらってもいいか?」
「部屋に籠って勉強していた……、のだけど、証明のしようがないわね」
結はソファに深々と腰掛け、天井を眺めた。髪の毛を指で巻きつけ、何かを思い巡らせている。
「でも、白昼夢が発生したということは、たとえ誰かが目の前にいたり、現場と違う場所にいたとしてもアリバイにはならないんじゃないかしら」
結の言っていることは正しい。
白昼夢の発生場所と、核になった人間の居場所は、必ずしも同じとは限らない。何せ、発生者本人が自分自身が核であることに無自覚であることすらあるのだ。
白昼夢の事件というのは、こうしていつも面倒になる。
「白昼夢だけならそうだな。だが、それとは別におかしなものがあったんだ」
俺は部屋の中に、自分の家具だけではなく、見知らぬマグカップも浮いていたこと、そしてそれが幻影ではなく実体を持っていたことを伝えた。
結はその説明だけで納得したようで、無言で頷いた。
「なるほど、部屋に持ち込んだ人物がいると……。念のため確認だけど、白昼夢の発生者とマグカップを入れた人物が同じとは限らないのよね?」
「そうだな。それが厄介なところだ」
言ってみたら、今回の事件は白昼夢という感情に根ざした謎と、部屋に浮いたマグカップという物理的な謎の二重構造だ。
それぞれを丁寧に解きほぐさねば、真相は見えない。
「状況は分かった。でも、ごめんなさい、マグカップについても心当たりはないわね。私自身の行動は誰にも見られていない以上、それも示しようはないのだけど」
結はでも、と続けた。
「代わりと言ってはなんだけど、少しくらいは調査の助けになれるかもしれない」
「いいのか」
正直、晴の話や、他の寮生の話題にも出なかったことから、結のアリバイを確認するのは始めから難しいとは予想していた。
だが、こうして手伝いを申し出てもらえるのは願ってもない。
俺は頭の中を整理しながら話し始めた。
「じゃあ、もう一度おさらいしよう。俺は今日十一時過ぎから十四時前まで寝ていた。そして起きた時には、部屋の家具がすべて浮いていた。まるで水槽みたいにな。俺は部屋から何とか抜け出して、廊下に出たところで落っこちた。そこから先は皆と合流している」
そこまで一気に話すと、結はこくりと頷いた。
「寝ていた間のことについて、今までに分かったことはある?」
「あぁ、とは言ってもまだ仮説混じりだけどな。部屋で身体が浮くなんてのも大概変な感覚だったけど、同じくらいマグカップに目を引かれた。元々部屋にはなかったものだからな。後から雫に聞いた話だと、あれは幻ではなかった」
横に座る雫が、無言で俺たちの会話に耳を傾けている。
俺はさらに続けた。
「他の可能性も検討したが、今の考えはこうだ。マグカップは俺が寝ている間に誰かが部屋に忍び込んで置き、その人はそのまま部屋を出た。そしてその後白昼夢が発生し、家具がすべて浮かんだ」
そこまで聞いた結が、ちょっと待って、と静止した。
「部屋に入られて気づかないなんてことあるかしら。みんなの部屋もそうだと思うんだけど、この寮古いから、扉の建付け悪いじゃない」
そう言われて、自室の扉が開くたびに軋むことを思い出した。
さっき雫と部屋へ入った時にも、確かに大きな音が鳴っていた。
この一年で聞き慣れてしまって、今更気にかけたこともなかったが、あれだけの音がすれば、確かに熟睡していても目は覚めそうだ。
結は顎に手を当て、また考え込んだ。
少しして、ゆっくりと口を開く。
「部屋に入っていないとか。扉を開けずに、マグカップだけを中へ入れた可能性があるわ」
表情の変化が乏しく、冗談のつもりかと思ったが、そういうつもりではないらしい。
至って真面目な口ぶりで言うものだから、呆気に取られてしまった。
「確かにそれなら扉を開けなくて済むかもしれないが、陶器だぞ? どうやったか分からないけど、遠くから置いたのだとしたら、さすがに衝撃で割れるんじゃないか」
もし割れなかったとしても、それなりに大きな音がしそうである。それこそ目が覚めても不思議ではない。
「普通の部屋ならね」
でも、と結は続けた。
「湊の部屋、物が浮くんでしょう?」
言われた瞬間、俺は息を呑んだ。
確かにそれなら、扉を開けなくてもいいし、それでいてマグカップが割れる可能性も低い。
だが、そんなことあり得るのか――。
「……マグカップは、白昼夢が発生した後に入れられたってことか」
我ながら信じがたい言葉だった。
結もそこは同じらしく、すぐには頷かなかった。
「まだ可能性の一つよ。でも、最初から机の上に置かれていたと決めるには早いと思う」




