マグカップ分の譲歩 6
その後、遥と結が中心になって他の部屋も確認した。
だが、白昼夢の影響下にあるのは、やはり俺の部屋だけだった。
時刻は十四時。
一通りの確認を終えた俺たち寮生は、共用リビングに集まっていた。
雨のせいで外の光は鈍く、リビングの中まで薄暗い。普段なら誰かしらの声が飛び交っている場所なのに、今は妙に静かだった。晴ですら、いつもの軽口を探し損ねたような顔をしている。
そんな中、玄関の扉が開く音がした。
続いて、がさがさと紙袋の音が近づいてくる。
「みんな、ただいまー! って、あれ?」
現れたのは希だった。腕にいくつもの紙袋を引っかけ、背中にはぐったりした雫をおぶっている。
さすがに何か異常が起きていることには気づいたらしく、希のいつもの笑みが途中で止まった。
「どうしたんですか、この空気」
「後で話すよ。それより、雫こそどうしたんだ?」
「いやぁ、それが。しばらくお店を回ってたら、急に顔色が悪くなりまして。病院行こうって言ったんですけど、『いいから寮に戻って』って」
おぶわれた雫は真っ青な顔で、希の肩に額を預けていた。
「……ぎぼぢわるい」
絞り出すような声だった。
年頃の娘としてどうかと思う言い方だが、今は突っ込む気になれなかった。
希は慎重にリビングへ入り、雫をソファへ下ろした。雫はそのまま丸くなると、浅い寝息を立て始めた。
隣を見ると、晴が「だから言ったろ」とでも言いたげな目でこちらを見ていた。
「……分かってるよ」
俺は言い訳する前に、ソファのそばへ寄った。
膝をつき、雫の顔を覗き込むくらいの距離まで近づく。すると、ほんの少しだけ雫の眉間の皺が緩んだ。浅かった呼吸も、わずかに落ち着く。
こういう反応を見るたびに、いよいよ冗談ではないのだと実感する。
それで、と希が持ち帰ってきた紙袋を床に置きながら言った。
「一体何があったのですか? どう見ても様子がおかしいですけど」
俺は短く説明した。
自分の部屋で白昼夢が発生したこと。範囲は俺の部屋だけであること。部屋の中では家具や段ボールが水中のように浮いていて、見覚えのない白いマグカップまで漂っていたこと。
説明が終わると、希はしばらく口を開けたまま固まっていた。
「にしても、やっぱり湊さんって持ってますよねー……。この前のバースデーケーキのことと言い、一体何回巻き込まれれば気が済むんです?」
晴が横で吹き出す。
「希ちゃんもそう思うよな!? ほんと……ふは、湊って面白えやつ」
俺は晴の腹を思い切り肘で小突いて黙らせた。
「好きでこうなってるわけじゃねえよ」
そう言い返してから、俺はソファで丸くなっている雫を見る。
雫はまだ青い顔をしている。けれど、寮に戻ってからは少しずつ落ち着いてきているようだった。
湊の怪我を確認したり、どこかへ電話をかけたりと慌ただしく動いていた真弓さんも落ち着いたのか、救急箱を抱えたままリビングへ戻ってきた。彼女は俺たちの輪には入らず、少し離れたところで話を聞いていた。
それでようやく、頭を切り替える余裕ができた。
「とにかく、元に戻すしかない」
俺が言うと、リビングにいた全員の視線がこちらへ集まった。
「白昼夢は、たいてい核になった人の感情に結びついて起きる。今回変わっているのは俺の部屋だけだ。廊下も、他の部屋も、外も普通だった」
言いながら、俺はさっき見た光景を思い返す。
浮いていたのは、俺のベッド、丸テーブル、椅子、段ボール。どれも俺の部屋にあったものだ。
「つまり、外で偶然起きた白昼夢が流れ込んできたわけじゃない。あれは、俺の部屋に向けられた感情で起きてる」
晴の笑いが、途中で止まった。
それだけで、リビングの空気が変わったのが分かった。
「核は、この夕凪寮の中の誰かだ」
雨音だけが、窓の外で続いていた。




