八分の七バースデーケーキ 11
多目的室での調査を終えて少し経った頃、俺と雫は部室棟にいた。
放課後の部室棟は、教室棟とは別の種類の音で満ちている。運動部の掛け声のような直線的な熱ではなく、あちこちから漏れ出した音が、廊下の壁や階段の踊り場で少しずつ混ざり合っている。どこかの部屋からはギターのコードが聞こえ、別の部屋からは演劇部らしき発声練習が響く。忙しなく行き交う往来が、彩り鮮やかに校舎を活気づけていた。
一階の奥には音楽室がある。大きな音楽室を中心に、周囲には小さな練習室がいくつか並んでいて、吹奏楽部はパートごとに場所を分けて練習しているようだった。
フルートの音は、他の楽器よりも分かりやすかった。
廊下の先から、細く、澄んだ音がすっと伸びてくる。途切れそうで途切れない、高い音。そこに別の一本が重なり、少し遅れてまたほどける。朝に聞いた白岡のクラリネットとは違う、もっと軽くて、空気を薄く切るような音だった。
「綺麗だね」
少し意外だった。雫はこういった世俗的なものには興味がないのだと勝手に思っていたから。
「……お前、音楽が分かるのか」
雫は少し笑っただけで、特に何も答えなかった。
多目的室での真剣な顔はもう消えていて、いつもの無邪気さを取り戻している。
けれど、こうして時折言葉を止める姿が、まだあの白昼夢のことを考えているんじゃないか、と俺に感じさせた。
しばらくして、フルートの音が止んだ。小さな練習室の扉が開いて、何人かの女子生徒がケースを抱えて出てくる。その中に新見がいた。
フルートケースを肩にかけ、譜面の入ったファイルを胸に抱えている。昨日、多目的室の前で取り乱していた時よりは落ち着いて見えたが、目の下には薄い疲れが残っていた。こちらに気づくと、新見は一瞬だけ足を止める。
「暁くん……」
「少し、話を聞いてもいいか」
新見は周囲の部員たちをちらりと見た。彼女たちは何かを察したのか、軽く会釈だけして廊下の先へ歩いていく。足音が遠ざかり、フルートの余韻も消えて、廊下には俺たち三人だけが残った。
「昨日のこと、だよね」
「ああ」
新見は小さく息を吐いた。
「まだ、何かあるの?」
「その前に、ちょっと長くなるかもしれないんだ。時間いいか?」
俺の提案に少しだけ考え込む仕草をして、すぐに頷いた。
「分かった。それじゃあ、荷物だけまとめてくるから、先に外に出て待ってて」
その言葉に従い、俺たちは部室棟の正面に出た。
少しだけ、顔を撫でる風が冷たさを帯びていた。西向きの校舎からは丘向こうへ沈む夕日が見え、空をグラデーションに染め上げている。それを追うようにちらほらと校門を出る影が坂道へと消えてゆき、一日の終わりを予感させた。
やがて校舎から新見の姿が現れる。お待たせ、と言いながら、肩にかけた鞄の紐を直している。
「疲れているところ悪いな。――早速本題だが、誕生日会の件、白岡さんをどう誘ったのか確認させてもらえるか」
その瞬間、新見の肩がほんの少し強張った。
「……どうって、メッセージを送っただけだけど」
「ああ、それは聞いた。具体的な文面が聞きたいんだ」
新見は答える前に、フルートケースの肩紐を握り直した。指先に力が入っている。
「みんなでちょっと集まるから、でも、まだ本調子じゃないなら無理しなくていいって」
白岡から聞いた通りだった。
「水城の誕生日会だとは言ったのか」
新見は唇を噛む。
「……言ってない」
「来てほしいとは」
「それは……」
言葉が途切れる。彼女のフルートケースを握る指は、関節が白くなっていた。
「それって本当に、誘ったことになるのか?」
言った瞬間、新見の表情が固まった。
部室棟の奥で、誰かの笑い声がした。けれどその音は、ここまで届く前に薄くなって消える。俺の声だけが、妙にはっきりそこに残った気がした。
「声をかけた事実はあるのかもしれない。けど、相手に『来てほしい』って届かなかったら、それは誘ったって言えるのか」
「……でも」
新見の声は小さかった。
「でも、言ったよ。私は言った。詩乃が来なかっただけ」
自分に言い聞かせるような言い方だった。
「私は悪くない」
その言葉は、俺に向けられたというより、新見自身に向けられていた。
「白岡さんは、来てほしかったって思える言い方じゃなかったと言ってた」
「詩乃がそう言ったの?」
「ああ」
「……そっか」
新見は短く答えた。
そこからの沈黙は妙に長かった。隣に立つ雫の表情は、その前髪に隠れて見えない。
夕方の風が部室棟の入口を抜けていく。フルートケースについた細いストラップが、小さく揺れた。
「体調悪かったんだよ、詩乃は」
新見は、また同じ場所へ戻るみたいに言った。
「無理させたくなかった。だから、来なくていいって意味じゃなくて、無理しなくていいって言っただけ」
「誕生日会だと知らせないまま?」
「……」
「水城の誕生日だと知ってたら、白岡さんは判断できたんじゃないのか。行くか、行かないかを」
新見は何も言わなかった。
「それを伝えなかったのは、新見さんだ」
「だから、なに? 暁くんは、私がわざと詩乃を外したって言いたいの?」
「そう見えても仕方ないと思う」
「違う! 私は、詩乃のことを考えて――」
そこで新見は言葉を止めた。
発した言葉の続きを、探しているように見えた。だが、その先が続くことはなかった。
「本当は、来てほしくなかったんじゃないのか」
新見の目が、ようやく俺を真っ直ぐ見た。
その目に浮かぶ感情は、複雑だった。
怒りか悲しみか。それとも見られたくないものを見られた人間の、焦りと恥ずかしさか。
そういった色々なものが散らかったまま押し込められた想いが、行き場を求めるように現れては消えていく。
「……何が分かるの」
声が低くなる。
「暁くんに何が分かるの。詩乃が水城くんと話してるのを見るたびに、私がどう思ってたか。詩乃が笑って、水城くんも普通に笑い返して、それを見るたびに、こっちがどんな気持ちになるか」
堰が切れたように、言葉がこぼれた。
「……嫌だった」
新見はフルートケースの紐を握りしめたまま言う。
「詩乃が水城くんの隣にいるのを見るのも、水城くんが詩乃を気にしてるみたいに見えるのも。全部、嫌だった」
雫は何も言わず、新見を見ている。
「来なければいいって、思ったよ」
その声は震えていた。
「悪い?」
ひどい言葉だった。
それでも、新見の声には嘘がなかった。来なければいいと思ったことは、本当なのだろう。
けれど、それだけなら多目的室に整然と並んでいた八脚の椅子は説明できない。あの白昼夢は、誰かを拒むためだけの形には見えなかった。
「それ、俺に言って終わる話じゃないと思う」
新見が顔を上げる。
「白岡さんに言えってこと?」
「ああ」
「無理だよ。そんなこと言ったら、詩乃はもっと傷つく」
「それを決めるのは、新見さんじゃない」
新見は返事をしなかった。フルートケースを抱える腕に力が入る。
「白岡さんを呼んでもいいか」
「……嫌」
その一言のあと、沈黙が落ちた。
俺はそれ以上畳みかけなかった。雫も何も言わない。ただ、待っている。
やがて新見は、ほとんど聞こえないくらいの声で言った。
「……呼ぶだけなら」




