マグカップ分の譲歩 12
晴の部屋を出て、俺は聞いたばかりの話を頭の中で並べ直していた。
晴は、俺が自室に戻ってから大きな物音がするまで、ほとんどの時間を一階のリビングで過ごしていたらしい。
スマホを見たり、テレビを眺めたりしていたというから、ところどころ細部が欠けてはいる。それでも、共用スペースを通った人間については、いくつか手がかりになる話を聞けた。
まずは遥。
晴によれば、十一時半ごろ、遥は慌てた様子で二階から下りてきて、そのまま玄関を出ていったらしい。雨の日に、しかもあの人前で滅多に取り乱すことのない遥が、だ。
ところが、たいして時間を置かずに戻ってきた時には、もういつもの顔をしていたという。
俺は晴の部屋を出てすぐ右を見る。
隣が、ちょうど遥の部屋だった。
特に物音はしないが、中にいるのだろうか。
俺は少しだけ声を落とし、雫に聞いた。
「次は遥に話を聞いてみようと思うんだが、いいか?」
だが、こちらの意図があまり伝わっていないのか、雫は不思議そうな顔で首を傾げている。
「うん? 別にいいよ~」
正直に言うと、少し気が重かった。
遥に会うことが嫌なわけではない。問題は、隣に雫がいることだ。
今年四月の、雫が寮に身を寄せるきっかけとなった出来事。
それは俺だけではなく、他の寮生にも少なからず影響を及ぼしていた。
特に遥に関しては、最も被害を受けたうちの一人と言って良い。
あの件以来、遥は雫に対してずっと距離を置いている。
人前ではいつも通りに振る舞うが、その心の内は知れない。昔からの付き合いな分、遥がまだ折り合いをつけられていないことは感じ取っていた。
このまま二人で彼女の部屋を訪れたところで、入れてもらえるかどうか。
――まあ、試す前から心配だけしても仕方がないか。
俺は意を決して、その部屋の前に近づき、軽く扉を叩いた。
「遥、いるか? 湊だけど」
その瞬間、中で何かが倒れるような音がした。
しかしすぐに、何事もなかったかのように、「はーい、ちょっと待って」と返事がある。
声だけは平静を装っていたが、明らかに何か慌てている様子だった。
しばらくして、扉が細く開いた。
「ごめんなさい、お待たせ。どうしたの?」
最初に俺の方に視線が向き、それから隣の雫を見る。
雫の姿を捉えた瞬間、遥の表情がほんの少しだけ硬くなった。
「いや、こちらこそ突然ごめん。皆が日中何してたのか教えてもらってるところなんだ。今いいか?」
「……分かった。中入る?」
遥は複雑そうな顔をしたが、拒みはしなかった。扉を開き、俺たちを招き入れる。
お邪魔します、と言って中に入ると、晴の部屋とはまるで違う匂いがした。洗濯したての布みたいな柔らかい香りがする。
白を基調にした本棚、低いテーブル、姿見。物は少なくないが、どれも決まった場所に収まっている。
ただ、ベッドカバーの端だけが少し不自然に折れていた。さっきの物音の原因は、たぶんその辺りだろう。
あまり女子の部屋をジロジロと見るのが憚られ、俺は気づかなかったふりをして、テーブルの前に座った。
「ちょっと待っててね。今紅茶淹れるから」
そう言いながら、遥は棚から缶箱を持ってきた。
レトロな西洋風の絵画が印刷された蓋を開けると、中には小ぶりなクッキーが並んでいる。
「こんなのしかなくて申し訳ないけど。その……雫、さんも良かったら食べて」
「ありがとう」
雫は何の遠慮もなくクッキーを一枚取った。
遥の指が、一瞬だけ止まる。
おそらく遥自身、まだ距離感を掴みかねているのだろう。
俺は後を追うようにクッキーを一枚もらい、場の空気を変えるべく、いつもより少しだけ声のトーンを上げた。
「おお、美味しいなこれ。どこで買ったんだ?」
「え? あ、これはグランパレットだよ。オープン記念で和洋菓子売場に色々イベントが開かれてたから、そのときに買ったの」
グランパレットといえば、今朝雫と希が二人で遊びに行ったショッピングモールだ。
最近よく話題にあがるとは思っていたが、遥も行っていたのか。
「俺も一度くらいは行っておくべきか」
そうつぶやくと、遥は小さく「あれ、まだ行ってなかったんだ……」とこぼした。
そしてそのままこちらを見る。
「そ、その、今度よかったら一緒に……行く?」
「ああ、そうだな」
その返事に遥の顔が明るくなる。
実際には雫とのリーシュの問題があるので、このままだとこの三人で、ということになるのだが、おそらく遥はそこまで考えが回っていないのだろう。
とはいえ、今はまだ、話をしてもらえるくらいまで機嫌を戻してくれればそれでよかった。
我ながら人の心に付け込むようで気が引けるが、致し方ない。
俺はここで話を切り替えることにした。
「ところで、晴から聞いたよ。昼前、遥が慌てて外に出たって」
遥は紅茶の缶を閉じる手を止める。
「……見られてたんだ」
「ああ。でも、別に責めてるわけじゃないんだ。何かあったのか」
「外のプレハブに、ちょっと物を取りに行っただけ。事件とは関係ないよ」
答えるまでに一拍の間があったが、いつもの落ち着いた声だった。
このまま聞いても、答える気はなさそうだ。俺はそこで踏み込むのをやめた。
紅茶を淹れた遥がテーブルへやってくる。
自身の手元へはマグカップ、俺と雫の前にはティーカップを差し出した。
そのマグカップの形状は、俺の部屋に浮いていたものとよく似ていた。
「もう一つ聞きたい。そのマグのことなんだけど」
遥は少し表情を緩め、自分の白いカップに視線を落とした。
「これ?」
「ああ。それ、いつも使ってるよな」
「入寮した時に、真弓さんがくれたの。夕凪寮では、入ってきた子にマグカップを一つ用意するんだって」
「全員にか?」
「うん。晴の派手なマグも、結の黒いタンブラーもそう。本人に合わせて選んでくれるみたい」
俺は少し黙った。
「俺はもらってない」
「……うん」
遥は、言葉を選ぶようにカップの縁を指でなぞった。
「たぶん、渡せなかったんだと思う」
「渡せなかった?」
「湊、入寮した時から、荷物もあまり開けてなかったでしょ。すぐにでも出ていけるような部屋だった。真弓さん、そういうの見てたと思う。だから、マグを渡したら、ここにいなさいって押しつけているみたいになるって思ったのかも」
俺は返事に困った。
自分では大したことではないと思っていたが、見る人によってはそう感じてしまうものなのだろうか。
「渡せなかったもの、か」
雫がぽつりと言った。
遥の視線が、雫へ向く。
「雫さんは、湊の部屋の白昼夢を見て、何か思うことはないの」
少し棘のある言い方だった。
紅茶に口をつけていた雫は、カップを下ろし、唇に残った余韻を舌でゆっくりと掬い上げた。
「別に。私には関係ないもの」
遥の顔から、ほんの少しだけ笑みが消えた。
「あのときだって、あなたは――」
「遥」
俺が名前を呼ぶと、遥はそこで口を閉じた。
紅茶の湯気が、二人の間をゆっくり上っていく。
「……ごめん。今のは関係なかった」
遥はそう言って、カップをテーブルに置いた。




