マグカップ分の譲歩 5
ここまで来て、俺は自分が息を止めていたことに気づいた。
水の中にいるように見えたからだ。けれど、身体は濡れていない。服も、シーツも、浮いている段ボールも、浸水している様子はなかった。
恐る恐る息を吸う。
普通に吸えた。
「……水じゃないのかよ」
声に出すと、音が少しだけ鈍く響いた。水中みたいにくぐもっているわけではない。ただ、部屋の空気そのものが重くなっているような、妙な抵抗感がある。
俺は上下逆さまに漂ったまま、手足をゆっくり動かしてみた。空気を掻いているはずなのに、腕には確かな手応えがあった。何度か不格好にもがくうちに、身体はゆっくり回転し、ようやく頭が上を向いた。
どうやらこの空間では水の中と同じように泳ぐことが出来るらしい。
認めたくはないが、どう考えても白昼夢だった。
問題は、どこまでがその範囲なのかだ。
俺は窓の方へ身体を向ける。外の景色は雨に濡れてぼやけていたが、駐輪場の自転車も、庭先のバケツも、地面に置かれたままだ。少なくとも、窓の外は普通に見える。
なら、異常はこの部屋だけなのか。それとも、寮の中まで広がっているのか。
それを確かめるには外へ出るしかない。そうして反対側へ身体を向けると、部屋の入口へ向かって泳ぎ始めた。
俺は壁を蹴るようにして、扉の方へ向かった。実際には蹴った感触もふわりと逃げるだけで、思ったほど進まない。何度か腕を掻き、ようやくドアノブに手が届いた。
ノブを捻り、少しだけ扉を開く。廊下の空気が、隙間からまっすぐ流れ込んできた。
息を吐いてから、慎重に身体を押し出す。
次の瞬間、身体が重さを思い出した。
「うわっ」
視界が落ちる。
さっきまでどこにも引っ張られなかった身体が、いきなり床へ叩きつけられる。受け身を取る余裕もなく、俺は共用廊下に打ち付けられた。
背中と肘に衝撃が走る。
「いっ……!」
大きな音がした。自分でも驚くくらい派手な音だった。
すぐに、二階のあちこちで扉の開く音がする。
「何だ今の音!」
最初に顔を出したのは晴だった。廊下に倒れている俺を見るなり目を丸くする。
「湊? 何してんの?」
「見れば分かるだろ。落ちたんだよ」
「どこから?」
「……部屋から」
言っていて自分でも意味が分からなかった。最初は深刻そうな顔をしていた晴の口元が、じわじわと緩んでいく。
続いて遥が部屋から出てきて、俺の姿を見るなり駆け寄ってくる。
「湊!? 大丈夫? 頭打ってない?」
「大丈夫。たぶん、肘だけだ」
結も少し遅れて廊下に顔を出した。俺を見るより先に、開いたままの部屋を見て、目を細める。
「……部屋の中、何か浮いてない?」
その一言で、全員の視線が俺の部屋へ向いた。
開いた扉の向こうでは、段ボール箱がゆっくりと回転していた。丸テーブルも、椅子も、ベッドも、床から離れて漂っている。その中で、白いマグカップが丸テーブルの少し上で静かに揺れていた。
だが、廊下は普通だ。床は固いし、俺はちゃんとそこに倒れている。
階下から慌ただしい足音が上がってきた。
「どうしたの、今すごい音が――」
真弓さんが階段を駆け上がってくる。俺を見るなり顔色を変え、すぐにしゃがみ込んだ。
「湊くん、怪我は? 頭、打ってない?」
遥とまったく同じことを聞かれて、少しだけ緊張が抜けた。
「はは。大丈夫です。たぶん」
「笑い事じゃないわよ、まったく……」
真弓さんは俺の腕や肩を確かめる。その途中で、開いた部屋の中へ目を向けた。
浮いている段ボール。
宙に揺れるベッド。
丸テーブルの上あたりを漂う、白いマグカップ。
そのマグを見た瞬間、真弓さんの口がほんの少しだけ開いた。
けれど、何かを言うより先に、彼女は俺の腕を取った。
「とにかく、立てる?」
真弓さんの声は落ち着いていた。けれど、俺を支え起こしながらも、その直前、視線が一度だけ部屋の中の白いマグに引っかかったように見えた。
どうやらこの水槽みたいな白昼夢は、俺の部屋だけに起きているらしい。




