マグカップ分の譲歩 3
それからしばらく、俺は何をするでもなくダイニングにいた。
雨はまだ止まない。窓ガラスに細い水の筋がいくつも走っていて、外の景色は薄く滲んでいる。雫と希が出ていったあと、寮の中は急に静かになった。希の声量が場の照明みたいな役割をしていたのだと、いなくなってから分かる。
そして、十一時頃になって、晴が階段を下りてきた。
互いに短く挨拶を済ませると、晴はそのまま台所の戸棚を物色し始めた。菓子でも探しているらしい。袋を取り出しては戻し、また別の袋を引っ張り出す。
いいのねえなぁ、とぼやいていたが、ようやく気に入るものを見つけたらしく、ポテトチップスの袋を手に戻ってきた。
「湊も食べるか?」
そう言って差し出してきたのは、ポテトチップスの袋だった。
たった今朝食をもらったばかりで、さすがに腹に入りそうにない。
軽く断ると、晴はそう、とだけ言ってスマホを開いた。
希ほど騒がしくはないが、晴も基本的には明るい男だ。ただ、少人数の時は無駄に踏み込んでこない。俺がそこまで喋る方ではないのを知っていて、適当な距離にいてくれる。
少しして、そういえば、と晴が顔を上げた。
「雫ちゃん、いないのか? 最近じゃ珍しいな」
「さっき希と出かけていったよ」
それを聞いた晴の手が止まる。
「お前、体調大丈夫なのか?」
一ヶ月前のあの一件以来、俺と雫には妙な制約ができている。俺たちは便宜上、それを『リーシュ』と呼んでいた。紐が実際に結ばれているわけではない。けれど、一定以上離れると雫の体調が悪くなる。距離や時間によっては、俺の方にも眠気や倦怠感のようなものが出る。
それを破ると即座に命が危険にさらされるような、そんな危険なものではない。
ただ、その被害者である俺と雫にとっては意外と、いや、かなり面倒くさい。
俺は答えようとして、しかし言葉を飲み込んだ。たしかに、さっきから身体が少し重い。雨の日特有の眠気だと思っていたが、言われると別の理由があるようにも思えてくる。
ポテトチップスの袋が擦れる音が、少し遠く聞こえた。
「おい、ちょっと顔色悪いぞ。本当に大丈夫かよ」
晴が気を遣っているが、その声も徐々に遠ざかっていく。
「……ああ、いや、大丈夫だ。寝れば治るよ」
俺は立ち上がろうとして、思ったより膝に力が入らないことに気づいた。
眠すぎる。単に寝足りないとか、雨で気分が重いとか、そういう種類の眠気ではなかった。
意識の底を、見えない手でゆっくり引かれているような感覚。視界の端が少し暗くなる。
―◆―◇―◆―◇―◆―
俺は必死に何でもない風を装いながら、晴に軽く手を振ってダイニングスペースを後にした。
階段を上る足は、いつもより少し重かった。
木の段板が一段ごとに、きい、と小さく鳴る。その音が普段より近く聞こえるのは、頭がぼんやりしているせいかもしれない。
二階の廊下に出ると、さっき見た頭上の電球がまた一度だけちかりと瞬いた。
自室の扉を開けると、雨音が窓の向こうで続いていた。細かい雨粒が硝子に張り付き、部屋の中まで薄い湿気を運んでくる。
中は、朝と何も変わっていなかった。
簡素なベッド。低い丸テーブル。椅子。隅に積まれた段ボール二箱。
丸テーブルの上には、何もない。
俺は遮るもののない床を進み、ベッドに腰を下ろした。
その瞬間、身体の重さが一気に増した気がした。背中から誰かに押さえつけられているような、あるいは、部屋の空気そのものが湿った毛布になったような感覚だった。
雨の音が少し遠くなる。
「あいつ、どこまで行ったんだよ……」
そう呟いたところで、返事があるはずもない。
俺はそのまま横になった。洗いたてのシーツに残るかすかな洗剤の匂いと、雨の匂いが混ざっている。目を閉じると、意識は思ったより早く沈み始めた。




