八分の七バースデーケーキ 2
その日最後の授業が終わり、ホームルーム後の教室は一斉に帰る支度を始めた。椅子を引く音、机の中を引っかき回す音、部活へ向かう連中のざわめき。教室の空気だけが先に外へ出ていくみたいに、人数がみるみる薄くなっていく。
俺はその流れに少し遅れて鞄を閉じた。雫はといえば、すでに机の横に立って、帰るでもなく窓の外を眺めている。
「じゃあな、暁」
「おう」
スマホを取り出して、適当に通知を流す。ついでに開いたニュース欄に、《朝凪市 幻域災害発生》の見出しがあった。昨日、ショッピングモールのおもちゃ売り場でぬいぐるみが天井近くまで巨大化したらしい。怪我人なし、当日中に沈静化済み。
ぬいぐるみの巨大化。ファンシーというか、間の抜けた災害だ。だがこの街では、それくらいなら珍しくもない。人の強い想いが世界を書き換える《幻域災害》――いわゆる白昼夢は、今さらニュース速報で目を剥くような代物でもなかった。
「何見てるの」
横から雫が画面を覗き込む。肩が触れそうな距離まで寄ってくるのを、もういちいち避けるのも面倒だった。近づくと、雫の髪からパンみたいな甘い匂いがした。
「へえ、これはまた可愛らしいね」
「可愛らしいって。仮にも災害だぞ」
雫はふうんと鼻を鳴らし、興味を失ったみたいに顔を上げた。その視線の先を追って、俺も教室の前方を見る。
重そうな紙束を抱えた女子がいた。新見澪だ。朝、白岡詩乃と廊下で言い争っていたあいつが、今度は腕の中で崩れそうな書類の山と格闘している。
紙の角が揃っていない。下の方は少しずつずれている。このまま歩けば、たぶん階段か廊下の途中で1回は落とす。
助ける義理があるわけではないが、そのまま放っておくのも憚られる。普段は周りで仲良くしてるクラスメイトたちも少しは手伝えばいいのに、面倒事はまるで他人事のように知らないふり。そんな小さな気持ち悪さが俺はあまり好きではなかった。
「持とうか?」
と、声を掛けたのは、だから半分くらいは親切じゃなくて、単に気持ち悪さを避けたかったからだ。
新見は一瞬きょとんとしてから、俺の顔を見て、ようやく誰か認識したみたいに小さく頷いた。
「あれ、えっと……暁くん、だっけ。別に気にしなくていいのに」
「そうは言っても、これ一人はキツいよ。先生に頼まれたの?」
「うん、学級委員だからって。管理棟の多目的室まで運びに行こうとしてたの」
管理棟は教室棟から少し離れていて、放課後になると急に人の気配が薄くなる。多目的室も、進路相談だの面談だの打ち合わせだので使う部屋らしいが、普段の生徒にはあまり縁がない。鍵も職員室管理だ。
山になった書類の半分を持つと、横からすっと紙束に伸びる手があった。雫が当然みたいな顔で一束抱えている。
「お前まで持つのか」
「暇だし」
「お前、さっきまで早く帰ってプリン食べたいとか言ってただろ」
「それはそれ、これはこれ」
新見はもう一度だけ目を丸くして、それから今度こそ素直に「……助かる」と言った。
―◆―◇―◆―◇―◆―
「多目的室の鍵、借りないとだね」
新見が書類の山越しにそう言った。
多目的室を使うには、職員室で鍵を借りる必要があるらしい。管理棟にある部屋だから、行くついでにそのまま借りてしまうのが早いとのことだった。
俺たちは書類を抱えたまま、管理棟の職員室へ向かった。
放課後の職員室は、思ったより騒がしい。コピー機の唸る音、誰かが書類をめくる音、赤ペンで何かを書き込む音。開いた扉から流れてくる空気は、インクと紙と、少し古い冷房の匂いがした。
「わわっ、ちょっ」
俺は雫の抱える書類の上に、自分の分を容赦なく重ねた。そのまま両手が空いたところで、何食わぬ顔で職員室に入る。
「両手空いてる方が早いだろ」
「後で覚えてなさいよ、湊」
後ろでぶつぶつ言う声を聞き流しながら、壁際のキーボックスに目をやる。部屋番号と名称の書かれた札が並ぶ中から、多目的室の鍵を探す。すぐ横には貸し出し表があり、日時、氏名、返却時刻を書く欄が設けられていた。
ペンを取って、名前を書く前に1つ上の行が目に入る。今日の日付の欄はまだ空白で、そのさらに上、昨日の日付のところにだけ、誰かの名前が残っていた。
そう確認してから、自分の名前を書き込む。
「暁くん、ありがと。そこまでしてもらって」
「別に」
新見は職員室の中へまでは入らず、扉の前で書類の山を抱え直していた。朝の廊下で白岡と揉めていた時とは違って、今はもう普段通りの顔に戻っている。少なくとも、戻そうとしているようには見えた。
鍵をキーボックスから外して振ると、小さく金属が鳴る。
「よし、これで大丈夫だ」
そうして俺たちは、鍵を手に多目的室へ向かった。




