マグカップ分の譲歩 11
晴の部屋は寮の二階の廊下の一番奥にある。
ガチャガチャと建付けの悪そうな音を立てながら扉を開けると、俺たちを中へと促した。
そして、「ちょっと飲み物取ってくるわ!」と言うと、急ぎ足で出ていってしまった。足音が遠ざかり、晴の部屋に二人取り残される。
扇風機のモーター音が低く鳴っている。
風に起こされた生活の匂いが、ふわりと鼻をくすぐった。
俺の部屋を独房とするなら、晴の部屋はパーティー会場とでも形容すべきだろうか。
部屋の間取りは同じであるはずなのに、足場は遥かに狭く感じる。
爪先立ちになって、塔のように積み上がった本の隙間を縫うように歩いた。
壁際の本棚は、教科書や漫画本、小説、そしてゲーム機までもが大小混ぜこぜになり、それぞれが喧しく自己主張している。
つまり一言で言うと――。
「汚っ!」
後ろに続く雫が、気持ちを代弁するように叫んだ。
もし仮に、今回の白昼夢騒動が晴の部屋で発生したなら、きっと私物の洪水で窒息しただろう。
マグカップが混ざっていたとしても、まず気づくことはない。
そうして俺と雫が珍しく同じ意見を心に抱きながら待っていると、やがて晴が部屋に戻ってきた。
両手で盆を支え、その上に三杯の飲み物を乗せている。
晴は食べかけのお菓子や雑誌の積み上がったテーブルの上を無理やり空けると、その上にグラスを置いた。
中に入った氷がからん、と涼しげな音を立てる。
「にしても、今日は湿気がすごいな。せっかくだから飲み物持ってきた」
「ありがとう、いただくよ。それよりお前のこの汚部屋、何とかならんのか」
晴は不服そうに腕を組んだ。
「汚部屋言うなし。自然の摂理に従った結果さ。エンドルフィン増大の法則ってやつ?」
「エントロピーな。お前、それだと部屋汚すことに快感覚えちまってるぞ」
あれ、そうだっけ、などと間抜けな反応をする晴。
雫はといえば、まるで一切話を聞いていないみたいに、目の前のジュースを美味しそうに飲んでいた。
「……まあ、いいや。今朝リビングでお前と会ったけど、あの後何してたか聞いてもいいか」
そう言うと、晴は背もたれに身を預け、顎をさすった。
「って言ってもなぁ。俺結局ずっとあそこにいたんだよ」
晴がポテトチップスの袋を開けて食べていたことを思い出す。
「え、ずっと?」
「うん。スマホ見たりテレビ見てたらあっという間に昼になって、何人かでご飯食べてた。その後も、二階からデカい音がするまでは大体リビングだったよ」
休日はよくどこかへ出かけている印象のある晴だったので、少し意外だった。
だが、窓を流れる水滴を見て合点がいく。確かにこんな日に出掛ける気にはならないだろう。
特にすることもなく共用スペースで時間を潰していたということか。
「それを証明できる人はいるか」
「一人の時間も多かったからなぁ。全部の時間というわけにはいかないけど、途中何度か出入りする人とは目が合ったぜ」
晴によれば、あの後、共用スペースは思ったより人の出入りがあったらしい。
そこから、誰を目撃したかをつらつらと喋り始めた。
「まず、湊が二階に戻っただろ。そのあとしばらくは俺一人。テレビつけて、スマホ見て、ポテチ食ってた。
それで、十一時半くらいかな。遥が降りてきたんだよ。でも、ちょっと様子が変だったんだよな。
ん? ああ、いや、体調悪そうとかじゃなくて。なんか慌ててたっていうか。
ほら、階段から玄関に行くまでにリビングから通る人のことがちょっと見えるじゃん? そこをすごい速さで駆け抜けていったのよ。
一瞬何があったのかと思ったけど、すぐに玄関の扉が開く音がしてさ。こんな雨の中どうしたんだろう、って思ってたら、たいして時間を置かずにまた扉が開いて。
で、また廊下を戻るのが見えたんだけど、そのときはもう普段通りっぽかったんだよな」
遥の様子がおかしかった、か。確かに普段の大人しい様子を考えれば、急に取り乱して雨の中を外出していったとしたら、かなり驚くだろう。
「戻ってきた遥の様子に、何か変なところはなかったか?」
「いやぁ、リビングのソファに寝転んで、偶然ちらっと見ただけで、あんま分からないんだよな」
何のために外に出たのか、少しでもヒントがあればと思ったが、そこまでは得られそうにないか。
俺は続きを促した。
「少しして、今度は真弓さんが帰ってきた。両手にたくさん袋を抱えてたから食材の買い出しかな。多分十二時ごろだったと思う。それからお昼を作ってくれてた。
そういえば、結は午前中は一切見なかったんだよな。真弓さんが作ったお昼ご飯のときには一緒だったんだけど。
……いや、怪しいかどうかまでは。雨の日の結って、だいたい缶詰だし、自室で勉強でもしてたんじゃないかな」
そう言うと、晴は自分の手元のグラスを取り、喉を潤した。
束の間、部屋に静寂が戻る。
結はかなり勉強熱心なのは俺も知っていた。なので、部屋に籠って勉強していたとしても何ら不思議ではない。
とはいえそれを始終確認していた人間がいるわけではないので、現時点ではアリバイはないと言わざるを得ない。
「昼食の後には何かあったか?」
「そこからは特に何も……。あ、いや、なんか誰かが物を運んでる音はしたかな。カシャン、カシャンって金属っぽい音。ここからは見えなかったけど」
金属系の音……。資材か何かだろうか。
いずれにせよ、これ以上は判断のしようがなさそうだ。
「ありがとう、晴。色々助かった」
「気にすんな。この寮の人間が関わってるなんて、正直今でも信じたくないけど、出来る限り協力はするよ」
晴は笑おうとして、うまく笑えなかった。
「……俺も一応、候補の一人なんだよな」
軽口にしようとした声は、少しだけ引きつっていた。




