八分の七バースデーケーキ 12
白岡が来るまでの数分間、新見はほとんど動かなかった。
部室棟一階、音楽室の脇にある小さな空き教室。壁際には使われていない譜面台が何本か畳まれて立てかけられ、窓際には古い椅子が積まれている。西日が床を斜めに切っていて、その光の端に、新見はフルートケースを抱えたまま立っていた。
自分で白岡を呼ぶことを了承したくせに、いざその時が近づくと、視線はずっと床に落ちたままだった。ケースの肩紐を撫でる指だけが、落ち着きなく動いている。
やがて、廊下の向こうから足音が近づいてきた。
白岡は入口のところで足を止めた。俺と雫を見て、それから新見を見る。朝の音楽室で話した時より表情は硬かったが、怒鳴り込んできたわけではない。何を聞かされるのか分からない人間の警戒が、背筋の伸び方に出ていた。
「……澪と話す場を作りたいって聞いた」
新見はすぐには答えなかった。フルートケースの肩紐を握る指が、一度だけ強くなる。
先に口を開いたのは新見だった。
「誕生日会だって書かなかったのは、わざと」
白岡の目が動く。
「詩乃が来なければいいって思った。水城くんと近くなるのが嫌だった。……それは、本当」
白岡は目を逸らさなかった。
「何となく、そうかもって思ったことはあった」
短い声だった。
「でも、そうじゃないって思いたかった。澪は応援してくれてるって、思いたかった」
新見は何も言わない。
その沈黙は、言い返す言葉を探しているというより、もう言い返せないことを分かっているように見えた。
俺はそこで口を挟んだ。
「新見さん。多目的室に、水城向けじゃなさそうなプレゼントがあった」
新見がこちらを見る。
「淡い水色の包みで、音符のシールが貼ってあった。あれ、白岡さんへのものじゃないのか」
「……知らない」
返事は早かった。けれど、その直後、新見の手がフルートケースの外ポケットを押さえた。自分でも気づいていないような動きだった。
白岡はそれを見逃さなかった。
「澪」
新見は動かない。
「それ、見せて」
「これは……」
「見せて」
白岡の声は大きくなかった。けれど、逃げ場を塞ぐには十分だった。
しばらくして、新見はフルートケースの外ポケットに手を入れた。取り出したのは、小さな包みだった。淡い水色の包装紙。角に貼られた金色の音符のシール。何度も触れたのか、包み紙の端だけが少し柔らかくなっている。
白岡は、その包みを見た瞬間に息を止めた。
「これ……前に私が可愛いって言ったやつだよね」
新見は答えない。
「駅前の雑貨屋で。今使ってる譜面クリップが古いから、こういうの欲しいって言った時の」
白岡は一つずつ確かめるように言った。
「覚えてたんでしょ」
新見の喉が小さく動く。否定しようとしたのかもしれない。けれど、できなかった。
「買っただけ」
ようやく出てきた声は、弱かった。
「私に?」
新見は視線を落としたまま、包み紙の端を握りしめる。答えはない。けれど、その沈黙は否定ではなかった。
白岡は小さく息を吐いた。怒りが消えたわけではない。むしろ、怒る理由が一つ増えたような顔だった。
「澪が私を全部外したかったわけじゃないのは分かる」
白岡の視線は、新見の持つ包みへと注がれている。
「でも、だからって許せるわけじゃない」
白岡は包みを見つめたまま、少しだけ声を落とした。
「……相談してくれればよかったのに」
新見の目が揺れた。
その言葉は、怒鳴られるよりも堪えたように見えた。
「嫌だったのは、本当」
新見は包みを見つめたまま言った。
「詩乃が水城くんの隣にいるのを見るのが嫌だった。来なければいいって思ったのも、本当」
白岡は黙って聞いている。
「でも、嫌いにはなれなかった」
新見は、手の中の包みを少しだけ持ち上げる。
「渡したかったのに、渡せなかった」
それ以上は、言葉にならなかった。
俺はその包みを見て、ようやく一つ分かった気がした。
新見が白岡に向けていたのは、拒絶だけではない。嫌だったのも本当。来てほしくなかったのも本当。けれど、それだけなら、この小さな包みはここにない。
渡したかったものがある。
しかし、渡せなかった。
その矛盾が、新見の中に残っていた。
白岡は、まだその包みを受け取らなかった。
代わりに、言った。
「それは、あとでちゃんと渡して」
新見が顔を上げる。
「今ここでじゃなくていい。でも、なかったことにはしないで」
新見は返事をする代わりに、小さく頷いた。
その時、雫が静かに口を開いた。
「まだ、終わってない。核は、あの部屋に残ってる」
あの多目的室には、まだ形になったままの答えが残っている。
一切れ欠けたケーキも、内側を向いて並んでいた八脚の椅子も、二人の言葉だけではまだほどけていない。
そこまで行かなければ、この話は終わらない。
「行こう」
俺が言うと、新見と白岡は、ほとんど同時にこちらを見た。
「多目的室へ」




