マグカップ分の譲歩 8
二階に上がって三つ目の部屋。その扉は今は閉じられ、中の様子は窺い知れない。
寮生たちとは、決して不用意に近づいたり、扉を開けたりしないよう話し合っていた。
頼まれなくても進んで触りたいようなものではないが、あいにくここは俺の部屋だ。
「まあ、部屋と呼べるか怪しいくらいの物の量だが」
生活に最低限必要な道具以外を段ボールに詰め込んだ、空疎な空間。
以前晴に見られた時は、独房じゃん、とからかわれたものだが、あながち的外れでもない。
そんな俺の呟きを聞いているのかいないのか、隣に立つ雫は、いつか学校の多目的室の前でそうしたように、部屋の扉をじっと見つめていた。
つられて俺も扉に目を向ける。何度も触ったはずの真鍮の握り玉は、よく見ると塗装が斑に剥げ、見たことのない異物のように感じられた。
ごくり、と喉が無意識に鳴る。
白昼夢と化した自室に入ることに、恐怖心がないわけではない。
その渦中ですやすやと寝ていたのだから、何を今更と我ながら滑稽ではあるが、それでも怖いものは怖いのだ。
しかし、今は隣に雫がいる。
雫の考えていることは、今でもよく分からない。
それでも、雫の白昼夢を視る力だけは、信頼していた。
「大丈夫。開けても問題ないよ」
しばらくしてから、軽い調子でそんなことを言った。
俺はそれに頷き、扉を開けた。ぎぎぎ、と蝶番の軋む音がかなり耳障りに響く。少しだけひんやりとした空気が部屋の中から漏れる。それは水滴が触れるわけでもないのに、どこか湿っぽいような気がした。
覗き込んだ部屋は、まだ水槽のままだった。
テーブルに椅子、ベッド、二つの段ボール。そして見慣れない白いマグカップ。
それらのすべてが、重さを忘れたかのように宙に浮き、ゆっくりと漂っている。
変わらない景色。
あの中で、どれほどの時間かは分からないが、俺は過ごしていた。
その事実が、この異質な光景にまざまざと突きつけられて、背中に嫌な汗が流れるのを感じた。
「おお、本当に浮いてるね!」
対する雫は相変わらず呑気だった。何がそんなに嬉しいのか分からないが、どうやらお気に召したらしい。
そしてしばらくはしゃいでいたかと思うと、ずいっと部屋の中に入ってしまった。
その瞬間、雫の身体がふわり、と浮き上がった。
――同じだ。俺のときと。
それは激しいものでも、急なものでもない。ただゆっくりと、流れるようにその身体を誘う。
雫は踊るように一回転し、そのまま俺の方を向いた。
「あはは! たしかに水の中みたい」
先ほどまでグロッキーだったのが嘘みたいに、その表情は軽やかで。
俺なんて上下逆さまになって、バタバタと見苦しく手足を動かしていたというのに、まだまだ余裕のありそうな雫の様子が、無性に腹立たしかった。
雫に早く早く、と促され、俺も恐る恐る指先を部屋に入れる。
内外の境を越える際、少しだけ抵抗感があった。先に入った右手が急に軽くなる。
右肩まで入り、頭が入る瞬間、無意識に目を閉じ、呼吸を止めてしまう。
身体が全部入った段階で、独特な浮遊感に包まれた。
目を開けると、にやけ顔の雫がこちらを見ていた。
このままだと確実にからかわれると思った俺は、先手を切った。
「で、どうだ? 何か分かりそうか」
雫は部屋の中を見回すと、やがてその視線が一点に止まる。
「ん~、あれなんだろ」
指さした先にあるのは、白いマグカップ。
俺にも見覚えのない、元々の部屋にはなかった物が、他の家具に混じってそこにある。
そのマグの元へ近づき、より細部が見える場所へと進んだ。
「これ、白昼夢だと思うか? 少なくとも俺は見覚えがないんだが……」
雫は視線の位置を変えながらマグ全体を見渡すと、首を振った。
「ううん。これは実物。白昼夢が作ったものじゃない」
「そうなのか」
「底に刻印があるし、取っ手の内側に細かい傷もある。こういう生活の跡は、白昼夢の飾りとは違う」
俺はもう一度マグを見る。確かに、底にはメーカーの刻印らしきものがあった。
取っ手には細かい傷があり、その根元には細い包装紐が絡んでいる。
もとは紙箱か何かに結ばれていたものだろう。水のない水中でほどけかけているのに、結び目だけは残っていた。片方の輪だけが小さい、少し変わった蝶結びだった。
少し変わった結び方だと思ったが、今はそれよりもマグそのものの方が気になった。
実体はあるのに見覚えがないということは、つまり……。
「これだけ外から持ち込まれたってことか」
「そうなるだろうね」




