八分の七バースデーケーキ 13
教師に短く事情を伝えてから、俺たちはもう一度、多目的室の前に立った。
規制テープはまだ廊下に残っている。昨日より物々しさは薄れていたが、扉の隙間から漏れてくる匂いだけは変わらなかった。木と紙と埃の匂いがするはずの管理棟は、そこだけが不自然に甘い。
新見は扉の前で足を止めた。白岡も同じように立ち止まる。二人の距離は、遠くはない。けれど、近いとも言えない。以前なら何も考えずに並んでいただろう二人が、今は互いの肩の位置を測りかねているように見えた。
俺は鍵を回し、扉を開ける。
多目的室は、まだケーキのままだった。
スポンジの床。ビスケットの長机。チョコレートになったホワイトボード。飴細工のカーテン。どれもさっき見たままなのに、新見と白岡がそこに入った瞬間、部屋全体の色が少しだけ変わったように見えた。
中央のホールケーキには、一切れ分の空白がある。
その欠けた場所だけが、今までよりもはっきり見えた。
新見と白岡は、長机を挟んで向き合った。俺と雫は入口のそばで足を止める。ここから先は、俺たちが干渉すべきものではない。
新見は、しばらくケーキを見ていた。
それから、小さく息を吸う。
「あの時、ケーキが一切れ余ったの」
白岡は黙っている。
「ただの余りだったんだと思う。誰かが切って、七人しかいなくて、だから一切れ余った。それだけ」
新見の指が、手の中の淡い水色の包みを握りしめる。音符のシールが、西日の中で小さく光った。
「でも、私はそれを見た時、詩乃の分だって思った」
白岡の視線が、ケーキの欠けた部分へ移る。
「勝手にそう思った。そう思えば、私は詩乃を完全に外したわけじゃないって、自分に言える気がした。……ずるいよね」
白岡はすぐには答えず、やがて頷いた。
「ずるい」
短い言葉だった。
新見は顔を上げられない。
「残すくらいなら、言ってよ」
白岡の声は荒くなかった。けれど、ひとつひとつの言葉がはっきりしていた。
「来なければいいって思ったなら、そう言えばよかった。来てほしかったなら、そう言えばよかった。無理しなくていいとか、体調悪いならとか、私のためみたいな言い方しないでよ」
新見は何も返せない。
「私がどうしたいかくらい、私に決めさせて」
その一言で、新見の肩が小さく揺れた。
白岡は続ける。
「昨日は、私も言いすぎたと思ってる。あんなところで怒鳴って、澪のこと責めて。……でも、傷ついたのは本当だから」
「うん」
新見はようやく頷いた。
「ごめん」
それは、これまでのどの言葉より短かった。飾りも、逃げ道もなかった。
白岡はすぐには何も言わない。
その沈黙の中で、長机の上のケーキがかすかに光った。
最初は、飴細工のカーテンが夕陽を反射したのかと思った。けれど違った。欠けていた一切れの輪郭が、内側から淡く滲むように揺れている。
白い皿の上に、何もなかったはずの場所へ、静かに一切れのケーキが現れた。
切り口は崩れていない。クリームも乱れていない。まるで、ずっとそこに置かれるのを待っていたみたいに、綺麗な一切れだった。
新見と白岡は、同時にそれを見た。
不思議と、それが何のために現れたのか、この場にいる全員が分かった。
新見は震える手で皿を取る。ほんの数センチの距離なのに、白岡の前へ置くまでずいぶん時間がかかった。
「……これも、今さらだよね」
白岡は皿を見つめたまま、しばらく動かなかった。
「今さらだよ」
そう言って、皿を自分の方へ引き寄せた。
たった、それだけ。
食べたわけでも、許したわけでもない。けれど、確かに受け取った。
その瞬間、皿の上のケーキが光の粒になってほどけ始めた。白いクリームも、赤いいちごも、チョコレートの飾りも、砂糖が水に溶けるみたいに輪郭を失っていく。
光は長机へ広がり、ビスケットだった天板がただの木目に戻る。スポンジの床が硬い床板へ戻り、クリームの壁が白い塗装へ変わる。飴細工のカーテンは、音もなく普通の布地に戻った。
甘い匂いが、少しずつ薄れていく。
最後に消えたのは、天井近くまで伸びていた紙の輪飾りだった。色とりどりの輪が細くなり、夕方の光の中へ溶ける。
多目的室は、ただの多目的室に戻っていた。
長机の上には、もうケーキもプレゼントボックスもない。
ただ、新見の手にはまだ、淡い水色の包みが残っている。
それだけは、白昼夢が作ったものではなかった。
新見はその包みを見下ろし、それから白岡の方へ差し出した。
「これ、今じゃなくてもいい。でも、受け取ってほしい」
白岡は包みを見た。
すぐには手を伸ばさなかった。
「あとで見る」
そう言って、ようやく包みを受け取る。
「あとで、ちゃんと文句も言う」
「……うん」
「まだ怒ってるから」
「うん」
新見の返事は、今度は少しだけ早かった。
白岡は多目的室の扉へ向かう。出ていく直前、一度だけ立ち止まった。
「……プレゼントは、ありがとう」
新見は顔を上げる。
「うん」
白岡が出ていく。
新見はその背中を追いかけなかった。ただ、包みをしまった白岡の鞄のあたりを、しばらく見ていた。




