第四章 破壊神は他人の恋愛に厳しい
半壊した礼拝所は、休む場所としては悪くなかった。
信仰の場としては、もう何年も前に役目を終えている。祭壇は角が欠け、壁の半分は崩れ、かつて刻まれていた神名も摩耗して読めない。
その代わり、入口から少し奥へ入れば外の通路から死角になり、左右へ分かれた古道も見渡せる。不意打ちを警戒しながら身体を休めるには十分だった。
ガルドは崩れた壁へ肩を預けていた。
座り込むほどではないが、立ち続ける気もない。剣を膝の高さまで持ち上げ、レヴァンの黒銀を受けた箇所に欠けや歪みがないか確かめる。
問題があるとすれば、剣より自分の方だった。
眼帯の奥が、鈍く疼いている。
少し離れた床では、リィナが荷物を広げていた。
「水、あと六割」
水袋を振って残量を確かめ、次の荷物へ手を伸ばす。
「包帯、二本。灯りは予備込みで三つ」
「数えなくても見りゃ分かる」
「帰る時に足りないって分かるよりいいでしょ」
「好きにしろ」
「好きにやってる」
答えながら、リィナは今度は靴底を確かめた。
泥の付き方。
欠け。
紐。
地下へ入る前より、確認するものが増えている。
ミラはその横で、小さな紙へ何かを書き込んでいた。
「何書いてるの?」
「さっきの戦闘記録」
「全部?」
「必要な部分だけ」
「私が転びかけたのも?」
「必要ない」
「よかった」
ミラは一度だけ筆を止めた。
「別紙」
「なんで!?」
冗談を言った顔ではない。
リィナが本当に別紙があるのか確認しようとしたところで、ノクティスが地図を畳んだ。
「私は一度、こちらを確認してきます」
長い指が、地図の枝道を示す。
本隊が進む経路とは違う、さらに古い旧道だった。
「一人で?」
リィナが顔を上げる。
「ええ」
「危なくない?」
ノクティスは少し考えた。
「何がですか」
「……全部?」
ガルドが剣を鞘へ戻す。
「行かせろ」
「いや、強いのは知ってるけど」
「戻る場所は分かっています」
「そういう問題かなあ」
ガルドはノクティスの装備を一度見た。
武器。
荷物。
灯り。
足元。
それから地図。
「長居すんな」
「分かりました」
「死ぬなよ」
「善処します」
「善処なの!?」
ノクティスは気にした様子もなく礼拝所を出ていった。
足音が一つ目の角を曲がり、さらに二つ目を越え、やがて聞こえなくなる。
礼拝所には三人だけが残った。
リィナは荷物を閉じ、紐を締めた。それから立ち上がると、ガルドの真正面へ座る。
「何だ」
「で?」
「何が」
「《神鎖》」
剣を拭いていたガルドの手が止まった。
「逃げないで」
「逃げてねえ」
「じゃあ説明して」
「面倒だ」
「これから、その面倒な人追うんでしょ!」
リィナは指を一本立てた。
「さっき、レヴァンが動く前にエリュネが分かってた」
二本目。
「エリュネが危なくなったら、レヴァンが戦い全部放り出した」
三本目。
「それであいつ、ガルドを《神鎖の残骸》って呼んだ」
指を下ろす。
「知らないまま次やるの、危ない」
ガルドはすぐには返さなかった。
布をもう一度だけ刃へ滑らせ、鞘へ収める。それからようやくリィナを見る。
「……何が知りたい」
「最初から」
「長くなる」
「必要な部分だけでいい」
ミラが紙から顔を上げた。
「お前まで乗るな」
「見たものと照合する」
「まず使徒」
リィナが言う。
ガルドは小さく息を吐いた。
「広い言葉だ」
「どう広い?」
「神から役目か、力か、両方もらってる人間」
「神官?」
「神官とは限らん」
「神殿公認もいる。個人的な神格との契約だけで成立する者もいる」
ミラが補足する。
ガルドが横目で見た。
「そこまでは知ってる」
「じゃあお前が説明しろ」
「神鎖は、実体験者に聞く方が正確」
「誰が実体験者だ」
「違うの?」
リィナが聞いた。
ガルドは少し黙った。
「……昔な」
リィナの目が僅かに開く。
ミラの筆も止まった。
だが二人とも、大げさには驚かない。レヴァンの反応を見た後では、完全な意外でもなかった。
「やっぱり」
「話進めるぞ」
ガルドは壁から肩を離した。
「使徒の中でも、神との繋がりが深くなりすぎる奴がいる」
「どのくらい」
「力だけじゃない」
ガルドは指を立てる。
「神威」
次。
「感覚」
少し間を置いて。
「生命」
リィナの表情が変わった。
「痛いのも分かる?」
「場合による」
「見えてるものも?」
「場合による」
「考えてることも?」
「場合による」
「便利だね」
「便利だけなら《鎖》なんて呼ばれねえ」
リィナが黙る。
「好きだから繋がった奴もいる。信仰でそうなった奴もいる」
ガルドは崩れた祭壇を一度見た。
「命令された奴もな」
「嫌いでも?」
「ある」
「憎んでても?」
「切れないこともある」
「じゃあ、何で決まるの」
礼拝所の壁には、装飾だったらしい鎖模様が残っている。
偶然そこへ目を向けたあと、ガルドはリィナへ視線を戻した。
「繋がり方じゃねえ」
少し間を置く。
「切れなくなったら鎖だ」
礼拝所が静かになった。
ミラも書かない。
ガルドを見ている。
「……切ったら?」
リィナが聞いた。
ガルドは答えない。
「ガルド」
「普通は死ぬ」
「どっち?」
「人間」
今度こそ誰も声を出さなかった。
リィナの視線が、自然とガルドの眼帯へ向かう。
そこから頬。
首。
身体に残る古傷へ。
「でも」
「俺は生きてる」
「なんで」
「知らん」
「本当に?」
「本当に」
ミラが静かに尋ねた。
「他に生存例は」
「聞いたことがない」
「だからレヴァンは驚いた」
「たぶんな」
「《神鎖の残骸》」
リィナが小さく呟く。
ガルドの眉が寄った。
「その呼び方、嫌?」
「好きではねえ」
「何て呼ばれたい?」
ミラが真顔で聞く。
「ガルドでいい」
「僕はもっと特別な呼び方でもいいと思うけど」
後ろから声がした。
三人とも振り返る。
崩れた祭壇の上。
いつからいたのか。
アストラが腰掛けていた。
ガルドは一秒だけ見る。
「帰れ」
「会って最初がそればっかりだね」
「来るなと言った」
「聞いたよ」
「なら何で来た」
「君に会いたかったから」
「いつからいたの!?」
リィナが立ち上がる。
「少し前」
「三分四十七秒くらい」
ミラが言った。
三人分の視線が集まる。
「言え」
ガルドの声が低くなった。
「問題ないと思った」
「問題しかねえ」
「三分以上いたの!?」
リィナが祭壇を見る。
「どこに?」
アストラは今座っている場所を軽く叩いた。
「ここ」
「見えなかった……」
「僕はずっと見てたよ」
「怖い!」
アストラは楽しそうだった。
「昔の話してたね」
「してねえ」
「してた!」
「余計なこと言うな」
リィナの目が光る。
「じゃあ聞く」
「聞くな」
「あの美形って――」
「昔の男だよ」
沈黙。
リィナが瞬きをする。
「……え?」
「違う」
ガルドが即座に否定した。
「ひどい」
「事実を歪めるな」
「一緒に寝たこともある」
「え」
今度はリィナとミラの声が微妙に重なった。
「そうなの?」
「宿に寝台が一つしかなかっただけだ!」
「同じ寝台で寝た事実は変わらない」
「百年以上前の話を盛るな」
アストラの笑顔が一段明るくなる。
「覚えてる」
ガルドは口を閉じた。
「百年以上前なのに」
「昔のことだ」
「でも覚えてる」
「うるせえ」
アストラにとっては、昔話の正確さよりも、ガルドが覚えていること自体の方が重要らしい。
祭壇から降り、ゆっくりガルドへ近づいてくる。
視線が眼帯へ落ちた。
「さっき痛んだ?」
「見てたなら聞くな」
「君のことは、心配したいから聞いてる」
「要らん」
「僕には要る」
軽かった声から、ほんの少しだけ温度が落ちる。
リィナはそれを拾った。
ガルドは拾わないふりをした。
「この人も神鎖?」
「昔はね」
アストラが答える。
「余計なこと言うな」
「やっぱり!」
リィナがガルドとアストラを見比べる。
「じゃあ、二人ってどういう関係?」
「次行くぞ」
「特別」
アストラが言った。
「違う」
「僕にとっては」
ガルドの動きが止まる。
アストラも、それ以上は近づかなかった。
少し間が空いた。
「……それなら勝手にしろ」
アストラの笑顔が、ほんの少し変わる。
リィナが首を傾げた。
「そこは否定しないんだ」
「こいつがどう思うかまで、俺が決められるか」
アストラが一瞬だけ目を見開いた。
ガルドはもう立っている。
「行くぞ」
アストラも当然のように動いた。
「お前は帰れ」
「下まで送る」
「頼んでない」
「知ってる」
四人は礼拝所を出た。
古道をさらに下る。
「帰れ」
「下まで送る」
「頼んでない」
「知ってる」
リィナが後ろから二人を見る。
「さっきと同じ会話してない?」
「かなり繰り返してる」
ミラが答える。
「記録するな」
ガルドの声だけが乾いていた。
地下へ進むにつれ、アストラの様子が少しずつ変わっていった。
普段なら、視線の大半はガルドへ向いている。
今は違う。
壁。
床。
天井。
さらに奥。
何かを探すように見ている。
「ねえ」
「何だ」
「アストラ、静かじゃない?」
「静かな方がいい」
「ひどいな」
アストラは笑った。
だが、いつもの笑顔ほど深くない。
「ほら」
リィナが言う。
ガルドもようやくアストラを見た。
「何かあるか」
「まだ」
「まだ?」
「何もない」
「じゃあ何で見てる」
アストラは壁へ目を向けたまま答えた。
「何もないことを確認してる」
ガルドはそれ以上聞かなかった。
ただ、その言葉だけ覚えた。
前方が開ける。
古い祭祀広間だった。
中央は広く、左右には崩れた柱が並んでいる。
その奥に、人影があった。
レヴァン。
そして、エリュネ。
レヴァンはまずガルドを見た。
次に、その後ろへ視線を移す。
アストラを見た瞬間。
身体まで止まった。
一歩も動かない。
顔色が明確に変わる。
エリュネも同じだった。
「知り合いか」
ガルドが聞く。
「さあ」
アストラは軽く首を傾ける。
レヴァンの口が開いた。
「……破壊神」
リィナの顔が固まる。
「アストラ」
沈黙。
アストラは普段と変わらない調子で手を上げた。
「こんにちは」
「…………え?」
リィナが一度だけ息を吸う。
「破壊神!?」
声が広間へ響いた。
「声がでかい」
「そこ!?」
「なんで破壊神が朝からあんたの部屋にいるの!?」
「俺が聞きたい」
「会いたかったから」
「帰れ」
「その人に普通に帰れって言うな!」
軽口はそこまでだった。
レヴァンがアストラを警戒したまま聞く。
「何をしに来た」
「ガルドについてきた」
「……それが一番信用できない」
「気が合うな」
ガルドが言った。
「ひどいなあ」
ミラはレヴァンを見ている。
「さっきより警戒してる」
その通りだった。
黒装束の者たちを相手にした時とも、ノクティスを見た時とも違う。
レヴァンは明確にアストラを危険視している。
エリュネもまた、アストラから目を離さない。
「アストラ……」
名前を呼ばれ、ようやくアストラがガルド以外へ真正面から視線を向けた。
エリュネの腕。
輪郭。
薄く揺れる光。
何かが少しずつ零れ落ちている。
アストラの笑顔が消えていく。
「ああ」
首を少し傾ける。
「君、消えかけてるね」
レヴァンの肩が硬くなる。
「そのままだと、長くないね」
「分かっている」
「なら諦めたら?」
広間の空気が凍った。
レヴァンの表情が変わる。
「……何?」
「レヴァン」
エリュネが止めようとする。
だがレヴァンの視線はアストラから動かない。
「消えるのを黙って見ていろと?」
「神なんて消えるよ」
アストラの言葉は冷たい。
けれど嘲笑ではなかった。
「信仰がなくなって消える神もいる。忘れられて消える神も」
「お前には分からない!」
「分かるよ」
「何が!」
アストラはエリュネではなく、レヴァンを見る。
「嫌なんだね」
少し間を置く。
「この子がいなくなるのが」
レヴァンは答えない。
「なら残せばいい」
「簡単に言うな!」
アストラの視線がガルドへ向く。
「こっち見るな」
「僕なら簡単だよ」
声は柔らかかった。
「世界を壊してでも、ガルドを残す」
誰もすぐには答えなかった。
リィナが一歩だけ距離を取る。
ミラは静かに頷いた。
「なるほど」
「納得しないで!」
「だからお前が嫌なんだ」
ガルドが言う。
アストラは少し嬉しそうに笑った。
「嫌いでも僕を止めてくれる?」
「世界壊そうとしたらな」
「よかった」
「何で!?」
「俺も知らん」
そこで。
レヴァンが小さく言った。
「……分かる」
ガルドが見る。
リィナも見る。
「失うくらいなら」
レヴァンはそこで言葉を止めた。
エリュネが彼を見る。
やがてアストラへ視線を移す。
「あなたは」
「何?」
「彼が望まなくても?」
「もちろん」
即答だった。
「聞いただろ」
ガルドが言う。
「でも君は生きてる」
「話をすり替えるな」
「生きていてほしいと思うのはいけない?」
「思うのは勝手だ」
ガルドはそこで止めた。
アストラの目が僅かに動く。
「やるのは別だ」
「……難しいね」
「お前が極端なんだ」
エリュネはガルドとアストラを見る。
次に、自分とレヴァン。
「私たちは違う」
「そうだね」
「レヴァンは私を――」
「君たちは」
アストラが静かに遮った。
「互いに欲しがってる」
笑顔がほんの少し薄くなる。
ガルドは何も言わなかった。
「好きにしろ」
レヴァンが眉を寄せる。
「……何?」
「二人がどう繋がってるかは、お前らの勝手だ」
「なら帰れ」
「司祭の件は別だ」
空気が切り替わる。
ガルドは一歩前へ出た。
「オルフェンを殺したのはお前か」
レヴァンは黙る。
「黙るなら通せ」
「できない」
「なら退かす」
レヴァンの手が武器へ下がる。
エリュネも彼の斜め後ろへ動いた。
アストラが楽しそうに一歩出ようとする。
「お前は手出すな」
「分かったよ」
「信用できる?」
リィナが聞く。
「できん」
ガルドが前へ出た。
ほぼ同時に、レヴァンも地を蹴る。
エリュネは何も言わなかった。ただ視線だけを左へ流し、それを合図にしたようにレヴァンがガルドの左側へ回り込む。黒銀の神威が刃の軌道を追い越すように走った。
ガルドは半歩退いて一撃をかわす。刃そのものは届いていないにもかかわらず、数歩離れた床へ細い異常が刻まれた。
「刃、当たってない!」
「物理軌道と損傷位置がずれてる」
ミラは柱際から戦場を見ていた。
エリュネの視線が今度は右へ動く。
レヴァンは間髪を入れず方向を変え、ガルドの死角へ滑り込んだ。
「後ろ」
「分かってる」
アストラの声が届くより早く、ガルドは身体を返さず剣だけを背後へ回した。
黒銀をまとった刃と剣がぶつかり、轟音が広間を揺らす。
「何で何も言わないの!?」
「伝える必要がないんだと思う」
エリュネがほんの僅かに身体を傾ける。
それだけでレヴァンは刃を引き、同時に淡い神威がエリュネから流れ込んだ。受け取った力を切れ目なく次の一撃へ繋げ、ガルドを一歩押し込む。
「アストラ」
「うん」
「手出すな」
「分かった」
レヴァンがさらに追う。
ガルドは横へ抜けたが、その先へもう次の刃が来る。エリュネの認識が先に走り、レヴァンの身体がそれへ遅れずついてくる。
アストラの指先が僅かに動いた。
レヴァンが踏み込むはずだった床の形だけが、ほんの少し歪む。消えたわけでも、割れたわけでもない。ただ一歩を成立させるには十分なだけ足場が狂い、レヴァンは反射的に後退した。
「手出すなっつっただろ!」
「死にそうだったから」
「死んでない!」
「まだね」
ガルドは舌打ちした。
アストラは完全には参戦しない。
本当に危険な瞬間にだけ、ごく小さく何かを壊す。足場の一部。攻撃の軌道。飛んできた柱の欠片。それだけなのに、ガルドは一度も彼を確認しない。
アストラが左側の空間へ一歩移れば、ガルドは同時に右へ出る。作られた隙間へ滑り込み、レヴァンが退こうとする進路を剣一本で塞いだ。
「……何あれ」
リィナが呟く。
「こっちも」
ミラが言いかける。
「神鎖、切れてるんでしょ?」
「そう聞いた」
レヴァンがガルドとの間合いを大きく切った。
その退路へ、柱際から位置を変えようとしていたミラが入る。
レヴァンは彼女を戦闘の中心とは見ていない。肩を使って進路から押し退け、ミラが半歩よろめく。
体勢を支えるように、片手がレヴァンの外套へ一瞬だけ触れた。
ほんの一呼吸。
レヴァンは気にも留めず、すぐガルドへ向き直った。
ミラも何も言わない。
手元を見ることすらせず、そのまま広間全体へ視線を戻す。
レヴァンの意識も、すでにガルドとアストラへ戻っていた。
最初は、アストラが一方的にガルドへ合わせていると思ったのかもしれない。
だが違う。
ガルドもまた、アストラが次に何をするか分かっている。
「なぜだ」
「何が」
レヴァンが間合いを詰め、二人の剣が交差する。
「なぜ拒絶しているのに――」
押し込まれる刃をガルドが受け流す。
「それほど繋がっている!」
「長いんだよ、付き合いが!」
「愛だよ!」
「黙れ!」
「仲悪いんじゃないの!?」
「悪い!」
「僕は大好き!」
「意見が一致してない」
「見れば分かる!」
次の瞬間、エリュネから流れ込む神威が一段強くなった。
その代わりに、彼女自身の輪郭が僅かに薄くなる。
レヴァンは戦闘の最中で気づかない。
リィナだけが一瞬、エリュネへ目を向けた。
「……あ」
直後、三本の黒銀が異なる角度からガルドへ走った。
二本は身体を捻ってかわす。
だが残る一本だけは、どう動いても抜けられない。
アストラの指が動き、ガルドへ届く寸前で黒銀の線だけが途切れた。
「力使うな!」
「君よりは平気」
「そういう話じゃねえ!」
レヴァンの速度が上がる。
単に身体が速くなったのではない。ガルドが動くより半拍早く、その先へ回り込んでくる。
右へ抜ければ右へ。
下がれば、その先へ。
ガルドが一歩ずつ押されていく。
「押されてる!」
「見りゃ分かる!」
「使って」
アストラの声。
「嫌だ」
「ガルド」
「嫌だ」
「死ぬよ?」
ガルドはレヴァンの剣を受けながら吐き捨てた。
「お前より先には死なん」
アストラの動きが止まった。
ほんの一瞬。
「約束?」
「違う」
真正面から、レヴァンが今までで最大の黒銀を放つ。
ガルドは逃げずに剣で受けた。
衝突した瞬間、眼帯の内側で何かが弾ける。
激痛と同時に音が遠ざかり、広間から色が抜けていった。
灰。
黒。
白。
それでもガルドは立っている。
目の前にはレヴァンも、エリュネもいた。
そして二人の間に、今まで見えなかったものが浮かんでいた。
一本の線。
太さは一定ではない。
光とも違う。
鎖にも見える。
血管にも、神経にも、傷口にも似ている。
だが、そのどれでもない。
ただ一つ分かるのは、それが明確にレヴァンとエリュネを繋いでいることだった。
ガルドは、それが何なのか考えなかった。
考える余裕もない。
レヴァンが次の攻撃へ入る。
ガルドの身体が勝手に動いた。
いつもなら腕を見る。
武器を見る。
足を見る。
今回は違った。
レヴァンを見ない。
線だけを見る。
「何を――」
レヴァンの声が聞こえた。
ガルドが剣を振る。
派手な爆発は起きなかった。
むしろ、その瞬間だけ音が消えた。
黒銀が止まり、レヴァンの武器も止まる。
そして。
エリュネが消えた。
光も、影も、気配も。
何も残らない。
レヴァンが振り返る。
何が起きたのか理解できていない。
「……エリュネ?」
返事はない。
「エリュネ」
まだない。
「エリュネ!」
声が広間へ響いた。
それまで保っていた冷静さが完全に消えていた。
剣も。
ガルドも。
司祭も。
先へ進ませないという目的も。
全部、頭から抜け落ちたようだった。
同時に、ガルドの身体へ激痛が走った。
「ぐっ……!」
痛みは眼帯の奥だけではない。頭蓋から首、背中、右腕へと一気に突き抜け、全身の神経を焼かれたような感覚に片膝が床へ落ちた。
眼帯の下から血が流れる。
「ガルド!」
リィナが動く。
「ガルド」
アストラの声もした。
いつもの声ではない。
すぐそばまで来たアストラが肩を掴む。
「離せ」
「嫌だ」
「触るな」
「今は聞かない」
アストラの手が眼帯へ伸びる。
ガルドも止めようとしたが、手が遅い。
明らかに。
アストラは笑っていなかった。
「大丈夫!?」
「平気だ」
「絶対違う!」
「いつもの――」
「違う」
低い声だった。
ガルドが見る。
真顔。
そこで誤魔化すのをやめた。
その時。
「エリュネ!」
弱い光が戻った。
一粒。
二粒。
空間へ光が集まり、ゆっくり輪郭を作る。
エリュネ。
再び姿を現した。
レヴァンが駆け寄る。
肩。
腕。
手。
一つずつ触っていく。
「分かるか」
「何が……」
「俺だ」
「分かるよ」
レヴァンは一瞬だけ目を閉じた。
その横顔だけで、十分だった。
「今なら――」
リィナが武器へ手を伸ばしかける。
「やめとけ」
ガルドが止めた。
「でも」
「あいつは今、戦ってねえ」
リィナの手が止まる。
それ以上、理由を説明する必要はなかった。
アストラがガルドを見る。
「何をしたの」
「分からん」
「何が見えた」
ガルドは眼帯を押さえながら答えた。
「線」
アストラの顔が固まる。
「……線?」
「あいつと」
レヴァンを見る。
次にエリュネ。
「神の間」
「どういう」
「鎖みたいな」
アストラが完全に黙った。
「何だ」
返答がない。
「アストラ」
「……本来」
そこで言葉が切れた。
「本来?」
「君に見えるものじゃない」
「俺もそう思う」
レヴァンがようやくガルドを見る。
怒りと恐怖が、両方ある。
「何をした」
「こっちが聞きたい」
「二度とやるな」
「お前が決めるな」
「また消えたら――」
「だから分からんって言ってる」
「お前は!」
エリュネがレヴァンの袖を掴んだ。
「レヴァン」
それだけで。
レヴァンは止まった。
エリュネを見る。
それからガルドたちへ視線を戻す。
戦うより。
エリュネをここから離す。
そちらを選んだ。
「……行くぞ」
「うん」
二人は奥へ退いていく。
ガルドは追わない。
アストラも動かない。
ミラだけが、先ほど何が起きたのかを目で追っていた。
ガルドの剣。
エリュネが消えた位置。
レヴァン。
広間の床。
「重要」
「痛え時に楽しそうに言うな」
「楽しんでない」
「目がそう言ってる」
「興味深いだけ」
「それを楽しんでるって言うんだよ」
リィナが言った。
ガルドが立とうとする。
全身へ痛みが走り、身体が僅かに崩れた。
すぐアストラが腕を掴む。
「離せ」
「嫌だ」
「珍しく素直だな」
「今は冗談じゃない」
その声には、ガルドも何も返さなかった。
リィナが顔を覗き込む。
「血出てる」
「知ってる」
「痛い?」
「痛い」
リィナが止まった。
「何だ」
「普通に言った」
「痛えからな」
「いつも平気って言うじゃん」
「今は平気じゃねえ」
「……それ相当じゃん」
アストラの顔はまだ険しい。
ミラが少し近づいた。
「確認していい?」
「短くしろ」
「レヴァンの身体に、明確な切創はない」
次に、エリュネが消えた場所を見る。
「エリュネは一時消失。同時に、レヴァン側の神威流も停止してる」
少し考える。
「なら、二人の接続に干渉した可能性がある」
「神鎖?」
リィナが言う。
「分からん」
「でも」
「何かは切れた」
「そして戻った」
「ああ」
それ以上は誰も確定しなかった。
「もうやらない方がいい」
アストラが言った。
「理由」
「今ので」
アストラの視線が、眼帯から首筋へ。
さらに手へ。
「君の神経が焼けかけた」
「先にそれ言って!?」
「焼けてねえ」
「かけた」
「似たような――」
「違う!」
声が広間へ響いた。
全員が止まる。
世界を壊すと言いながら笑える男が。
ガルドの怪我だけで、声を荒らげていた。
「もう一度やれば死ぬかもしれない」
「そうか」
「そうかじゃない」
「危険なのは分かった」
「やらないって言って」
「嫌だ」
「ガルド」
ガルドは剣を見た。
次に眼帯。
そして、先ほどレヴァンとエリュネがいた場所へ視線を移す。
「切れるかもしれんと分かった」
「だからって」
「なら」
少し間を置く。
「死なない方法を探す」
「普通そこでやめるんじゃないの!?」
「何でだ」
「死ぬかもしれないんだよ!」
「だから死なねえ方法を探す」
「同じこと言ってる!」
「問題が分かったら解決する」
「簡単みたいに!」
「簡単とは言ってねえ」
「論理は通ってる」
ミラが静かに言う。
「ミラまで乗らないで!」
アストラだけは笑っていなかった。
「君は……」
そこで止める。
「何だ」
「……変わらないね」
「何が」
「後で言う」
小さな石が落ちた。
リィナの顔が即座に上へ向く。
続いて砂が落ちる。
天井へ走る亀裂。
戦闘の影響で、戻る側の通路にも損傷が出ていた。
リィナはすぐ地図を開いた。
「……今日は戻る」
「まだ行ける」
ガルドの返答は速い。
「行けると帰れるは別!」
リィナは地図を床へ広げた。
「ここ」
戦闘で崩れた区画を指す。
「さっきの戦闘で使えなくなった」
次の経路。
「こっちは、レヴァンたちが抜けた時に落ちた」
最後に一本だけ残った線を叩く。
「残ってる帰り道、これだけ」
ガルドが見る。
「進める」
「帰りも使うの!」
「別ルート」
「未確認」
「探せる」
「帰る途中で?」
ガルドは黙った。
「もう一回あんな戦闘あったら」
リィナの指が、残る一本道を叩く。
「これもなくなる」
そこで顔を上げた。
「今日は戻る」
声は強い。
「生きて帰って」
続ける。
「準備して」
最後。
「もう一回来る」
ガルドは地図を見る。
天井の亀裂。
リィナ。
順番に。
「……分かった」
リィナの目が少し開く。
「素直」
「正しいからな」
今度は、その言葉の方に驚いたようだった。
「……そっか」
ガルドはゆっくり立ち上がる。
アストラはまだ腕を掴んでいた。
「離せ」
「ちゃんと歩ける?」
「歩ける」
「信用できない」
「お前にだけは言われたくねえ」
ミラが荷物を確認する。
「地上で確認することも増えた」
「鎮脈茶」
ガルドが言う。
「うん」
「オルフェンの研究」
「うん」
「成立証路団」
「確認する」
「増えたね」
「仕事だからな」
帰還を始める。
アストラが当然のようにガルドの横へ並んだ。
「運ぼうか」
「要らん」
「怪我人なのに」
「歩ける」
「昔もそうだった」
「昔のことだ」
アストラがようやく少し笑った。
数歩進んだところで、アストラだけが一度奥を振り返る。
レヴァンとエリュネが消えた方向。
何かを考えている。
「来ないの?」
リィナの声で、アストラが前へ戻った。
「行くよ」
ガルドへ追いつく。
「ガルド」
「何だ」
「君、本当に変わらないね」
「何が」
「死なない方法を探すところ」
「死にたい奴よりマシだろ」
「うん」
少し間を置いて。
「だから、君が好きなんだよ」
「帰れ」
「帰ってる途中だよ」
リィナが後ろから首を傾げる。
「この人の家どこなの?」
「知らん」
「ガルドのところ」
「違う」
四人の足音が、地下の古道へ続いていった。
ガルドの眼にはもう、先ほどの線は見えない。
レヴァンとエリュネの間に何があったのか。
自分が何を斬ったのか。
何一つ分からない。
ただ一度だけ、今まで見えなかったものが見えた。
そして。
何かが切れた。
それだけだった。




