朝は静かに始まる(はずだった)
朝の灰門第七共同住居棟は、静かだ。
正確に言えば、静かであってほしいと、ガルドは常に祈っている。
廊下に差し込む朝の光は薄く、石床に淡い影を落としている。
共同炊事場からは、かすかに湯の沸く音。
どこかの部屋で誰かが寝返りを打つ、低い軋み。
――よし。
今日は、まだ、何も起きていない。
ガルドは木のマグに湯を注ぎ、乾燥葉を落とした。
簡素な朝茶。任務明けの身体には、これくらいでいい。
昨日の任務は殺伐としていた。
血の匂い、緊張、判断の連続。
それでも全員、生きて戻った。
だから今は、このどうでもいい平穏を、噛み締める時間だ。
――と、そのとき。
「おはようございまーーーす!!!!」
壁が揺れた。
ガルドは反射的にマグを掴み、こぼれた茶を避ける。
振り向くまでもない。
「……ベルク」
扉が勢いよく開き、ベルクが飛び出してきた。
寝癖、裸足、なぜか上半身裸。
朝日を背負って、やたら元気。
「いやー! 生きて朝を迎えられるって最高だな!!」
「声量を下げろ。ここは宿じゃない」
「え? でも共同住居だろ?」
「だから下げろ」
そのやり取りを聞きつけたのか、別の扉がきしむ。
「……なんで朝から叫んでるの?」
ミラだ。
半分寝ぼけた顔で出てきたかと思えば、
なぜか手に鍋を持っている。
「それ、どこから持ってきた」
「台所。昨日の続き」
「何の続きだ」
「試作」
ガルドは嫌な予感を覚えた。
「火、使ったか?」
「ちょっとだけ」
「どれくらいだ」
「……爆発はしてない」
「してないの基準を言え!!」
その横で、イオリがひょこっと顔を出す。
「えっと……たぶん、音で言うと“ボン”くらいでした」
「音で説明するな」
ガルドは額を押さえた。
――まだ朝だ。
まだ一杯目の茶だ。
ベルクは気にせず、炊事場にずかずか入っていく。
「なあガルド! 腹減ってるよな? ミラの鍋、食えるって!」
「食うな」
「えー? 昨日の獣肉の残りも入ってるって言ってたぞ?」
「言ってない!!」
ミラが即座に否定した。
「入ってるのは“似たような部位”」
「何のだ」
「……まだわかんない」
「捨てろ」
「もったいないじゃん」
その瞬間。
鍋の中から、ぐつりと音がした。
全員が固まる。
「……今、動いた?」
イオリの素直な疑問。
「気のせいだろ!」
ベルクが笑いながら鍋を覗き込む。
次の瞬間。
湯が跳ね、鍋が転び、得体の知れない中身が床に広がった。
「うわっ!?」
「だから言っただろ!!」
「わ、わざとじゃないって!」
騒ぎの中心で、ガルドはただ一人、天井を仰いだ。
――任務より危険だ。
この共同生活。
床の隅。
誰にも踏まれない位置で、
こっそりと雑巾が一枚、移動していた。
それを見ている者はいない。
ただ、壁の向こうで、小さな声が日誌に記される。
朝は静かに始まると思っていた。
でも、この人たちは、たぶん、これが普通。
こぼれたものは、あとで拭けばいい。
今日も、灰門第七共同住居棟は、
平和で、うるさくて、生きている。




