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第五章 公の使徒は胃薬を飲みすぎる

 地上へ戻った時には、昼を半分ほど過ぎていた。


 地下の冷えた空気に慣れた身体には、会議室の窓から差し込む陽射しが妙に明るい。境務が事故案件の処理に使う部屋には長机と椅子、壁際の応急処置箱と記録板があるだけで、窓の外では荷車が行き交い、通行人が昼飯の相談をしながら歩いている。


 数時間前まで地下で神鎖同士が斬り合っていたことなど、この街並みからは分からない。


 ガルドは椅子を引いて腰を下ろした。その瞬間、巻き直した眼帯の奥から首筋へ細い痛みが走り、顔がほんの僅かに歪む。


 すぐ横で、リィナがガルドの僅かな表情の変化を拾う。


「痛い?」


「少し」


「かなり」


「余計なこと言うな」


「報告でしょ!」


「僕もリィナに賛成」


 アストラまで口を挟む。


「お前は黙れ」


 ガルドは背もたれに身体を預けず、机にも肘をつかなかった。姿勢を少し変えるだけでも、右目の奥が引きつる。


 向かいでは、全員が揃うより先からセイルが報告書を読んでいた。


 一枚目の表題は《未登録神鎖反応》。


 視線が止まり、机の脇に置いた小瓶から白い錠剤を一つ取り出して口へ入れる。


 二枚目。


《消滅過程にある未登録神格》


 もう一錠。


 三枚目。


《破壊神アストラ・現地顕現確認》


 セイルは数秒、その文字を見つめた。それから小瓶を傾け、今度は二錠まとめて飲み込む。


 正面から見ていたリィナの眉が上がった。


「それ、一回何錠まで飲んでいい薬?」


「確認していません」


「確認して!」


 アストラが自分の胸を指した。


「僕のせい?」


 セイルが顔を上げ、美しい破壊神を見る。


 なにも言わず、もう一度小瓶へ手を伸ばした。


「増やさない!」


 リィナが机越しに止める。


 セイルの手が宙で止まった。


「まだなにもしてないよ」


 ガルドはアストラを横目で見る。


「いる」


「その件です」


 セイルが即答する。


「存在罪?」


「概ね合っています」


「そこで意気投合しないで」


 少し離れた席から、ミラが薬瓶へ目を向けた。


「五錠」


「数えてたの?」


「うん」


 セイルは薬瓶を机へ戻す。


「助かります」


「なにに!?」


 そこで胃薬の話は終わった。


 セイルは報告書を揃え、改めてガルドを見る。


「痛みますか」


「少し」


「かなり」


「リィナ」


「なに」


「黙れ」


「嫌」


 二人を一度見比べたセイルは、紙へ一行だけ書き込んだ。


「神経痛、継続」


「勝手に重くするな」


「軽くは見ません」


 怖がらせもしなければ、大丈夫だとも言わない。確認できた事実だけを記録していく。


 リィナはその手元を見届けてから、今さら思い出したように顔を上げた。


「で」


「はい」


「この胃薬の人、結局誰なの?」


 セイルの返答が、ごく僅かに遅れた。


 ガルドが先に答える。


「公の使徒」


「……この人が?」


「なにか問題が?」


「胃薬飲んでる人だと思ってた」


「概ね正しいです」


「そこ認めるのか」


 セイルは報告書を一度閉じた。


「私は特定の神殿に属する使徒ではありません」


「じゃあ国?」


「違います」


 ミラが手元の記録から顔を上げる。


「境務所属でもない」


「じゃあ何所属?」


「カリ=エルです」


 リィナが瞬きをした。


「都市?」


「はい。所属というより、配置されています」


 セイルの視線が一度だけ窓の外へ向いた。昼の街を荷車が走り、商人が客を呼び、遠くから神殿の鐘が聞こえている。


 ガルドは窓の外の街を一度見た。


「神を呼ぶための使徒じゃねえ」


「むしろ逆です」


「逆?」


「神々を動かさないためにいます」


 リィナの顔が止まった。


 アストラだけが少し楽しそうに笑う。


「大変そう」


 セイルの指が無意識に小瓶の方へ動きかけ、途中で止まった。


 リィナも気づいたが、今度はなにも言わない。


「神格が人間社会へ直接介入すれば、神殿が動きます。他の使徒も反応します。さらに事態が拡大すれば、神格そのものまで動く可能性がある」


 セイルはそこでアストラを見た。


「そうなれば」


「僕?」


「事件ではなく災害です」


「ひどいな」


 ガルドはアストラを見もしない。


「妥当だ」


「じゃあセイルが地下に来ればいいじゃん」


「行きません」


「強いんでしょ?」


「強さの問題ではありません」


 ガルドが机の端を指で軽く叩いた。


「こいつが剣持って地下へ降りたら」


「《公の使徒が地下問題へ正式介入した》と解釈されます」


「誰に?」


「神殿も、地下側も、神格もです」


 リィナが顔をしかめる。


「……面倒」


「面倒だな」


 セイルがガルドへ視線を戻す。


「あなたにだけは言われたくありません」


 ガルドは黙った。


 否定しづらい。


「現状、死者はオルフェン司祭一名。未登録神鎖反応、地下由来の不明遺物、消滅過程にある神格。十分に危険です」


「だよね」


「ですが、私が正式に介入すれば、危険の種類が変わります」


 セイルは報告書を指先で揃えた。


「今はまだ、人間側で調査を続ける余地があります」


 ガルドは報告書へ目を落としたまま頷く。


「正しい」


 リィナが横を見る。


「強い奴が動くのが正解とは限らん」


 セイルもガルドを見る。


 判断だけが短く重なり、どちらもそれ以上は言わなかった。


「では、地下で起きた接続断裂の件へ戻ります」


「そうしろ」


 セイルが次の報告書を開く。


「エリュネは完全に消失しましたか」


「戻った」


「時間は」


「知らん」


「七秒前後」


 ミラが即答した。


 ガルドが横を見る。


「数えてたのか」


「うん」


 セイルのペン先がその時間を書き込む。


「助かります」


「俺より話が早いな」


「時間は客観的」


 ミラは真顔だった。


「消失中、レヴァン側は?」


「神威流が急激に減衰した。エリュネが戻ったのと、ほぼ同時に復帰してる」


 セイルは短く書き込んだ。


「ガルドさん自身には」


「目が痛んだ」


「血も出た」


 リィナが加える。


「余計なこと言うな」


「神経も焼けかけた」


 今度はアストラだった。


「それはお前の推測だ」


「神だから分かる」


「こういう時だけ説得力あるの嫌だな」


 リィナが嫌そうな顔をする。


 セイルはペン先を止めた。


「一つ、前提を確認します」


「なんだ」


「あなたとアストラの神鎖は、現在も完全に切れていますか」


 室内の空気が少しだけ静まった。


「切った」


「それは過去形です」


 ガルドの目が細くなる。


「なにが言いたい」


「通常、神鎖を完全に断たれた人間は、生存が極めて困難です。ですが、あなたは生きている」


「見りゃ分かる」


「今回、義眼は他者の神鎖らしき接続を認識した」


「可能性が高い、まで」


 ミラが訂正する。


「はい」


 セイルはそのまま受け入れた。


「そして、アストラとの相互影響も完全に失われたとは断定できません」


「つまり、まだ繋がってるかもしれない?」


 アストラの顔が明るくなる。


「嬉しそうに言うな」


「僕はずっとそう言ってるよ」


「お前の場合、比喩なのか事実なのか分からん」


「両方かも」


「役に立たんな」


 セイルがガルドへ視線を戻す。


「切断されたことと、現在なにも残っていないことは、同じではありません」


 リィナが三人を見比べた。


「じゃあ結局?」


「分かりません」


「分からないんだ」


 ミラはガルドとアストラを順に見る。


「だから疑ってる」


「《完全切断済み》って前提自体、いずれ検証し直す必要がある」


 ガルドはしばらく黙った。


 眼帯の奥に残る痛み。アストラ。地下で一度だけ見えた線。


 今はどれも答えにならない。


「今やる必要は」


「ありません」


 セイルの返答は早かった。


「話が早い」


「優先順位です」


 机の上には、今調べるべきものがある。


 ネア。オルフェン。地下遺物。レヴァン。エリュネ。


「現在はこちらです」


「同感だ」


「僕との関係は後回し?」


「永久に後回しだ」


「長いね」


「喜ぶな」


 その時、扉が二度鳴った。


 軽すぎず、強すぎないノックだった。


 セイルが扉へ視線を向ける。


「どうぞ」


 入ってきた男は室内全体へ一礼した。整った服装に実務用の書類鞄。胸元には、見慣れない者にも公的なものと分かる徽章がある。


 ミラの視線が、男の胸元の徽章から顔へ上がる。


「エルディン=ヴァレイン」


「あ」


 リィナも、廃巡礼路の開放記録にあった署名を思い出したらしい。


 男は空いた席へ近づき、座る前にもう一度軽く頭を下げる。


「エルディン=ヴァレインです」


「この名前……」


 リィナがミラへ顔を寄せる。


「廃巡礼路の立会記録」


「よくご存じですね」


 聞こえていたらしい。


「仕事だから」


「結構です」


 ガルドが男の徽章を見る。


「成立証路団か」


「はい」


「なにしに来た」


 言い方は良くないが、エルディンは気にした様子もない。


「立会いです」


「何の?」


 リィナが聞く。


「今回、誰が、なにを決めるか」


「……なにそれ」


 セイルが机上の報告書へ指を置く。


「神殿だけの事件ではなくなりました」


 境務、公の使徒、地下側の古い権利、神鎖。いくつもの立場が一つの事件へ重なり始めている。


 エルディンは鞄を開き、書類を机へ置いた。


 三枚の書類を横へ並べる。


 その脇に、一枚だけなにも書かれていない紙を置いた。


 三枚には、すでに文字が並んでいる。


 最後の一枚だけが白い。


「今回の継続調査について、現時点で成立可能性を確認できる方針は三つです」


 一枚を前へ出す。


「旧巡礼路を再封鎖する」


「ネアは」


 リィナが即座に聞いた。


「地下にいる場合、継続捜索が困難になります」


「オルフェンの資料も?」


「同様です」


 ガルドが紙を見る。


「却下寄りだな」


「そう判断することはできます」


 二枚目。


「神殿人員を投入し、地下を面で捜索する」


「神格勢力への刺激が大きすぎます。地下居住者との衝突も避けにくい」


 セイルの答えは早い。


 リィナは二枚目の紙を見たまま、すぐ首を横へ振る。


「嫌」


「そう判断することもできます」


 三枚目。


「境務を中心とした、少人数での継続調査」


 リィナの顔が少しだけ明るくなる。


「一番まとも?」


「人的危険度は最も高いです」


「全部嫌!」


「はい」


「はい?」


「良い選択肢があるとは申し上げていません」


 リィナは口を閉じた。


 ガルドは三枚を見比べる。


 長くは迷わなかった。


「足りねえな」


「なにがでしょう」


「条件」


 三枚目を指で叩く。


「これが一番近い。だが、人員を神殿や成立証路団に決められるのは嫌だ」


「続けてください」


「現地で状況が変わったら、その場で方針も変える」


 リィナが横からガルドを見る。


「帰れなくなるなら撤退する」


 今度は、その視線に気づいてもガルドはなにも言わなかった。


「その条件込みならやる」


 エルディンは三枚のどれにもペンを置かなかった。


 横に残していた白紙を、手元へ引き寄せる。


「では、別案として成立可能性を確認します」


「いいの?」


 リィナが聞いた。


「成立するなら」


 エルディンのペン先が、初めて白紙へ触れた。


 ガルドは初めて少し長くエルディンを見る。


「話が早いな」


「私が選ぶわけではありません。成立する選択肢を確認するだけです」


「気に入った」


「早っ」


「ありがとうございます」


「そこまで言ってねえ」


 横からアストラが割り込む。


「僕には一度も言ってくれない」


「なんで張り合う」


 リィナは三枚の書類と、エルディンの手元へ移った白紙を見比べた。


「じゃあさ。あなたならどれ選ぶ?」


「私は選びません」


「え?」


「私の選択ではありません」


「三つ出したのに?」


「提示しただけです」


「無責任じゃない?」


「そう見えることは理解しています」


 エルディンは声色を変えなかった。


「私が選ぶべき案まで示せば、それは本当に“本人が選んだ”と言えるでしょうか」


 リィナが机の上へ視線を落とす。


 三枚の案。その横に、まだなにも書かれていない紙。


 少し考えてから顔を上げた。


「でも、決めてくれないんだ」


 エルディンはリィナを見る。


「あなたの人生を、私が決めるべきですか?」


 今度はすぐに返事が出なかった。


 やがてリィナが小さく首を振る。


「……それは嫌」


「私もです」


 ガルドも三枚の書類へ目を落とす。


「本人が決めるなら文句はねえ」


「私もです」


 二人の返答は、それ以上続かなかった。


 ガルドが机上の紙へ目を落とす。


「存在する案を隠す」


「しません」


「後で都合悪くなったから書き換える」


「しません」


「面倒な奴だな」


「よく言われます」


「褒めてねえ」


「承知しています」


 リィナが二人を見比べた。


「なんか会話早いね」


「そうか?」


「私は話しやすいですが」


「俺はそこまで言ってねえ」


 ミラは白紙の方を見る。


「新しい案が成立可能だと確認されたら?」


「追加します」


「成立しないなら」


 今度はセイル。


「選択肢とは記録しません」


「私が“全部嫌”って言ったら?」


 リィナが聞く。


「拒否したと記録します」


「それだけ?」


「はい」


 リィナはもう一度、三枚の紙を見る。


 ガルドが続けた。


「あとで選び直したら?」


「新しい選択として記録します」


「前の記録は」


「残します」


「消さねえ?」


「その時点で選んだ事実まで、消えるわけではありません」


 ガルドは数秒黙った。


「記録好きだな」


「仕事ですから」


「分かる」


 ミラが頷く。


「情報屋までそっち行った」


 リィナがため息をつく。


 アストラは書類ではなく、ガルドを見る。


「僕は記録より記憶が好きだけど」


「聞いてねえ」


「ガルドのことなら全部覚えてる」


「だから気持ち悪いんだよ」


 その間にもエルディンは手元の書類を揃えていた。


 ガルドが鞄から一枚の紙を取り出し、机へ置く。


 廃巡礼路の開放記録。


「じゃあ」


 末尾の署名を指す。


「これも嘘じゃねえんだな」


 エルディンは紙へ目を落とした。


「はい」


「この夜、お前が地下へ行った」


「はい」


「即答」


 リィナが呟く。


「事実ですから」


「なにしてた」


「旧巡礼路に残る境界標と、地下権利範囲の現地立会です」


 ミラが開放記録と照合する。


「記録と一致」


「ノクティスが追ってる権利文書」


「関連はあります」


「どの程度」


「現在の資料だけでは断定できません」


「そうか」


 ガルドはそれ以上追わず、次の問いへ移った。


「レヴァンを知ってるな」


 ほんの短い間があった。


「はい」


 リィナがエルディンを見る。


「知ってるんだ」


「以前、立ち会いました」


「なんの」


「開示できません」


 ガルドの目が少し険しくなる。


「さっき、案を隠さねえって言ったな」


「成立可能な選択肢を、恣意的には隠しません」


「じゃあなんで言えねえ」


「個人照会の記録だからです」


 エルディンは手元の紙へ指を置いた。


「本人同意、正式な開示命令、あるいは照会内容と現在の事件に直接関係があると確認された場合に限り、開示できます」


「オルフェンが死んでる」


「存じています」


「レヴァンは現場と同系統の力を使った」


「報告で確認しました」


「十分じゃないか」


「レヴァンの過去照会内容そのものが、殺害へ直接関係していると確認されていますか」


 ガルドは答えなかった。


 神殿で見た黒銀の痕と、地下で受けたレヴァンの攻撃。似ている。


 レヴァンは怪しい。


 だが、それと過去の照会内容が殺害へ繋がっているかは別の話だった。


「……まだだ」


「では開示できません」


 ガルドはそれ以上押さなかった。


 リィナが僅かに眉を寄せる。


「融通きかない」


「融通で個人記録を開ける制度は、信用されません」


「それはそうだけど……」


 ガルドは数秒考え、質問を変えた。


「内容はいい」


「はい」


「何個出した」


「なにをでしょう」


「選択肢」


 エルディンが一度だけ目を伏せる。


「以前の個人照会で提示した選択肢は三つです」


「レヴァンは選んだか」


「はい」


「どれ」


「それは照会内容に含まれます」


「十分だ」


 リィナが横を見る。


「なにを選んだか分からないのに?」


「今はそれでいい」


 ミラが小さく頷いた。


「今の行動が、その時の選択の延長かもしれない」


 エルディンは手元の記録を閉じない。


「推測することは自由です」


「嫌な言い方だな」


「事実です」


 セイルが少しだけ身を動かした。


「照会内容に、神格との関係が含まれていましたか」


「開示できません」


「そうですか」


 セイルの指が胃薬の小瓶へ触れた。


 持ち上げる直前で止まり、そのまま机の端へ戻す。


 リィナがその動きを見ていたが、なにも言わなかった。


 エルディンは書類を揃える。


「質問は以上でしょうか」


「今はな」


「では継続調査について――」


「地図ないけどね」


 リィナの一言で全員が止まった。


「旧道、崩れたじゃん」


 ガルドも黙る。


「既存図だと、深部から戻れる経路を確定できない」


 ミラが事実だけを足した。


「そうだったな」


「忘れないでよ!」


「考えること多かったんだよ」


 ガルドは少し考えた。


「……あの転ぶ奴」


「誰?」


「イオリ」


 ミラが即答した。


「それ」


 資料室へ場所を移すと、呼ばれたイオリは書架の間から慌てて出てきた。


 長い金髪を後ろで束ね、今日も何冊かの資料を両腕へ抱えている。


「なんでしょう」


「旧道歩いたことあるって言ったな」


「迷っただけです」


「十分だ」


「なにがです?」


 隣でリィナもイオリの地図を覗き込む。


「私も聞きたい」


 ミラは机へ旧図を広げた。


「記憶と照合して」


「僕の?」


「うん」


「自信ないんですが……」


「最初から期待してねえ」


「それ、安心していいんでしょうか」


 イオリは地図へ顔を寄せ、しばらく線を追ったあと、一か所を指した。


「ここ……だったような」


「どっちだ」


「たぶん」


「たぶん!?」


 リィナの声が上がる。


「でも、こっちにも似た階段があった気がします」


 今度は別の場所を指す。


「役立つ?」


「知らん」


「僕も不安になってきました」


 ミラはイオリが指した二か所を順に見比べる。


「これだけじゃ経路情報にはできない」


「すみません」


「謝らなくていいって」


 ガルドはイオリを見る。


「一個聞く」


「はい」


「迷った時、死にそうになったか」


「なりました」


「え」


 今度はリィナの声が低くなる。


「どう帰った」


「……分かりません」


「それでも帰った」


「はい」


 ガルドはそれ以上聞かなかった。


 イオリはもう一度地図を覗こうと椅子から立ち上がり、脚を引っかけた。


「あ」


 身体が前へ崩れ、肩が書架へ当たる。


 ゴン、と鈍い音がした。


「痛っ!」


 一冊の古い本が落ち、その衝撃で書架横の補修板が少しだけずれた。


 板の裏にできた細い隙間へ、古びた紙筒が一本挟まっている。


 しばらく、誰も動かなかった。


「……また?」


 リィナが言う。


「僕、なにかしました?」


「転んだ」


 ミラが答えた。


「それは分かります」


 ガルドが紙筒を抜き、ミラと机へ運ぶ。


 中身を広げると、古い線と分岐、現行図には載っていない細道が現れた。


「旧巡礼路補助経路図」


 ミラの目が僅かに動く。


「なんでそこに!?」


「保管移行の時に、所在不明になった可能性がある」


「使える?」


 ミラは図面を追い、現行図となんか所か照合した。


「使える」


 ガルドがイオリを見る。


「連れてく」


「どうして!?」


 イオリ本人の声が一番大きかった。


「待って!」


 リィナも入る。


「なんだ」


「幸運のお守りみたいに連れていかないで!」


「それだけじゃねえ」


「じゃあなに」


 ガルドはイオリを見る。


「一回、旧道を歩いてる」


「迷子で」


「それでも、生きて戻ってる」


 リィナの言葉が止まった。


「帰ってこれる奴は役に立つ」


「……それは」


「なんだ」


「理屈は分かる」


「ならいい」


 イオリが控えめに手を上げた。


「あの。本当に僕でいいんですか?」


「知らん」


「えっ」


「そこで安心させて!」


「使えなかったら帰す」


「地下から?」


「地上へ」


「分かりづらい!」


 イオリは困った顔のまま地図を見る。


 ガルドはそこで初めて、イオリ本人を見る。


「行くか」


「僕が?」


「嫌なら断れ」


 イオリが顔を上げた。


 不安は消えていない。視線が地図へ落ち、またガルドへ戻る。


「ネアさんの事件ですよね」


「ああ」


「少しだけですが、書類を運んでいたので知っています」


 リィナが少し真面目な顔でイオリを見る。


「危ないよ」


「分かっています」


「本当に?」


「……たぶん」


「そこは自信持って!」


 イオリは少しだけ笑った。


「でも、僕で役に立つなら行きます」


「じゃあ来い」


 それで決まった。


 リィナが自分の荷物にしまった遺書を思い出したように顔を上げる。


「遺書いる?」


「え?」


「勧誘するな」


「大事だよ!」


「遺書……?」


「今考えるな」


 イオリの顔がさらに不安になった。


 資料を持って会議室へ戻る。


 エルディンは最初の三枚を、そのまま机へ残していた。


 その横には、先ほどまで白紙だった一枚がある。


 ガルドが提示した条件だけが、簡潔に書き込まれていた。


 エルディンは図面と同行者の情報を確認してから、その一枚を読み上げる。


「現場裁量を拡大した少人数継続調査。必要人員は境務側で選定。現地状況により行動方針を変更可能。帰還不能の危険が高まった場合、撤退を優先」


「ああ」


 セイル、境務側の資料、新たに見つかった補助経路図へ順に目を通す。


「成立可能です」


 リィナが少し驚いた。


「ほんとに追加するんだ」


「成立しますから」


 ガルドが追加された一枚へ目を落とす。


「やっぱ話早いな」


「ありがとうございます」


「褒めてねえ」


「結構仲良くない?」


 リィナが二人を見る。


「どこが」


「私は話しやすいと思っています」


「俺はそこまで言ってねえ」


「僕より?」


 アストラがすぐ割り込む。


「張り合うな」


 正式な調査要員は四人。


 ガルド、リィナ、ミラ、イオリ。


 ノクティスは別経路を継続している。


 アストラが当然のように一歩出た。


「僕も行く」


「来るな」


「聞くだけ無駄じゃない?」


 セイルもアストラへ視線を向ける。


「できれば、今回は残ってください」


 アストラの顔が少し明るくなった。


「二人に拒絶された」


「なんで嬉しいの!?」


「慣れてるから」


「慣れるな」


 ガルドは椅子から立ち上がった。


 右目の奥へ痛みが走る。


 今度は顔に出さない。


 リィナが見ていることには気づいていたが、彼女もなにも言わず、腰の荷物を開いていた。


 灯り。


 水。


 ロープ。


 帰るための道具を、もう一度確かめている。


 部屋を出る直前、エルディンに呼び止められた。


「ガルドさん」


「なんだ」


「また、成立する別案を見つけた場合は教えてください」


「なんで」


「記録します」


「勝手にしろ」


「はい」


 ガルドはそのまま部屋を出た。


 リィナ、ミラ、イオリが続く。


 アストラも当然のようについていこうとする。


 セイルは去ろうとするアストラへ、もう一度視線を向ける。


「残っていただけると助かります」


「嫌だ」


「そうですか」


 セイルの指が胃薬へ触れた瞬間、廊下の向こうからリィナが振り返る。


「飲まないでよ」


 アストラが笑う。


 数秒後には、そこにいなかった。


 人が減った会議室に、昼の街のざわめきだけが窓から薄く入り込んでいる。


 エルディンは机へ戻った。


 最初に提示した三枚の横へ、新しく増えた一枚を並べる。


 ペン先を紙へ置いた。


《現場裁量型・少数継続調査――成立》


 一度読み返し、署名する。


 それから静かに紙を閉じた。

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