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第六章 アル=ネグラには底がない

 旧巡礼路の最後は、長い石段だった。


 これまで通ってきた区画より幅が広く、中央だけが長年の往来で浅く擦り減っている。左右には古い溝が残り、壁際の柱には、今では意味を失った記号がいくつも刻まれていた。


 先頭を歩いていたイオリが、不意に足を止めた。


「どうした?」


 すぐ後ろのリィナが肩越しに先を覗く。イオリは返事をせず、階段脇の柱へ寄ると、手は触れないまま柱から壁、足元、さらに十段ほど下の曲がり角へと何度も視線を往復させた。


「ここ……」


 ガルドが後ろから柱を覗く。


「知ってるか」


「たぶん、見たことがあります」


「たぶん?」


 リィナの声に、イオリは申し訳なさそうな顔をした。


「前に迷い込んだ時だと思うんですけど……迷子だったので」


「十分だ」


 ガルドはそのまま階段を下りようとした。


「十分じゃない」


 ミラが静かに止める。


「どっちだ」


「今回はミラが正しいと思う」


 リィナも続き、イオリまで「僕もそう思います」と加わった。


「本人までそっち行くな」


「でも、僕の記憶ですよ?」


「だからだ」


 余計に不安そうになるイオリを気にせず、ガルドは歩き出した。


「覚えてる場所が出たら言え。それだけでいい」


「案内しなくていいんですか?」


「するな」


「はっきり言われた……」


 石段を下るにつれて、暗闇の質が変わっていった。


 最初に気づいたのはリィナだった。


「……明るい」


 地下のはずだった。それも、地上のカリ=エルから何層も降りた場所だ。


 だが階段の先には光がある。壁の窪みには古い神殿灯が弱い青白さを残し、その隣には後世に取り付けられた魔導灯があった。石の割れ目には発光苔が広がり、さらに奥では炉の赤い火が揺れている。


 灯具も配線も揃っていない。誰かが都市計画として整えた光ではなく、暗ければ困るから、その時代ごとに必要なものを足していったのだと分かる。


 ミラは階段の先に広がる灯りへ目を向ける。


「人が暮らしてるから」


 石段を抜けた先で、アル=ネグラが姿を現した。


 巨大な古代柱の根元へ、木造の二階建てが寄り添うように建っている。崩れた礼拝堂の回廊には縄が渡され、洗濯物が揺れていた。首のない神像の台座には大鍋が置かれ、その横では女が野菜を刻んでいる。


 古い巡礼路は、そのまま生活道路になっていた。


 荷車が通り、子供が走る。鍛冶場から火花が散り、少し先では誰かが値切り交渉をしている。


 地下。犯罪。無法。


 そんな言葉を先に聞いていたリィナの肩から、わずかに力が抜けた。


「……思ってたより普通」


「普通に暮らしてるから」


「いや、地下犯罪都市って聞いてたから」


 ガルドは大鍋の脇を通り過ぎる。


「犯罪者も飯は食う」


「そういう意味じゃないけど……」


 リィナはなおも周囲を見た。


 地上の市場とは違う。看板に店主の正式名はなく、店舗番号も、神殿認可の印も、行政札もほとんど見当たらない。その代わり、壁には手書きの印があり、値札も商品もある。誰がなにを売っているかは、ここで暮らす者同士には分かるのだろう。


「立ち止まるな」


「観光してないよ」


「してる顔だった」


「初めて来たんだから見るでしょ」


「見ながら歩け」


「無茶言うなあ」


 四人はそのままネアの捜索へ入った。


 名前だけで聞き回ることはしない。


 最初に立ち寄った宿で、ガルドは小さな紙片を出した。オルフェンが荷物の受け渡しに使っていた符丁だ。


 宿の主人は一度だけ目を落とし、すぐに返した。


「名前は聞かねえ」


「聞いてねえ」


「誰が泊まったかも聞かねえ」


「だから特徴を聞いてる」


「金払った奴は客。それだけだ」


 主人は帳簿すら開かなかった。そもそも、帳簿があるようにも見えない。


「昨夜、旧巡礼路から女が一人入ってる。エルフ。腕に擦り傷。古い包みを持ってた」


「知らねえな」


「香油」


 リィナが横から特徴を足した。香りを言葉で説明すると、主人は肩をすくめる。


「そういう女なら十人はいる」


「血の付いた服」


「二十人になった」


 リィナが僅かに顔をしかめる。


「増えた」


 ガルドは追及せず、「邪魔したな」とだけ言って宿を出た。


 路地へ戻ると、リィナが一度だけ後ろを振り返る。


「……地上じゃ無理だね」


「ああ」


「宿泊記録も、名前もない」


「ないな」


 地上なら、宿泊記録、居住登録、娼館の所属、神殿の照会、住所が残る。人を守るための記録は、そのまま人を追う手掛かりにもなる。


 ここには、そのどちらもない。


 少し先の露店では、腕を包帯だらけにした男が薬らしい液体を飲みながら重い箱を運び、その足元には危険そうな神具が裸のまま積まれていた。


 リィナの目が細くなる。


「自由って感じでもないね」


 ミラは包帯だらけの男から、裸で積まれた神具へ視線を移す。


「自由じゃない」


「じゃあなんなの」


「地上の規則がないなら、地上の保護もない」


 それ以上の説明は要らなかった。


 ガルドたちは符丁、香油、昨夜の時間、古い包み、擦り傷と、手掛かりを少しずつ変えながら何軒も回った。答えが返ることもあれば、なにも得られないこともある。


 面白いのはミラだった。


 入口に近いうちは、どの店が誰と繋がり、どの路地がどこへ抜けるかを迷いなく辿っていた。だが奥へ入るにつれ、足が止まる回数が増える。


「どうした」


「ここから先、情報が途切れてる」


「お前でも?」


「うん」


 ミラは路地の先を見る。いつもと同じ眠たげな目だったが、焦点だけが僅かに鋭くなっていた。


「だから嫌い」


「アル=ネグラが?」


「分からない状態が」


「そっちか」


「嫌いだから調べる」


「やっぱり楽しんでない?」


「嫌い」


「答えになってない」


「放っとけ」


 ガルドは先へ進んだ。


 次に入ったのは、古い礼拝所の一角をそのまま使った小さな食堂だった。神像が置かれていたらしい壁の窪みには鍋が収まり、昼時を過ぎても煮込みの匂いが濃く残っている。


 ガルドが女将へ符丁を見せる。


 一瞬だけ、女将の目が止まった。


「昨夜、この印を持った女を見なかったか。エルフ。腕に傷。古い包み」


「知らないね」


 リィナが香油の特徴を口にすると、器を洗っていた女将の手が僅かに止まった。


「……夜中に一人いた」


「どっちへ」


 女将は顎だけで、生活圏の端――明かりが少なくなる方向を示した。


「走ってた」


 ミラが女将へ視線を向ける。


「一人で?」


「後ろにもいたよ」


「神殿か」


 女将は鼻で笑った。


「違う」


「分かるの?」


「神殿の犬はもっと目立つ」


 ガルドとミラの視線が合う。


 神殿でも、娼館でもない誰か。


「人数は」


「二人……いや。奥にもいたかもね」


「特徴」


「顔隠してたよ。武器も持ってた」


「それだけ?」


「それだけ」


 これ以上はない。


 ガルドは礼を言わず、代わりに硬貨を一枚、食堂の端へ置いた。


 硬貨を見たリィナが、ガルドへ顔を寄せる。


「飯食ってないよ?」


「情報代だ」


「あ」


 女将はなにも言わず、硬貨を取った。


 示された方向へ進むにつれ、人通りは減っていった。建物の間隔が広がり、古い石造部分がむき出しになっている場所も増える。


 数分歩いたところで、リィナが足を緩めた。


「……ねえ。なんで急に静か?」


 さっきまで聞こえていた露店の呼び声も、食器の音も、子供の声もない。一軒の戸が閉まり、次の店では主人が商品を奥へ引き込む。少し先では母親らしい女が子供の腕を掴み、そのまま家へ入れていた。


「私たちが来たからじゃない」


 ミラが前方を見る。


「じゃあ?」


「誰かが来るから」


 正面に人影が現れた。


 一人、二人。さらに増える。


 背後からも足音が響き、ガルドの右手が剣へ下がる。


 リィナは敵だけを見なかった。


 左には細い橋があり、古い木材と石材を継ぎ足した支柱の一部が腐っている。下には浅くない水路。右には別の地下水路と閉塞板。上には増築された足場。


 弓が三人。


 正面は十五ほど。


 後ろに八。


 見えるだけで。


「抜けるか」


 ガルドが短く聞く。


「抜ける」


 リィナは即答した。


 ガルドの剣が半分ほど鞘から出る。


「なら――」


「戦わない」


 刃が止まった。


「なに?」


 リィナはガルドを見ず、正面、後方、上方を順に確認する。


「前が十五。後ろが八。上に三。見えてるだけで」


 左の橋へ視線を移した。


「橋、支柱腐ってる。右の水路は南向き。煙も上に抜けてない」


「よく見てんな」


「生きて帰りたいから!」


 ガルドは正面の人数を見る。


「十五ならやれる」


「知ってる」


「じゃあ」


 そこでリィナが初めてガルドを見た。


「勝って、そのあとどうやって帰るの?」


 剣の柄を握ったまま、ガルドの手が止まる。


「前を全部倒したら後ろが来る。後ろをやってる間に上から撃たれる。長引いたら人が増えるし、道も壊れる」


 イオリを見る。戦闘員ではない。


 さらに来た道。そこも塞がれるかもしれない。


「勝つだけならできる」


 リィナは一度息を吸った。


「今日は帰る方をやる」


 ガルドは迷わなかった。


「分かった」


 剣を抜き切る。


 一瞬驚いたリィナも、すぐに切り替えた。


「ミラ。右の露店、油ある?」


「ある」


「借りて」


「得意」


「買って!」


「急いでるから」


「あとで払う!」


 ミラはもう動いている。


 リィナは荷物から長い紐を抜き、イオリへ押しつけた。


「これ持って」


「なにに使うんです?」


 リィナは一瞬だけ考えた。


「まだ知らない!」


「ええ!?」


「持ってて!」


「はい!」


「ガルド。三十秒だけ前お願い」


「短いな」


「長いと困る!」


「分かった」


 正面の男たちが動き、ガルドも前へ出た。


 一人目の刃を剣の腹で受け、勢いを外へ流しながら肩で押す。よろめいた男が二人目の進路へぶつかり、三人目がその隙間から低く斬り込んできた。


 ガルドは足を引き、柄で手首を打つ。落ちた武器への追撃はせず、横から入った男へは最初の一人を押し戻してぶつけた。


 突破しない。


 殺し切らない。


 正面の注意だけを自分へ集める。


「二十秒!」


「数えなくていい!」


 上から矢が飛ぶ。


 リィナは身体を捻って一本目を避けると、返す一射を射手ではなく弓身のすぐ脇へ当てた。照準が逸れたところへ二射目を放ち、足場を吊るす古い綱を断つ。


 板が傾き、射手たちの体勢が崩れて射線が消えた。


 イオリは紐を抱えたまま、倒れた男たちを見る。


「殺さないんですね」


「今はね!」


 ガルドの脇を抜けようとした男には、リィナが横から入り、身体ではなく装備帯だけを切った。腰の荷物が脚へ絡み、男が転倒する。


 その横を抜けたところへ、ミラが戻ってきた。


「持ってきた」


「払った?」


「後払い」


「誰に言ったの?」


「店主、いなかった」


「それ借りたって言うんだよ!」


「借りました?」


「今はいい!」


 リィナは近くの火鉢を使い、必要な量だけ油を染み込ませた布へ火を移した。


「火事にするなよ」


「しない!」


 濃い煙が上がる。


 低い地下天井では逃げ場がなく、そのまま正面側へ流れて敵の姿を霞ませた。


「今! イオリ、紐!」


「みんな掴んで!」


「これだったんですね!」


「今決めた!」


「今!?」


「走って!」


 四人が煙の中へ入る。


 先頭はガルド。次にイオリ、ミラ、最後尾にリィナ。紐がそれぞれの手を繋ぎ、視界が切れても離れない。


 橋へ出て全員が渡りきる直前、煙を抜けた追跡者が迫った。


 リィナは足を止める。


 戦う前に見ていた、片側の腐食部。


 刃を差し込み、一度捻った。


 支えが外れる。


 橋全体は落ちなかった。片側だけが沈み、追ってきた数人が足を取られて板の上へ転がる。


 下へは落ちない。


 だが、走れない。


「こっち!」


 さらに別方向から回り込む影。


 リィナは右側水路の古い閉塞板へ手をかけた。


「硬っ……!」


 ガルドが戻ろうとする。


「来ないで!」


 足を石へかけ、体重を乗せる。


 板が外れ、水が横へ噴き出した。


 流れた先は住居側ではなく、人のいない古い作業通路だ。回り込んできた追跡者の足元だけをさらい、男たちを転ばせる。


「行く!」


 さらに奥には段差があり、安全区画へ飛び移る必要があった。


 ガルドが先に渡り、続いてイオリ。着地で少し足を滑らせたが、手にした紐が張り、転び切る前に立て直す。ミラも渡った。


 最後はリィナ。


 背後ではまだ一人だけ射手が射線を確保していた。


 矢が飛ぶ。


 リィナは身体をずらし、頬の横を通す。次が来る前に足元の板を蹴った。


 跳ぶ。


 距離が僅かに足りない。


 ガルドが踏み出しかける。


「来ないで!」


 その声で、ガルドは足だけ止めた。


 リィナが腕を伸ばす。


 指先が縁へ届かず、身体が落ち始めた瞬間、ガルドの手がその手首を掴んだ。


 そのまま引く。


 二人まとめて床へ転がった。


 数秒、誰も動かなかった。


 荒い息だけが残る。


 イオリが自分の身体と三人を順に確かめる。


「……生きてる」


「うん」


 ミラが確認する。


 ガルドが身体を起こすと、横ではリィナが仰向けになったまま息を整えていた。


「お前」


「なに」


「戦うより逃げる方が強いな」


 リィナが顔だけを向ける。


「それ褒めてる!?」


「最高にな」


 リィナが一瞬、目を丸くした。


「……ならいいけど」


 ミラは来た道を見ていた。


「見える範囲では、敵も死んでない」


「そこまで狙ってない!」


 リィナは即座に返したが、少し間を置き、壊れかけた橋の向こうを見る。


「……でも、よかった」


 追手は切れた。


 問題は、自分たちの現在地まで切れたことだった。


 安全そうな古い通路へ入り、リィナが地図を広げる。向きを変え、逆にし、もう一度見た。


「……今どこ?」


「分からない」


 ミラの返答は早かった。


「あんたが言うと怖い!」


「事実」


「なんでそんな落ち着いてるの!」


「慌てても場所は分からない」


「正しいけど!」


 イオリが通路の奥を見た。


 柱。


 壁。


 暗い脇道。


「たぶん、こっちです」


 三人が見る。


「前に通った気がします」


「行くぞ」


 ガルドが立つ。


「信用するの!?」


「他に案あるか」


「ないけど!」


「僕も自信ありません」


「歩け」


 イオリを先頭に、右、左、短い階段と進んだ先には、完全な行き止まりが待っていた。


 リィナがゆっくりイオリを見る。


「違うじゃん!」


「すみません!」


「いつものだ」


「いつものにしないでください!」


「ほら、戻ろ――」


 振り返ったイオリの腕が荷物へ当たり、水筒が落ちた。


「あっ」


 蓋が外れ、水が石床へ広がる。


「今日、水貴重なんだけど!」


「すみません!」


 流れた水は床の窪みに沿って土埃を洗い、その下から古い刻印を露出させた。


 ミラが床の刻印に気づき、すぐにしゃがむ。


「待って」


 濡れた埃を指で払う。


「旧経路標識」


「どっち」


 ガルドが聞く。


 ミラが示したのは、真正面だった。


「壁じゃん」


 押しても動かない。


「前も、こういう――」


 イオリが近づいたところで、足元の段差へ引っかかった。


「うわっ」


 肩が壁へ当たる。


 ゴン。


 別の石が僅かに沈み、内部でなにかが外れる音がした。


 壁の一部が低く擦れながらずれ、暗い通路が現れる。


 イオリが壁と自分の肩を交互に見た。


「……偶然です」


「分かってる!」


 ミラが沈んだ石とイオリを見比べる。


「三回目」


「数えないでください」


「今度からなにも考えず歩け」


「それでいいんですか!?」


「考えると外す」


「そんな能力みたいに言わないでください!」


 リィナも思わず笑いかけたが、ミラだけは開いた通路と床の記号を見ていた。


「ここに偶然着く確率、かなり低い」


「言わなくていい!」


「僕も怖くなってきました……」


 ガルドは隠し通路へ灯りを向けた。


「行くぞ」


 狭く、二人並ぶのは難しい。空気も淀んでいる。


 だが床には、完全には消えていない新しい擦れ跡が残っていた。


 少し進んだところで、ガルドが止まる。


 後ろを歩いていたリィナも足を止める。


「なに?」


「いる」


「誰が」


「たぶん探してた奴」


 イオリが反射的に一歩下がり、ミラは壁際へ寄った。リィナの手が武器へ伸びる。


 暗がりから細い光が走った。


 刃。


 ガルドの首元。


 寸前で止まる。


 リィナの武器が半分抜けた。


「やめとけ」


「どっちに言ってる?」


「両方」


 ガルドは剣へ手をやらない。


 暗闇の向こうから女が出てきた。


 エルフ。


 髪は乱れ、服には泥と乾いた血が残っている。腕には擦り傷があり、顔には濃い疲労が浮かんでいた。


 長く眠っていない目をしている。


 それでも目そのものは死んでおらず、刃も下げない。


「神殿へ返すなら殺す」


「俺は話を聞きに来た」


「神殿の犬が?」


「境務だ」


「同じでしょ」


「違う」


「なにが」


 ガルドは首元の刃先を見たまま答えた。


「俺が違う」


 ネアの眉が僅かに動く。


「男はみんなそう言う」


「そうか」


「否定しないの?」


「お前がそう思ってるなら、今否定しても意味ねえ」


 首元にあった刃が、数センチだけ下がった。


 信用されたわけではない。今切る必要まではないと判断された程度だ。


 リィナが半分抜いていた武器から手を離す。


「私もいるよ」


 ネアの視線が動く。


「だから?」


「……まあ、そうだよね」


 女だから安心しろ、とは続けなかった。


 ミラはネアではなく、その足元にある古い包みと紙束を見ている。ネアが気づいて片足を前へ出すと、ミラもそれ以上は近づかなかった。


 ガルドはネアの刃先から目を逸らさない。


「オルフェンが死んだ」


「知ってる」


「見たのか」


 ネアの顔が変わり、刃先がさらに僅かに下がった。


「……あんたたち、なにを知ってる?」


「お前が殺したとは思ってない」


 リィナがガルドを見る。


 ネアも見る。


 ガルドは続けた。


「まだな」


「……」


「だから話せ」


 長い沈黙のあと、ネアは刃を完全には納めないまま壁際へ下がった。


 ガルドたちも距離を詰めない。リィナは真正面を避けて座り、イオリは入口近く。ミラも資料へ手を出さなかった。


「オルフェンとどういう関係だった」


「あの司祭は客じゃない」


 リィナが僅かに身を乗り出す。


「じゃあ?」


「荷物」


「運び屋か」


「そう」


 地下から包みを持って地上へ。別の荷物を持って戻る。


 文書。


 小箱。


 金。


 中身は聞かない。届けて、報酬を受け取る。


 それだけだった。


「なんであなた?」


「記録に残らないから」


 ネアは自分の胸元を指した。


「普通の運び屋を使えば帳簿が残る。神殿の人間が動けば記録される。でも私なら、どこへ出入りしてても“客を取ってた”で終わる」


 口元だけが薄く歪む。


 リィナは返せなかった。


「オルフェンって……いい人だった?」


 慎重に聞く。


「いい人じゃない」


 即答だった。


「金は払った。殴らなかった。触らなかった」


 ネアはそこでリィナを見る。


「だからなに?」


 言葉が止まる。


 それで善人へ変える話ではない。


 ネア自身が拒んでいる。


「最後になにを運んだ」


 ガルドが聞く。


「包み」


「これか」


 足元の研究資料を見る。


「違う」


「形」


「黒い布で巻いてあった」


「重さ」


「そんなに」


「音」


 ネアは少し考えた。


「中で硬いものが当たってた」


 あの夜。


 オルフェンの研究室で、ネアはいつものように荷物を置いた。


 司祭が包みを開く。


 中には黒ずんだ古い鎖のような断片と、文字の刻まれた古文書の欠片、それに小さな遺物が入っていた。


 ネアには、それ以上のことは分からない。


 ただ、オルフェンの顔だけは覚えていた。


「あんな顔、初めて見た」


「なんて言った」


 ネアの目が少し遠くなる。


「……これは使っちゃいけなかった」


 室内が静まる。


 ミラの目だけが僅かに動いた。


「なにを使った」


「知らない」


「誰が」


「知らない」


「そのあと」


「帰れって」


「それだけ?」


「違う」


 ネアは足元の包みへ手を伸ばした。


 今抱えている研究資料。


「これ渡された」


「なんで?」


「持って逃げろって」


 ネアは自分でも納得していないような顔をする。


「私が、“なんで私が”って聞いた」


 乾いた笑いが一度だけ漏れる。


「そしたら、“お前なら記録に残らない”って」


 笑いはすぐ消えた。


「最初から最後まで、それ」


 便利だから使った。


 最後には、逃がすためにも同じ立場を利用した。


 それで善行に変わったわけではない。


「他には」


「“下を開けるな”」


「下?」


「私も聞いた。下ってなに、って」


「答えは」


「知らなくていい」


 そこで終わりだった。


「……で」


 ガルドが少し身を乗り出す。


「お前は逃げた」


「うん」


「なのに戻った」


 ネアの目が細くなる。


「音がした」


「音?」


 研究資料を抱え、オルフェンに逃げろと言われて廊下を歩いた。


 数十歩。


 後ろから鈍い音がした。


 金属が落ちたような音ではない。なにか重いものがぶつかったような響き。


「戻ったのか」


「……気になった」


「命令無視?」


「命令された覚えない」


 ネアは振り返り、迷って、それから走った。


 研究室の扉を開ける。


 オルフェンは床へ倒れていた。


 すでに血が落ちている。その上へネアが踏み込み、「オルフェン!」と駆け寄った。


 膝をつき、衣服を掴み、顔を寄せる。髪が落ち、肩へ触れ、香油が移る。衣服の繊維も、そこで残った。


「まだ生きてた?」


「少し」


 ネアは自分の手を見る。


「あれを生きてるって言うなら」


 息は弱く、声もほとんど出ない。


 ネアは叫んだ。


 誰がやった。


 なにがあった。


 返事はない。


 オルフェンの目がネアを見る。


 次に、彼女が抱えている研究資料。


 そして床。


 その下。


「……下……」


 それだけだった。


 動かなくなった。


 ガルドがネアの顔を見据える。


「殺した奴は見たか」


 ネアの視線が、過去から目の前の男へ戻った。


「見てない」


「声」


「聞いてない」


「出ていく音」


「分からない」


「姿」


「見てないって言ってる」


「分かった」


 ガルドはそこで切った。


 ネアは犯人を見ていない。


 それで十分だった。


 少し間を置き、別の質問へ移る。


「杯が二つあった」


「私じゃない」


 即答だった。


「茶は飲んでない?」


「飲まない」


「なんで?」


 リィナが聞く。


「あの司祭が出す茶、まずいから」


「……やっぱり苦いんだ」


 ガルドがリィナを一度だけ見る。


 それから、忘れられた礼拝所で鎮脈茶を飲んでいたレヴァンを思い出す。


 それだけ。


 まだ犯人だという答えにはならない。


 二つ目の杯。


 もう一人の客。


 そこへ、細い線が一本増えただけだ。


 ミラが初めて、足元の資料からネア本人へ視線を上げる。


「資料」


「見ても?」


 ネアは少し迷い、ガルドを見る。


 ガルドはなにも言わない。


 やがてネア自身が包みを持ち上げ、ミラへ差し出した。


「壊したら殺す」


「壊さない」


「借りるって言わないんだ」


 リィナが小さく言う。


「許可あるから」


「基準そこなんだ……」


 ミラは紙を一枚ずつめくった。


 古い文字。


 現代の神術では使わない記号。


 人型に見える形と、別の記号。その間を結ぶ線。


「《神鎖》に似た記号がある」


 ガルドが横から覗く。


「読めるか」


「一部だけ」


 次の紙は図面だった。


 アル=ネグラの既知区画に似た形があり、その下へ、現行地図には存在しない構造が描かれている。


 ミラの指が止まる。


「これ」


「なんだ」


「今いる区画より下がある」


 ネアが顔を上げた。


「ここより?」


「図面上は」


 ガルドの耳に、オルフェンの言葉が残る。


 下を開けるな。


「……なにを開けるなって話なの」


 ネアが呟いた。


 誰も答えられなかった。


 ミラが資料を閉じる。


 ガルドはネアを見た。


 傷。


 疲労。


 目の下の濃い影。


 戦闘員でもない。


 第三者に追われている。


 証言は取れた。


 資料もある。


「ここから先、お前は残れ」


 ネアが顔を上げる。


「誰が?」


「お前」


「なんで」


「怪我してる。追われてる。話も聞いた」


 ガルドは足元の研究資料を見る。


「これもある。これ以上連れてく理由がねえ」


 合理的だった。


 リィナも一瞬だけ、そう思った。


 この隠し区画なら追手の目から外れている。ネアを危険な深部へ連れていく必要はない。


 ネアはしばらくガルドを見ていた。


「……あんたも?」


 ガルドの視線が止まる。


「なにが」


「私のこと、勝手に決めるの?」


 ガルドは答えなかった。


「神殿は、私を犯人って決めた。娼館は商品って決める。あの司祭は運び屋って決めた」


 ネアは目を逸らさない。


「今度はあんたが、“ここにいろ”?」


「危険だからだ」


「知ってる」


「なら――」


「知ってるって言ってる!」


 狭い区画へ声が響いた。


 ガルドは口を閉じた。


 腕の傷を見る。


 疲労の残る顔を見る。


 足元の研究資料を見る。


 どれも、さっき見たものと変わらない。


 最後に、ネアの目を見る。


「あの司祭がなにを運ばせてたか、私はなにも知らなかった。人が死んで、私は逃げた」


 ネアも研究資料へ視線を落とす。


「なのに、また誰かに“知らなくていい”って言われるの?」


 誰も口を挟まなかった。


「……ガルド」


 リィナが名前だけを呼ぶ。


 庇わない。


 責めもしない。


 ガルドはもう一度、ネアを見る。


「……そうだな」


「なにが」


「悪かった」


 ネアの目が僅かに開く。


 ガルドは言い訳をしなかった。


「どうする」


「なにが?」


「残るか、来るか」


 今度は、二つを並べた。


 ネアは即答しなかった。


 怖い。


 深部になにがあるか分からない。


 自分は戦闘員ではない。


 追手もいる。


 ここに残れば、少なくとも今は安全かもしれない。


 それでも、なにも知らないままになる。


 リィナも急かさない。


 ミラも資料を抱えたまま待つ。


 やがて、ネアが研究資料を抱え直す。


「行く」


「理由」


「見たい」


「なにを」


 研究資料へ目を落とす。


「あの司祭が、私になにを運ばせてたのか」


 ガルドは黙る。


「私が殺したわけじゃない」


「ああ」


「でも」


 ネアは自分の手を見る。


「私の手を通った」


 鎖のようなもの。


 文書。


 遺物。


「なんだったのかくらい、自分で知りたい」


 口元が少しだけ皮肉に歪む。


「それに」


「なんだ」


「“下を開けるな”なんて言われた」


「うん」


 リィナが頷く。


「そんなこと言われたら、なにが下にあるか知りたいでしょ」


「分かる」


 ミラが即答した。


「そこで意気投合しないで!」


 リィナの声に、ネアが初めて少しだけ笑った。


 ガルドはその顔を一度見た。


「分かった」


「戦うな」


 ネアの眉が動く。


「それは命令?」


「助言だ」


「なら聞く」


 それで同行は決まった。


 ネアが最低限の荷物をまとめる間、リィナは横で傷と装備を確認した。


「怖くない?」


「怖い」


「だよね」


 ネアがリィナを見る。


「あんたも?」


「めちゃくちゃ怖い」


 少し意外だったらしい。


 リィナは腰帯を締め直した。


「だから、死なないようにしよう」


「簡単に言うね」


「帰る方は私が見る」


 手袋の締め具を確かめる。


「そのために私いるから」


 ネアはしばらく彼女を見ていたが、なにも言わなかった。


 再び資料を広げ、今度はネアも一緒に現行地図と古い図面を見比べる。


 ミラが古図と現行地図を並べて見比べる。


「この先はない」


「なにが?」


「道が」


「図には」


「ある」


 資料上の位置は、今いる区画から少し離れていた。


 五人で移動する。


 ネアが加わったことで、道選びは少し楽になった。


「そこ左」


「知ってるのか」


「運びで何度か」


 イオリが迷いなく曲がったネアの後ろ姿を見る。


「便利ですね」


「売らないよ」


「なにをです?」


「私の知ってる道」


「あ、はい」


 イオリは真面目に頷いた。


 ネアが少しだけ変な顔をする。


「この人、なに?」


「迷子」


 ガルドが答える。


「イオリです」


 リィナがイオリを見る。


「本人が訂正した」


「迷子でもあります」


「認めるんだ……」


 目的地へ近づくにつれ、アル=ネグラの景色はまた古くなっていった。


 増築された建物の間から石造の原型が露出し、かつて礼拝所だったらしい空間の一部が、そのまま物置や住居へ使われている。


 ミラが資料を開き、壁の古い記号と照合する。


「一致してる」


 ガルドは近くにいた年嵩の住民へ声をかけた。


「この下に道があるか」


「ない」


 即答だった。


 ミラが図面を少し持ち上げる。


「古図にはある」


「古図が間違ってる」


「調べたい」


「やめろ」


 返答の速さが変わった。


 ガルドが目を細める。


「理由」


「ないものは調べられない」


 ミラが手元の古図を老人へ向ける。


「空間の記録がある」


「知らない」


 ネアが老人を見る。


 なにかを思い出したように口を開いた。


「オルフェンも」


 住民の目が僅かに動く。


「“下を開けるな”って言ってた」


 一瞬だけ、顔が変わった。


 ガルドは見逃さない。


「知ってるな」


「知らない」


 その時だった。


 ――コン。


 全員が止まった。


「……なに?」


 リィナが周囲を見る。


 イオリは足元へ視線を落とした。


「下から?」


 ミラも床を見る。


 年嵩の住民だけが、床を見なかった。


 顔だけが、僅かに強張っている。


「聞こえてない」


 全員の視線が彼へ集まった。


 リィナが眉を寄せる。


「いや、聞こえたよ」


「聞こえてない」


 声は強くない。


 ただ、床だけは見ようとしなかった。


 数秒後。


 ――コン。


 今度は、誰も周囲を見回さなかった。


 視線が自然と足元へ集まる。


 床下の部屋程度の近さではない。もっと遠い。何層もの石と空間を隔てた向こうから、なにかが一度だけ硬いものを叩いたような音だった。


 ネアが住民へ顔を向ける。


「前から鳴るの?」


「知らない」


「でも今――」


「聞かなかったことにしろ」


 住民の声が変わった。


 否定ではなかった。


 忠告だった。


 ガルドは床を見る。


 朝。


 灰門の自室で、アストラも同じように床を見ていた。


 指を下へ向けた。


 ――下。


 そこまで思い出し、視線を戻す。


 ミラがしゃがみ、耳を石へ近づける。


「やめろ!」


 住民が一歩出た。


 ミラは止めない。


 床の隙間と石の響きを確認する。


「空洞がある」


「触るな!」


 イオリも床を見る。


「この下って……アル=ネグラじゃないんですか?」


 住民は黙った。


 数秒して。


「アル=ネグラはここまでだ」


 さらに。


「下なんてない」


 ガルドは床から目を離さない。


「あるな」


「……」


「音がしてる」


 ネアは抱えた研究資料を見る。


「……あの司祭が言ってた“下”って」


「たぶんな」


 ミラが立ち上がった。


「入口、探す?」


「探す」


 リィナが思わずガルドを振り返る。


「即答!?」


「ここまで来た」


「それはそうだけど!」


 リィナは床から周囲へ視線を走らせた。


 今来た道。


 退路。


 崩れそうな場所。


 全部。


「帰る道も確認するからね!」


 ガルドの返事は早かった。


「任せる」


 リィナが一瞬だけ黙った。


 それから頷く。


「うん」


 誰もまだ、その下を見ていない。


 足元には石。


 その下にも石。


 さらに向こうには、ただ暗闇がある。


 そして遥か下から。


 もう一度。


 ――コン。

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