八分の七バースデーケーキ 10
その日の放課後、俺と雫はもう一度、管理棟へ向かった。
白岡と水城からもある程度の証言を得て、昼休みのうちに誕生日会参加者の話を聞いた。けれど、聞けば聞くほど、頭の中の点は増えていくばかりで、一本の線にまとまらない。
白岡の怒り。澪の沈黙。七人の写真。八等分されたケーキ。余った一切れ。しかもそれらが、丸ごとケーキと化した密室の多目的室とどうつながるのか。
人の話だけを追っていても、同じところを回りそうで、埒が明かない。だから、もう一度現場を見ることにした。
管理棟へ続く渡り廊下には、まだ規制用のテープが張られていた。とはいえ、昨日ほど物々しい空気ではない。小規模な白昼夢として安定していると判断されたのか、近くにいた教師に事情を話すと、短時間なら確認してもいいという許可が出た。もちろん、触らないこと、長居しないこと、異変があればすぐ出ること、という条件つきだ。
「本当に入って大丈夫なのか」
俺が念のために聞くと、雫はまるで猫のように、扉の何処かをじっと見つめた。少し間があって、答えが返ってくる。
「昨日よりは落ち着いてる。入っても大丈夫だと思うよ」
雫はそう言うと、扉を指差した。
俺は半分訝しみながらも、借り直した鍵を差し込む。昨日と同じ古い錠前が、引っかかるような音を立てて回った。
扉を開けると、甘い匂いがまた鼻の奥を刺した。
昨日より慣れているはずなのに、やはり一瞬、足が止まる。多目的室は、相変わらずケーキの中身みたいな空間に変わっていた。床はスポンジ、長机はビスケット、ホワイトボードはチョコプレート。飴細工のカーテンが、閉め切った窓の前で薄く光っている。
雫が先に一歩入る。入口で立ち尽くす俺を振り返ると――、
「わっ!」
と、急に大きな声を上げた。
「うわああ!」
俺は堪らず後退りして、部屋と反対側の廊下の窓際に思い切り背中を打ち付けた。
「あっははは」
当の本人は、そんな俺の様子を見て腹を抱えている。
「てんめえ」
「いやぁ、ごめんごめん、面白くってつい。……大丈夫だから、安心して入ってきて」
笑いすぎて目尻に滲んだ涙を指で拭っている。大丈夫、と言う声はどこか包み込むような優しさを帯びていた。こんな場面でも普段通りな雫の様子に、さすがの俺も毒気が抜かれる。気付けば、先程まで震えていた足は収まっていた。
俺はごくり、と喉を鳴らし、意を決して中に入る。靴底がスポンジの床をわずかに沈ませた。見た目ほど柔らかくはないが、普通の床とは明らかに違う。足元からじわりと、こちらの現実感を奪われるような感触があった。
中央の長机――いや、ビスケット状の机の上には、やはりホールケーキがある。
一切れだけ欠けた、巨大なバースデーケーキ。その脇にはいくつかのプレゼントボックスも置かれていた。そのうちの一つには、片方の輪だけ小さな蝶結びがかかっている。少し変わった結び方だと思ったが、その時はそれ以上気に留めなかった。
他にも、淡い水色の包み紙に音符のシールが貼られた小箱がある。水城向けにしては少し可愛らしい気もしたが、誕生日会のプレゼントなんてそんなものかもしれない。
昨日は入口から見ただけだったが、近づくと違和感はさらに強くなった。
まず、皿が綺麗すぎる。
欠けた一切れが乗っていたであろう位置には、白い皿とフォークが置かれている。だが、フォークにはクリームがついていない。皿にも、スポンジ屑やいちごの汁の跡がない。誰かが一切れを食べたあとなら、少しくらい汚れていてもいいはずなのに、そこには使用感がまるでなかった。
「食べた跡、には見えないな」
俺が呟くと、雫が横から覗き込む。
「うん。きれいだね」
ケーキの断面も同じだった。普通、ホールケーキから一切れを取り分ければ、クリームの端が少し崩れる。スポンジの屑が落ちる。ナイフの跡も残る。だが目の前の断面には、そういった痕跡が一切なかった。
さらに周囲を見る。
長机の周りには、椅子が八脚置かれていた。どれもきちんと机の内側を向いている。最初から八人で囲むつもりだったような配置だった。定規で測ったら寸分たがわず等間隔なのではないか、というくらい折り目正しく並べられているのが、このケーキと化した無秩序な空間にあって、逆に不気味な印象を与える。
昨日、水城は言っていた。誕生日会は本来八人の予定だった。実際に集まったのは七人。そしてケーキは八等分したはずだ、と。
現実の誕生日会では余った一切れ。そして目の前にあるケーキは一切れ分欠けている。俺は恐る恐るケーキの真上から見下ろしてみた。イチゴやプレート、蝋燭があって分かりづらいが、目測では欠けている部分は、ちょうど八分の一のサイズだった。
現実の誕生日会と、白昼夢の中の多目的室が、奇妙な形で重なる。
理屈は分からない。だが、俺の直感はもっと感情的な部分の違和感を照らしていた。
「なあ、雫」
「なあに」
「白岡さん、怒ってたよな。それがこんなに綺麗な形になるもんなのかな」
雫は何も言わず、俺を見る。
「呼ばれなかった。自分だけ外された。そういう怒りなら、席が七つだけになるとか、自分の席だけ輪の外にあるとか、そういう形になりそうな気がする。でもこれは違う。八脚ある。空いている席も、輪の外じゃなくて内側だ」
言葉にしながら、自分でもまだ掴み切れていない感覚を追う。
この部屋は、白岡を外しているようには見えない。
むしろ――誰かの席を残しているように見える。
だが、それは論理というにはあまりにも頼りない。
「いや、すまん。こんなの全然理屈になってないな」
「白昼夢は人の心だよ」
雫はビスケットの机に指先を触れないぎりぎりの距離でなぞりながら言った。
「心なんて、その時々で理屈っぽくも、感情的にもなる。怒っているのに手放せなかったり、憎んでいるのに尽くしたり、そういうのは珍しくない」
「……論理じゃ説明できない、って言うのか」
「ううん、両方必要。でも、いい線行ってると思う。……湊、これは一体誰の白昼夢なんだろうね」
雫は問いかける。
その声は妙に静かで、茶化す雰囲気は一切なかった。
俺はもう一度、ケーキを見た。
「この白昼夢は、白岡さんの怒りだけじゃ説明できないと思う。少なくとも……新見さんの感情がどこかに混じってる」
雫は深い色の双眸で、湊をじっと見つめる。それは肯定とも否定とも判別のつかない、静かなものだった。
「どうして、そう思うの?」
「白昼夢は人の想い。つまりその人の感情が情景に現れるはずだ。白岡さんは昨日、激しく怒っていた。普段は落ち着いた雰囲気なのに、大声を上げるくらい。もし白岡さんが核だとしたら、この空間はあまりに整然としすぎている」
折り目正しく並べられた椅子。一切汚れのない皿とフォークに、美しすぎるケーキの断面。これは排斥された側の見る景色というよりも、むしろ歓迎する側のそれに近い。
雫はそんな俺の主張を静かに聞き、やがて小さく口を開いた。
「その見方は間違ってない。じゃあ、白岡さんだけじゃないとして、なんで新見さんなの? 他の人たちってことなら、水城くんや長谷部くん、他のクラスメイトの可能性もあるよね」
「一つは白昼夢発生のタイミング。あの部屋が何日もあのままだったとは考えにくい。警備の職員が巡回してるはずだからな。だから、昨日中に発生したと見るのが自然だ。
そして昨日起きた出来事のうち、誕生日会に関わりそうなもの。それは、白岡さんと新見さんの口論だ」
正確には口論というよりも、白岡さんが一方的に新見さんに怒声を上げていたという方が合っている気もするが、要はこの白昼夢がもつ水城の誕生日会という舞台に関連する人物の、大きな感情が動いたという事実が重要だ。
「でも、偶然そのやり取りを見ていた、他の誕生日会参加者に、何か心に抱えたものがあった、ということは?」
「いや、その可能性も低いと思う。他の参加者にとっては、誕生日会はただ楽しかった出来事だった。余った一切れのことも、誰が切ったかも、ほとんど覚えていない。でもこの白昼夢では、その一切れだけがやけに強調されている」
何も忘れていることが悪いわけではない。楽しかった思い出は思い出として、その輪郭だけが記憶に残り続けるものだろう。事実、水城がそうだった。
「なら、それをただの食べ残しとして見ていなかった誰かがいるはずだ。しかもその誰かは、あの口論のタイミングで大きく感情を揺らしていた」
雫は俺が話す間、普段とは違う真剣な目でこちらを見ていた。その口が再び開いたのは、それからしばらくしてからだった。
「私には、この白昼夢が持つ表情が見える。その核が何なのかもね。湊、あなたの予想、かなり近いと思うよ」
雫は目の前のケーキの欠けている部分を指でさし、そう言った。でもね、と続ける。
「私に分かるのはここまで。表情は読めても、その感情の機微までは分からない。それを突き止めるのは、湊にしかできない」
真っ直ぐな目で俺を見つめた。そこに、冗談めかす雰囲気は少しもない。
彼女の言葉が落ちたテーブルの上で、欠けたケーキだけが世界の中心に取り残されたように、ひどく無機質な沈黙を放っている。
誰が切ったのか。
誰が食べたのか。
その問いだけでは、たぶん足りない。
「……新見さんに、もう一度聞く」
口にすると、雫が小さく笑った。
「今度は、何を?」
俺は欠けた一切れの跡を見つめる。
「あの一切れを、どう思っていたのかだ」




