八分の七バースデーケーキ 3
多目的室の扉を開けた瞬間、甘い匂いが廊下へあふれ出す。
新見は短く息を飲み、抱えていた書類の束を床にばらまいた。
むせ返るような甘い匂いに顔をしかめながら、俺は開いた扉の向こうを見た。廊下はいつも通りの木張りの床なのに、境目を越えた途端、多目的室の床だけがスポンジみたいな柔らかい質感に変わっている。上に乗った紙束や椅子の脚の形に合わせて、じわりと沈み込んでいた。
部屋の中身も同じだった。元は長机だったものはこんがり焼けたビスケット地に、ホワイトボードは艶のあるチョコプレートに、壁は白いクリームに塗り込められている。カーテンは薄い飴細工みたいに光を透かし、揺れるたびにかすかに鳴った。
何より異質だったのは、部屋の中央に組まれた長机の上だ。そこだけはまるで祝うための祭壇みたいに、ひときわ大きなホールケーキが置かれていた。白い生クリームの上に、馬鹿みたいに大きないちごが散らされ、蝋燭とチョコレートのプレートが立っている。周囲には色とりどりの包装紙とリボンをつけた小箱がいくつか並び、天井へ届くほど長い紙の輪飾りが垂れていた。
そして、そのケーキは一切れだけ欠けていた。
入口からでも分かるくらい、不自然な欠け方だった。円の中心から扇形に切り取られたみたいに、そこだけがすっぱり抜けている。まるで、誰かがホールケーキから一切れだけ取っていった後のように見えた。
隣から雫がぬっと顔を出すと、ほほう、と目を見開く。
「これはまた、立派な白昼夢だね」
人の想いが形になって現実を塗り替える怪異――白昼夢。俺が物心ついた頃には、もうこの街では珍しくもない災害だった。だが、実物を前にすると話は別だ。目の前の光景が部屋なのか菓子なのか、脳がすぐには整理しきれない。
長く見ていると、頭の奥がざわつく。嫌な感じがした。
俺は反射的に一歩下がり、扉を半分だけ閉めた。甘ったるい匂いが少し薄まる。
振り返ると、新見はへたり込んだまま、青ざめた顔でこちらを見ていた。
「あれ、何……?」
「幻域だ」
「なんで、こんなところで」
「分からない……。媒介にした感情や出来事に結びついた場所に発生すると聞いたことはあるが」
そう答えた俺より先に、新見の視線がまた扉の向こうへ戻る。何かに引っかかった顔をして、少し間を置いてから、ぽつりとつぶやいた。
「あれ、水城くんの誕生日会で見たのと同じ飾りだ」
「水城って、うちのクラスの?」
「そう。先週、誕生日だったから、仲のいいメンバーで集まって祝おうって話になって。紙の輪飾り、あったでしょう? あれ、その時に作ったの。冗談で、どこまで長くできるか競ってたから……」
確かに、中央のケーキの奥で、やたら長い紙の輪が天井近くまで伸びていた。
「もしかして、私たちのうちの誰かが……」
新見が言いかける。
その視線は、ケーキの欠けた一切れの方へ吸い寄せられていた。
「誰かが中に入って食べて、そのまま出た、とか?」
もっともらしい推測だった。少なくとも、あの欠け方だけ見ればそう思う。
だが俺は小さく首を振った。
「いや、それはたぶん変だ」
「変?」
新見が目を瞬く。雫は面白そうに俺を見ている。
「おお、探偵っぽい」
「茶化すな」
ニマニマと俺を見つめる雫は、それでそれで、と先を促した。
「窓は全部閉まってた。外から開けられる形じゃないし、さっき見えた限り、中は飴細工とかクリームでかなり埋まってた。通気口も、人が通れるような広さじゃない。出入り口として現実的なのはこの扉だけだ」
雫は腕を組みながら、ふんふん、と頷いている。新見も興味があるのか、真剣な眼差しでこちらを見ている。
「雫、お前ほんとにちゃんと分かってるか?」
「へ? お、おう。当然よ。つまり……?」
何も分かっていないようだった。
「つまり、この部屋に入るにはこの扉しかないってことだ。だが、俺たちが来た時、ここの扉には鍵がかかっていた」
「その、部屋に入った誰かが、出ていくときに鍵を閉めていったんじゃないの?」
新見がおずおずと意見を言う。
「もしそうだとしたら、あるものが残っていないとおかしいんだ」
俺はそう言いながら、新見の持っている多目的室の鍵を指さした。
「あるもの……?」
「貸し出し記録さ」
俺たちはここに来る前、職員室に寄って鍵を借りてきた。キーボックスの前には貸し出しを記録するための台帳が設けられており、持ち出す場合は日時や名前、返却時間を記入する必要がある。
俺がそこに名前を書くとき、書き方の参考として、自分の欄のすぐ上の記録を参照した。そこに書かれた日付は昨日のものだった。
「直近の記録が昨日のもの、つまり、少なくとも生徒は、今日この部屋を借りてない。普段は施錠されているんだったよな。であれば、鍵を借りずにこの部屋に入ることも不可能だ」
新見は考え込むような仕草をすると、でも、と続けた。
「白昼夢が勝手に記録を書き換えちゃった、ってことはないのかな?」
新見の疑問はもっともだった。部屋を丸ごとケーキに変えるような現象だ。貸し出し表の一行くらい、ついでにどうにかできそうにも思える。
俺が答えを探していると、雫が先に言った。
「そこまで親切じゃないよ、白昼夢は」
「親切?」
「部屋をケーキにすることはあっても、職員室の貸し出し表まで代筆してはくれないってこと」
「……そういうものなのか」
「少なくとも、今影響を受けているのはこの部屋だけ。白昼夢の外側は、基本的にそのまま残るよ」
つまり、今回の白昼夢が触れているのは、この多目的室の中だけ。少なくとも職員室の台帳まで巻き込んではいない、ということらしい。
「……じゃあ、マスターキーを使った、とか」
「マスターキーを使う職員だっているだろうけど、白昼夢を見つけたなら一次対応を取るはずだ。記録をごまかしてまで、黙って入って、ケーキを一切れだけ食べて帰る理由としては不自然すぎる」
雫がふんふんと頷いている。頷き方だけは分かったふうだが、たぶん半分くらいは雰囲気で頷いている。
「湊って友達いなさそう」
「ひどい言い草だ……」
俺と雫の緊張感のないやり取りが可笑しかったのか、新見はふふっ、と小さく笑った。しかし、それからすぐに深刻そうな顔に戻り、少しだけ黙り込んだ。
「でも、事実としてケーキは欠けてる」
「ああ」
「じゃあ、一体誰がどうやって、密室のままケーキを取っていったの?」




