マグカップ分の譲歩 1
七月の土曜日。窓の外で、雨が庇を叩いていた。
ぽつ、ぽつ、というより、細かい粒が絶えず跳ねている音だ。梅雨の終わりかけに降る雨は、やたら湿っていて、眠っている間に部屋の中まで少し重くする。
目を開けても、しばらく天井を見ていた。白い天井板には、細い染みが一本走っている。入寮した日からあったものだ。直すでもなく、広がるでもなく、ただそこにある。
身体を起こすと、部屋の隅に積まれた段ボールが二箱目に入った。昨日届いた荷物ではない。去年、夕凪寮に入った日に、実家から送られてきたものだ。最初の一週間くらいは、そのうち開けるつもりでいた。次の一ヶ月も、まあ必要になったら開ければいいと思っていた。
そうして、一年と少し経った。
別に、困ってはいない。制服と最低限の衣類、教科書、充電器。生活に必要なものは出してある。逆に言えば、それ以外は出していない。
ベッド。低い丸テーブル。椅子。壁際の段ボール。この部屋にあるものを数えるのは簡単だった。
壁にはポスターも写真もない。棚に本も並んでいない。丸テーブルの上にも、今は何もない。昨夜使ったスマホの充電器だけが、床の端で黒い線になっている。
片付いている、というのとは少し違う。たぶんこれは、まだ部屋になっていないのだ。
自分のものを置かないことに、これといった理由があるわけではない。面倒だからでも、ミニマリストを気取っているからでもない。
ただ、いつか出ていくかもしれない場所に、あまり物を増やしたくない。それだけの話だった。
ベッドから足を下ろす。古い床板が小さく鳴った。
扉の上には、換気用の小窓がついている。夕凪寮の部屋にはどこも同じものがある。真弓さんは「昔の風通しの知恵よ」と言っていたが、俺にとっては、閉まりの悪い古い窓でしかなかった。
今朝もその隙間から、湿った廊下の空気が少しだけ流れ込んでいる。
俺はしばらくそれを見上げてから、ようやく立ち上がった。
―◆―◇―◆―◇―◆―
築半世紀を越える夕凪寮は、文化財めいたありがたみのある建物ではない。住んでいる側からすれば、ただの古い木造家屋だ。二階の廊下へ出て板張りの床を踏むと、足元で小さく、きい、と音がした。
雨の日の朝は、寮の中まで少し暗い。廊下の窓から入る光は弱く、壁の色もいつもより沈んで見える。天井から下がった古い丸い照明が、申し訳程度に床を照らしていた。
そのうちの一つが、頭上でちかりと瞬いた。
昨日の夜からそんな調子だった気がする。晴なら「こういう古さも味だろ」とか言いそうだが、単に替え時なだけだと思う。
階段を下りる途中、一階奥の使われていない部屋の扉が目に入った。今は物置代わりになっていて、季節外れのヒーターや掃除道具、脚立、古い備品なんかが押し込まれている。普段は施錠されていて、用がなければ誰も近づかない場所だ。
一階へ降りると、リビングとダイニングがひとつながりになった共用スペースに出る。食事どきになれば寮生が集まる場所だが、夕凪寮はそもそも小さい。今いるのは、郷土文化研究会の連中と、放送部の希くらい。そこに最近、雫が増えた。
壁の時計は十時を指していた。
普段の休日なら八時頃には起きているから、少し寝すぎたらしい。どうりでダイニングテーブルにもリビングにも誰もいないわけだ。みんな朝食を済ませて、部屋に戻るか、どこかへ出かけたのだろう。
共用スペースの灯りは落とされていて、雨の光だけが床に薄く残っていた。人のいないリビングは、さっきまで誰かがいた気配を残したまま、もう一度眠りに戻ったみたいだった。
―◆―◇―◆―◇―◆―
食器棚から共用のマグカップを取り出し、コーヒーを淹れようとしたところで、廊下から軽い足音が聞こえてきた。見ると、寝間着姿の雫がふらふらとダイニングへ入ってくるところだった。
「あれ、湊。おはよう」
「よう。お前も今起きたのか?」
「うん。なんだかずっと眠くて……くぁ」
言い終える前に、小さく欠伸をする。
雫はそのまま俺の隣まで来ると、ポットから注がれるコーヒーをじっと見た。
目の前に立つ彼女は、視界にすっぽりと収まってしまうほど小柄だった。
小動物を思わせる丸い輪郭に、ちんまりとした口元。低い位置でリボンごと束ねられた黒髪は、毛先がふわふわと遊んでいて、全体的に柔らかい輪郭を描いている。
けれど、その愛らしい造形の中で、ひどく深い黒色をした瞳だけが、静かな湖水のように彼女の感情を隠していた。
そんな風に観察していると、徐に雫が口を開いた。
「今日は残ってたんだね、コーヒー」
「ああ。真弓さんが気を利かせてくれたからな」
視線を向けた先には、同じエアーポットがもう一台置かれている。
少人数の寮だからポット一つで足りると思われていたらしいが、俺や晴を含め、思ったよりコーヒーを飲む人間が多かった。朝のうちに補充されても、気づけば空になることが何度か続き、ついに真弓さんがもう一台増やしてくれたのだ。
ありがたい話である。
自分で淹れろと言われたら、誰も反論できないのだが。
俺が並々と黒い液体の入ったカップを見つめていると、雫が物欲しそうな目をこちらに向けた。
「……コーヒー、もう二度と飲まないって言ってなかったか?」
「今日はなんかいける気がする」
「他のマグ使えばいいだろ」
「いや、それほどではない」
雫は両手を差し出したまま、一向に引き下がりそうにない。
俺は諦めて、マグカップを渡した。
雫は両手で受け取ると、ゆっくり口元へ近づけ、こくんと一口だけ含んだ。
そして、すぐに顔をしかめる。
「……やっぱり無理」
苦味を追い出すように舌先を少し出して、あっけなくカップを俺に返してきた。液面を見る限り、二ミリくらいしか減っていない。
「お前は一体何がしたかったんだ」
ここまでお読みくださり、ありがとうございます!
第2章「マグカップ分の譲歩」スタートしました。
『神様失格』シリーズ自体は連作短編なので各章は独立していますが、
時間のある方は、第1章も読んでいただけると、キャラや世界観の理解が深まるかと思います。
引き続きよろしくお願いします(*^^*)




