マグカップ分の譲歩 2
俺にマグを渡すなり早々にダイニングテーブルへ戻った雫を横目に、コーヒーに口をつける。苦みの深さが直接脳に届き、世界が一段明瞭になったように感じる。こんなに美味しいのに、と思いながら、残った分を飲み終えた。
流しで飲み終わったカップを水洗いしていると、台所の奥から真弓さんが顔を出した。
「湊くん、おはよう。よく眠れた?」
その朗らかな笑みを見て、朝食の時間に遅れてしまったことが頭をよぎった。
「おはようございます。その、すみません、こんなに寝過ごしてしまって」
真弓さんは少しだけ目を丸くしたが、すぐに何でもないことのように微笑んだ。
「いいのよ。土曜日なんだから。お腹空いたでしょう、朝ごはん食べる?」
俺が返事に迷っていると、ダイニングテーブルに突っ伏していた雫が片手を上げた。
「はーい、私お腹減った!」
真弓さんと目が合う。どちらからともなく、少し笑ってしまった。
「ほら、じゃあ湊くんも。テーブルに座ってて」
「ありがとうございます。お言葉に甘えます」
そう言って、洗い終えた共用マグを水切りラックに置く。
その手元を見ていた真弓さんの声が、ほんの少しだけ柔らかく沈んだ。
「湊くん、まだ共用の使ってるの?」
責めるような言い方ではなかった。
それでも、ただの世間話でもないことは分かった。
「まあ、これで足りますし」
そう答えると、真弓さんは少しだけ困ったように笑った。
何か言いかけて、結局飲み込む。
「……そう」
それ以上は追及してこなかった。
―◆―◇―◆―◇―◆―
真弓さんは二人分の朝食を手早く準備すると、洗い物だけお願いね、と言って外行きの上着を羽織った。買い出しへ向かうのだろう。しばらくして玄関の扉が開閉する音がして、ダイニングはまた静かになった。
他愛のない会話をしながら雫と朝食を終えたところで、雫が思いついたように顔を上げた。
「ねえねえ、暇ならどこか遊びに行こうよ」
ずっと寮に閉じこもっているのは、確かに退屈だ。雫は休日になると、よく外へ出たがる。俺も特に用事がなければ付き合うことが多かった。
しかし、と俺は窓の外に目を向ける。灰色の空から落ちる雨は、一向に止む気配がない。むしろ時間が経つにつれて、庇を叩く音がはっきりしてきている。
「うーん、でも今日は多分一日こんな感じだぞ」
遠回しに断ったつもりだったが、雫は納得していない顔でこちらを見る。
「そんな顔で見られてもな……」
そんなやり取りをしていると、共用スペースの入口から新しい声が飛んできた。
「話は聞かせてもらいましたよ、雫ちゃん!」
希だった。なぜか入口の木枠にもたれかかり、片手を胸に当てて決め顔をしている。
「あ、湊さんもどうも」
元気な声をダイニングに響かせると、ずかずかとダイニングへ入ってきた。相変わらず賑やかなやつだ。雨の日の沈んだ空気を、瞬く間に押し返してしまった。
「おはよ。雫が外に行きたいんだとよ」
希は得意げに頷いて胸を張った。
「うんうん、そうでしょうとも。でしたら雫ちゃん、私と一緒にグランパレットへ行きましょうか! 放送部のネタにもなりますし、中なら雨にも濡れませんよ」
その提案に、雫はおお、と分かりやすく目を輝かせた。
グランパレットは今年になって完成した駅前の大型複合モールだ。『様々な色が交わる場所』をテーマに、ファッションや雑貨・食料品に至るまで多様なテナントが集まっているらしく、クラスでも何度か名前を聞いた。
雨の日に時間を潰すには、確かにちょうどいい場所ではある。
「駅前まで行って、体調は平気なのか」
俺が少しだけ声を落として聞くと、雫は少しだけ考え込む。
「うーん、分かんない。けどまあ、ものは試しよ」
能天気にそんなことを言うと、もう頭の中は外出の一色に染まっているらしく、さっきまでの眠たげな様子とは打って変わって、足取りまで軽くなっていた。
それから二人は、あっという間に支度を済ませた。雫は玄関で靴を履きながら、まだ椅子に座ったままの俺を振り返る。
「へっ、後悔すんなよ!」
そう捨て台詞を残し、雫は希と一緒に雨の中へ出ていった。
玄関の扉が閉まる。
ダイニングには、雨音と、使い終えた食器の匂いだけが残った。




