マグカップ分の譲歩 9
水槽と化した部屋に加えて、誰かが持ち込んだマグカップの存在。
新たに紛れ込んだ不可解な事象であることは事実だが、それにしても一体誰が――。
先ほどリビングで集まったときに、このことを告白する者はいなかった。
意図的に隠したとでも言うのだろうか。
夕凪寮の寮友たちの顔を思い浮かべる。
くだらないことで喧嘩したりもするが、一年と少しを一緒に過ごした、家族のような存在だ。
今更悪意を持ってこんなことをする奴がいるとは、思いたくなかった。
けれど、もしそうだとしたら……。
俺は嫌な想像を払拭するように首を振った。そうして無理やり気持ちを切り替えなければ集中出来そうになかった。
「仮説はある」
そう切り出すと、雫が興味深そうにこちらを見る。
「はやっ」
「まあな。……お前がもう出た後だから知らないだろうが、実は俺もあの後少し体調を崩したんだ」
雫と希が駅前のグランパレットへ向かい寮を出た後、強烈な眠気に襲われ、部屋で仮眠を取っていた。
そのことを伝えると、雫は口をとがらせた。
「やっぱり私の方が反動が強いんだ。なんか不公平」
「俺に言うな。続けるぞ」
俺は順序立てるように人差し指を立てた。
「まず俺が寝る前。部屋を出て一階に降りる時も、眠気に襲われて部屋に戻った時も、このマグカップはなかった」
そこに早速雫が言葉を挟む。
「すごく眠かったんだよね? 見落としている可能性は?」
「晴の部屋みたいにとっ散らかってるのならともかく、この量だぞ。さすがにあれば気づくよ」
テーブル、椅子、ベッド。それにテープで封じられた段ボールが二箱。
独房と揶揄された殺風景な部屋が、こんな形で役に立つとは思わなかった。
雫は一応納得してくれたようで、返事の代わりに頷いた。
俺はそのまま続ける。
「つまり、マグカップが置かれたのは、俺がここで寝入ってから起きるまでの間。ダイニングで晴と話してたのが十一時くらいで、起きた後にみんなでリビングに集まったのが十四時くらいだった」
実際にはこの部屋で起きて部屋を出た後、他に異変がないか寮内を探索したため、起きた時間はもう少し早いはずだ。
だが、幸か不幸か、俺が騒音とともに部屋の前に倒れたところで寮内の全員が集合したため、そこからの数分で何かが出来たとは思えない。
つまり大雑把には、その三時間ほどが問題になる。
「その間に誰かがこの部屋に入って、マグカップを置いた。普通に考えるなら、そうなる」
言いながら、自分でも少し嫌なものを感じていた。
夕凪寮の誰かが、俺の寝ている部屋に入った。
その可能性を考えるだけで、胃のあたりが重くなる。
雫が、浮かんでいる白いマグを見たまま言った。
「湊が起きたときに見たマグカップは白昼夢の幻影で、その後に実物とすり替えられた可能性はないかな」
「そんなこと可能なのか?」
マグの見た目は、俺が起きがけに見たものと同じものに思える。
ただ、あの時は半分寝ぼけていたし、部屋全体が水槽みたいになっていた。最初に見たものと完全に同じかどうか、今となっては断言しづらい。
「まあ、ほとんどないとは思うけど。不可能じゃないよ」
ふむ、と俺は少しだけ頭を巡らせた。
その時、二階のどこかで扉が開く音がした。床板が鳴り、足音が階段の方へ遠ざかっていく。俺は無意識に耳を澄ませていた。
「……いや、やはりそれは厳しいと思う」
雫は静かに続きを待っている。
「これだけ古い寮だから、今みたいに誰かが動けばそれなりに目立つんだ」
リビングで解散した後、寮生たちはそれぞれの部屋や一階に散っている。完全に誰も動けなかったわけではない。
それでも、俺の部屋には近づかないように話してある。そんな中で、誰かに見られるかもしれないのに、わざわざ部屋へ近づいてマグを差し替えるのはリスクが高すぎる。
白昼夢そのものは、発動者がその場にいなくても起きることがある。
でも、このマグは違う。実物である以上、誰かが物理的にこの部屋の近くまで持ってくる必要がある。
「それはそうだね。特に今はみんな警戒してるだろうし、余計目立っちゃう」
俺はその言葉に頷いた。
つまり、俺が起きて最初に見たマグカップは、その時点で実体だったと考えた方がいい。
「今考えられる一番自然な線は、誰かが俺の寝ている間に部屋へ入ってあれを置いた、というところだろうな」
単なる事実の確認のつもりだったが、思ったより自分の声が硬くなっていたことに気づいた。
水槽になった部屋の中で、実体のはずの白いマグカップが、何よりも異質なもののように感じられた。




