マグカップ分の譲歩 4
どれくらい眠っていたのか分からない。
目を開けると、西向きの窓から薄い陽が差し込んでいた。雨はまだ降っているらしく、窓の外の景色は白く滲んでいる。
意識は少しずつ身体に戻ってきた。さっきまでの抗いがたい眠気は、いくらか薄れている。
しかし、体調とは裏腹に、何かがおかしい。
薄く開いた視界から入る天井がゆっくりと揺れている。
右へ、左へ――。視界の端がゆっくり波打つ。
めまいかと思ったが、違う。俺の頭が揺れているのではなく、部屋そのものが水の中に沈んでいるみたいに見えた。
窓から差し込む光もまっすぐではなく、夏のプールの底から空を見上げたときのように、薄く折れ曲がっている。
水の中にいるのか。
そう思ったが、肌は濡れていない。息もできる。シーツも服も、乾いたままだ。
身体を起こそうとして、足をベッドの外へ下ろした。
そしてその足が床に触れることはなかった。
「……は?」
寝ぼけた頭が、そこでようやく追いつき始める。
足先は何も踏まないまま、ゆっくり下へ沈んでいく。いや、沈んでいるというより、宙に投げ出されている。慌てて上体を起こすと、今度は額が天井にぶつかりそうになった。
――天井? いや、おかしい。俺の部屋の天井がそんなに低いはずはない。
しかし、目の前に映る白い板張りは、どう見ても自分の部屋の天井だった。
俺はようやく、自分がベッドごと浮いていることに気づいた。
理解した瞬間、身体が余計な力を入れた。浮いていたベッドが、ゆっくりと傾く。水面に浮かぶ板切れみたいに、頼りなく角度を変える。
「ちょ、待っ――」
掴む場所を探したが、遅かった。
身体がベッドから離れる。
落ちる!
反射的に身構えたが、床に叩きつけられる衝撃は来ない。
代わりに、身体はゆっくりと回転しながら空中に漂っていた。
眼下に映る床は、普段見ているものよりずっと遠い。
俺は、部屋の中ほどに浮いていた。
息を呑んで周囲を見回す。丸テーブルも、椅子も、隅に置いたままだった段ボール二箱も、全部が水の中の漂流物みたいにゆっくり揺れている。
段ボールは口を閉じたまま、角をこちらに向けたり、背を向けたりしながら回っていた。
実際に水があるわけではない。
それでも水めいた何かに、部屋は満たされていた。
窓の硝子が反射し映し出す景色に、俺はあるものを連想した。
――水槽。
俺の部屋は、水槽になっていた。
そして、丸テーブルの上あたりに、ひとつだけ見覚えのないものが浮いていた。
白いマグカップ。
さっき眠る前には、あのテーブルの上には何もなかった。
少なくとも、俺の部屋にあんなマグはない。
なのにそれは、そこに置かれているというより、そこにたどり着く途中で止まったみたいに、ゆっくりと揺れていた。




