第三章 黒い女は扉を開けない
旧巡礼路は、下るほど古くなっていった。
少なくとも、リィナにはそう見えた。最初のうちは後から塗り直された壁や補修材が目についたが、さらに進むと、現在使われている道標の下から古い巡礼印が顔を出す。その先では、その印すら摩耗し、形を失っていた。
天井から落ちた水滴が、湿った石床で小さく弾ける。
リィナが壁際の石柱へ目を向ける。
「五つ目」
「まだ数えてんのか」
「帰り道だからね」
半分欠けた石柱の根元には、古い巡礼印が残っている。
後ろを歩いていたミラも石柱を確認する。
「正しい」
リィナの顔が少し明るくなる。
「珍しく褒められた」
「褒めてない」
「返して」
「なにを?」
「今の、ちょっと嬉しかった気持ち」
「返し方が分からない」
「無視しろ」
ガルドは前を向いたままだった。
「なんで私だけ雑なの」
「歩け」
三人はさらに奥へ進む。
リィナは文句を言いながらも、分岐を通るたび後ろを確認していた。一つ目は首の欠けた神像、二つ目は壁へ走る赤い鉱脈、三つ目は崩れた柱。四つ目は途中から上下が逆になった古い文字で、五つ目が今の石柱だった。
どれも見つけやすく、崩れにくい。帰りにも残っていそうなものばかりだ。
「ねえ」
「なんだ」
「さっきの男、本当に追わなくていいの?」
「追ってる」
「違う道じゃん」
「あいつも下へ行く」
「絶対?」
「絶対とは言ってねえ」
ミラは地図から前方へ視線を戻す。
「可能性は高い」
「また二人でそういう言い方する」
リィナは不満そうだった。
「走って追えば、追いつけたかもしれないのに」
「追いついた後どうする」
「え?」
「また戦うか?」
リィナは少し考えた。
「……その可能性は高いです」
「真似すんな」
「しかも、あの女もいた」
エリュネ。先ほど見た時より輪郭が薄く、レヴァンが戦いを切ってまで連れていった女だ。
「だったら、あいつらが行く先を押さえる方が早い」
「逃げた方向じゃなく?」
「目的地だ」
リィナはさらに考える。
「当たってなかったら?」
「戻る」
「やっぱりまともだ」
「なんだと思ってんだ」
その時、前方から重い音が響いた。
――ドン。
三人とも止まる。
ガルドの右手が剣の柄へ下がり、リィナは反射的に左右の脇道を確認した。ミラは音のした方角へ顔を向ける。
数秒後。
――ガンッ。
今度はもっと硬い。石壁へ、重いものを叩きつけたような響きだった。
「……なにあれ」
「人だ」
「人が出す音!?」
「少なくとも一方は」
ミラが答える。
「もっと怖い言い方になった!」
ガルドは剣を抜かず、柄に手を置いたまま曲がり角まで進んだ。
その先には、少し広い空間があった。
かつては巡礼者の休憩所か、小さな礼拝所だったらしい。祭壇は半分崩れ、壁の窪みには神像が置かれていたらしい跡だけが残っている。
その中央に、一人の女が立っていた。
長身だった。
深い色の肌に、すっきりと整った骨格。黒髪は頭に沿って細かく編まれ、後ろでまとめられている。編み込みの間から覗く先の尖った長い耳には、小さな金属飾りがいくつか光っていた。
黒革を主体にした軽装は、肩や腕、腹部を大きく隠してはいない。細身ではあるが華奢ではなく、露わになった肩から腰まで、戦うために鍛えられた筋肉が無駄なくついている。
それでも、筋肉を誇示するような立ち方ではなかった。
背筋は自然に伸び、重心も静かだった。拳すら握っていない。
その周囲には武装した男が四人おり、一人はすでに床へ倒れている。
残った男の一人が斬りかかった。
女は剣先ではなく、肩と腰、踏み込む足を見ていた。身体が動き出す前の変化を拾い、半歩だけ外へずれる。
刃が空を切る。
女の手が男の手首へ触れ、そのまま肘へ滑る。腰を沈めた瞬間、露出した肩から脇腹へ筋肉が滑らかに連動した。
力任せではない。前へ出た男の勢いをそのまま使い、身体を回す。男の足が床を離れた。
次の瞬間。
――ドン。
男の背中が壁へ叩きつけられた。
「……さっきの音」
リィナが呟く。
二人目が背後から入った。
女は振り返らない。身を半歩ずらした拍子に黒い外套が流れ、腿に固定された短刀の鞘が一瞬覗く。
横目に柄が入った瞬間だけ腕を伸ばし、武器を持つ手を引いた。
前へ崩れた男の肩へ身体を添え、そのまま押す。男は自分の勢いで床へ転がった。
三人目は距離を取り、横へ回り込む。
女は追わず、代わりに足元の崩れかけた石を軽く蹴った。
石が少しずれる。
男が踏み込む。
足場が沈み、体勢が崩れた。
女は落ちた武器を拾い、刃先を男の喉元へ向ける。
そこで止めた。
「続けますか」
声は静かだった。
男が首を横へ振る。
「では、そこで」
女は刃を横へ放った。
追わない。
三人を片づけた後も、女の呼吸はほとんど変わっていなかった。肩が大きく上下することもなく、黒い肌に浮いた薄い汗だけが、地下の灯りを僅かに拾っている。
武装した男たちは負傷者を抱え、礼拝所跡から退いていった。
「……なにあの人」
リィナは女の尖った耳と、深い肌の色を改めて見る。
「ダークエルフ……?」
ミラの淡い灰色の瞳が、黒い女へ向く。
「ノクティス=マリエル」
「知ってるの?」
「有名」
「有名なのか」
ガルドが初めて聞いたような顔をした。
ミラが彼を見る。
「ガルドが知らなすぎる」
「困ってねえ」
「周りが困る」
「それはちょっと分かる」
「お前らな」
ノクティスがこちらを向いた。
最初にミラ、次にリィナ。最後にガルドを見る。
眼帯。
身体の古傷。
腰の剣。
足の置き方。
視線がほんの少しだけ長く止まった。
品定めというより、相手の作りを読むような目だった。
「境務ですか」
「見りゃ分かるか」
「ある程度は」
リィナはノクティスを見上げ、ほんの少し身を寄せる。
「もっとこう……」
「なにか?」
「聞こえてた」
「聞こえる距離でした」
「いや……もっと豪快な人かと思ってました」
「なぜですか」
リィナはノクティスの腕を見る。
露出した上腕。肩。身体へ沿う黒革の装束。その下にあるものを隠す気のない、実戦用の身体だった。
視線が顔へ戻る。
「……見た目?」
「そうですか」
「怒らないんだ」
「怒る理由がありません」
ガルドは逃げていった男たちの足元を見ていた。
血痕と複数の靴跡は、どれもさらに下へ続いている。
「なにしてる」
「依頼の途中です」
「俺もだ」
「そのようですね」
「会話短っ」
リィナが二人を交互に見る。
「なんの仕事だ」
「依頼内容なので、今は話せません」
「ならいい」
「あなたはなにを?」
「人探し」
「誰を」
「まだ言えん」
「なら結構です」
「似てない?」
リィナがミラを見る。
「少し」
「どこがだ」
「説明しないところ」
ノクティスは武装者が落としていった荷物へ目を向けた。触れずに外側だけを見る。
「この者たちも下へ向かっていました」
「仲間じゃねえのか」
「仲間ではありません」
ミラが聞く。
「なにを追ってた?」
「私と同じ物かもしれません」
「物」
「ええ」
ガルドが続きを聞こうとした、その時。
奥から靴音がした。
ゆっくりと、こちらへ近づいてくる。
ガルドの表情が変わる。
ノクティスも同時だった。
二人とも音の方へ向く。
「……また来た?」
「今度は面倒なのがな」
暗がりから男が出てきた。
レヴァン。
その背後には、淡い光をまとったエリュネがいる。
「また会ったな」
ガルドが言う。
「戻れと言ったはずだ」
「聞いた」
「なら戻れ」
「嫌だ」
「この会話二回目だ」
リィナの呟きには誰も反応しない。
ノクティスはレヴァンの身体と、その周囲へ視線を走らせた。普通の人間を見る時より、僅かに長い。
「神鎖」
レヴァンの視線がノクティスへ動く。
「分かるのか」
「分かります」
「みんな分かるの?」
ミラはレヴァンを見たまま首を横へ振る。
「私は分からない」
「ちょっと安心した」
レヴァンの後ろには数人の武装者がいる。先ほどノクティスと戦っていた者たちとは別だった。
ノクティスはレヴァンの背後にいる武装者たちへ視線を流す。
「先ほどの者たちとは違いますね」
「お前たちに用はない」
「俺にはある」
「ない」
「司祭」
レヴァンの顔がほんの僅かに硬くなる。
ガルドは続けた。
「ネア」
さらに。
「地下権利書」
今度はノクティスだった。
レヴァンの視線が明確に彼女へ動く。
ガルドは見逃さない。
「知ってるな」
「……戻れ」
「それはこちらが決めます」
「知らないから言える」
「なにを知らないのですか」
レヴァンは答えない。
ガルドが一歩前へ出る。
「待て」
誰も待たなかった。
「やっぱり!」
レヴァン側の武装者が動く。
二人がノクティスへ向かう。
一人目の斜めからの斬撃を、ノクティスは刃へ触れず、手首へ手を添えて外へ流した。そのまま肘へ掌を滑らせると、武器が床へ落ちる。
二人目には一歩内側へ入り、肩と胴を使って壁へ押し込んだ。息だけを奪い、すぐ離れる。
三人目は足元の崩石を小さく蹴るだけで踏み込みを狂わせ、そのまま転倒させた。
追撃はしない。
ガルドはノクティスが倒した三人を一瞥する。
「強いな」
「知り合いじゃないの?」
「今見た」
「初対面です」
「そこ二人で同時に答えるんだ」
レヴァンがノクティスへ向いた。
黒銀の線が立ち上がる。腕からなのか、武器からなのか、リィナには判別できない。
黒銀が立ち上がった瞬間、ガルドがノクティスへ顔を向けた。
「正面から受けるな!」
ノクティスは理由を聞かなかった。受け止める構えを捨て、角度をつける。
黒銀の一撃が武器の上を滑った。
それでも衝撃は消えない。
ノクティスの身体が一歩後ろへ押された。黒革の装束の下で腰と脚が一瞬強く締まり、踵が石床を噛む。そこから先は動かなかった。
石床へ細い亀裂が入る。
初めて、ノクティスの眉が僅かに動いた。
「……これは」
「神鎖だ」
次の瞬間には、レヴァンがガルドへ向かっていた。
ガルドは正面から受ける。
刃が衝突し、床が割れた。右腕へ重い衝撃が走り、眼帯の奥が痛む。
それでも足は崩れない。
ノクティスが見る。
「神鎖相手に正面から受けるな、と?」
「そう言った」
「あなたが言いますか」
「ほんとだよ!」
「俺はいい」
「なんで!」
「慣れてる」
レヴァンの顔が変わった。
「慣れている……?」
「二度言わせるな」
それ以上を聞く暇はなかった。
レヴァンが再びノクティスへ黒銀を走らせる。
今度、ノクティスは攻撃が出てから動かなかった。
肩と腰、それに神威が立ち上がる前の重心を見る。
レヴァンが踏み出すより先に外へずれ、そのまま懐へ入った。
拳が飛び、レヴァンが腕で受ける。
鈍い音とともに、一歩後ろへ押された。
「……」
「硬いですね」
「お前もな」
「会話しながら殴り合わないで!」
「強い人は余裕がある」
「感心してる場合!?」
その時、レヴァン側の一人が後退した。
足元には、埃に埋もれた古い石板がある。
カチ、と小さな音がした。
ガルドが下を見る。
「下!」
床が抜けた。
リィナの足元が沈み、ガルドが腕を掴んで引く。同時にミラの側も崩れ、落ちた石が進路を塞いだ。
ノクティスが踏み込み、大きな崩石を蹴り飛ばす。
空いたところへミラが滑り込んだ。
そこへ武装者が二人迫る。
ガルドが一人の武器を弾き、空いた胴へノクティスの掌が入る。もう一人にはノクティスが足を払い、崩れたところへガルドの柄が肩から顎へ入った。
二人とも意識を失う。
互いを見てもいない。
相談もしていない。
相手が空けた場所を、そのまま使っただけだった。
「初対面だよね!?」
「たぶん」
「初対面です」
「そこは覚えてるんだ!」
その奥で、エリュネの輪郭が一瞬だけ揺れ、淡い光が薄くなった。
「レヴァン」
弱い声。
レヴァンの視線が戦場から外れる。
それだけで判断が変わった。
「下がれ」
武装者たちが即座に距離を取る。
「逃げるか」
「時間がない」
「なんのだ」
「お前には関係ない」
「その言葉も二回目だ」
レヴァンが壁際へ手を伸ばす。そこには古い操作部が埋め込まれていた。
「なにして――」
リィナの声を轟音が潰した。
天井の溝から、巨大な石扉が落ちてくる。
「下がれ!」
ガルドがリィナを押し、ノクティスもミラを壁際へ寄せた。
巨大な石扉が床へ落ち、激震とともに粉塵が舞う。
視界が戻った時、道は完全に塞がれていた。
「レヴァン!」
返事はない。
「追えない!」
リィナはすぐ地図を取り出した。
「迂回!」
ミラが覗き込む。
「四十分くらい」
「じゃあそっち!」
ノクティスだけが動かなかった。
巨大な扉へ近づき、邪魔になった外套を片肩から後ろへ払う。露わになった肩と上腕には、さっきの戦闘で乱れた様子すらない。
「……なにしてるの?」
ノクティスは答えない。
扉の中央へ掌を当てる。
それから壁との境目へ指を沿わせ、屈んで床を見る。最後に天井側の溝へ視線を上げた。
見ているのは扉そのものではない。
なにが、この巨大な石の塊を立たせているのか。
ガルドはその動きを追っていた。
「離れろ」
「だからなんで――」
リィナの声が止まる。
ノクティスは一度だけ腰を落とした。
肩から背、腹部、脚までが一つに締まる。
――ドン。
一撃。
拳が入ったのは、扉の中央ではなかった。
左側の接合部。
石粉が弾ける。
「うわっ!」
だが、ノクティスは続けて殴らない。
生じた亀裂を見る。
亀裂は扉の面へは伸びず、壁との境目を走っていた。
ノクティスが半歩、位置を変える。
――ガンッ。
二撃目。
今度は壁側。
石扉には、まだほとんど傷がない。
代わりに、それを支えている側だけが砕け始めていた。
「構造部を狙ってる」
「解説してる場合!?」
「もう一発だな」
「ええ」
「会話成立してる!」
ノクティスが三度目の拳を入れる。
――ドン。
片側の支持が崩れた。
扉は割れない。
砕けもしない。
巨大な石の塊は、その形をほとんど保ったまま――ゆっくりと傾き始めた。
「待って待って待って!」
「下がれ」
四人が距離を取る。
支えを失った重量が、そのまま倒れる。
巨大な石扉が横倒しになった。
轟音。
床が揺れ、粉塵が一気に舞い上がる。
しばらく、誰も喋らなかった。
粉塵の向こうに、倒れた扉がある。
扉そのものは、ほとんど壊れていない。
壊されたのは、それを閉じたまま支えていた部分だけだった。
ノクティスがその結果を確認する。
「開きました」
リィナが口を開いた。
「開けてない!」
ノクティスが見る。
「?」
「壊した!」
「結果として開いています」
「そうだけど!」
ミラは倒れた石扉の向こうを覗き込む。
「通れる」
「そっちも乗るの!?」
ガルドは破壊箇所を見ていた。
扉の中央はほとんど無傷で、壊されているのは接合部だけだ。
「早かったな」
「迂回よりは」
「そこ褒めるんだ」
ミラは壁へ目を向けた。
「修理費は出る」
「依頼主へ請求してください」
「払ってくれるの?」
「契約遂行に必要な損耗です」
ガルドは壊れた接合部へ目をやる。
「強いな」
「先ほども聞きました」
「今度は別の意味だ」
ノクティスが僅かにガルドを見る。
「そうですか」
リィナも倒れた扉を見た。
「でも、真ん中殴らなかったね」
「硬いからです」
「壊せる?」
「壊せます」
「じゃあなんで」
「時間がかかります」
リィナは少し黙った。
「……ちゃんと考えて壊してるんだ」
「考えずに壊す理由がありますか?」
「偏見でした。すみません」
「構いません」
「行くぞ」
ガルドが先へ進む。
四人は倒れた扉を越えた。
最後にリィナが一度振り返る。扉はもう閉じないが、道そのものは残っている。
「これ、帰りも通れるよね?」
「通れます」
「よし。帰還路六個目」
「それは目印じゃねえだろ」
「こんなの忘れないよ」
ノクティスも倒れた石扉を振り返る。
「同感です」
「やった。今度は褒められた」
「褒めてはいません」
「もういい!」
少し先に、また小さな礼拝所跡があった。
レヴァンとの距離は開いている。
ガルドは無理に追わなかった。
「少し止まる」
リィナが壁際へ座り、水袋を開く。ミラも横へ腰を下ろす。
ノクティスだけは立ったままだった。片脚へ僅かに重心を預け、外套の隙間から覗く長い脚にも疲労らしいものは見えない。
ガルドも壁へ背を預けるだけで、完全には警戒を解かない。
「で」
「ええ」
「なんの仕事だ」
「文書の回収です」
「なんの?」
「地下権利書」
リィナが水袋を口から離した。
「誰の?」
「依頼主である高位エルフの一族が、所有権を主張しています」
「オルフェンの持ち物じゃないの?」
「保管していたことと、正当な所有者であることは同義ではありません」
「うわ、面倒くさそう」
「面倒なので私に依頼したのでしょう」
ミラが口を開きかけた。
「それで十分だ」
ガルドが先に切る。
「制度の話はいい」
「まだなにも説明していません」
「しそうな顔だった」
「顔で判断するのですか」
「今はな」
リィナが水袋を持ったまま苦笑する。
「便利だなあ、それ」
「ネアが持ってる?」
「可能性があります」
「根拠」
「オルフェン司祭が最後に扱っていた研究記録と、権利書の保管場所が重なっています」
ミラが短く補足する。
「持ち出された資料に入ってるかもしれない」
「ネアが持ち出した?」
「それも分かりません」
ノクティスは断定しない。
「じゃあ、あなたもネアを探してるんだ」
「文書を探しています」
リィナが止まる。
「……ネアは?」
「依頼対象ではありません」
「助けないの?」
「必要であれば」
「その人が危なかったら?」
「目の前で救えるなら救います」
「でも探すのは?」
「文書です」
「依頼だから?」
「ええ」
リィナは少し眉を寄せた。
「知らない人より仕事が大事?」
ノクティスは怒らなかった。
ほんの少し考えてから答える。
「契約した仕事を放棄して、知らない者を救うことが善だとは考えていません。ただ、目の前で死ぬ者を見捨てるとも言っていません」
「線引きしてるんだ」
「仕事ですから」
ガルドは壁へ背を預けたまま、短く頷く。
「普通だ」
「ガルドは普通じゃないけどね」
「余計だ」
リィナは指を折り始めた。
「神殿は研究資料。ノクティスの依頼主は権利書。娼館はネアを連れ戻したがってる」
そこで指が止まった。
少し前には、正体の分からない二人組もネア本人ではなく、彼女の通った道を追っていた。
リィナの声が少しだけ弱くなる。
「……誰も、あの人自身を探してないじゃん」
礼拝所跡が静かになった。
ノクティスがリィナを見る。
ミラはガルドへ視線を向けた。
ガルドの顔は変わらない。
「俺たちは探してる」
リィナがガルドを見る。
「……そっか」
「犯人なら捕まえるけどな」
「分かってる」
「無罪とも言ってねえ」
「それも分かってる」
「ならいい」
それだけだった。
ノクティスがガルドを見ている。
「なんだ」
「いいえ」
「なら見るな」
「見る程度は自由でしょう」
リィナが呟く。
「この人も強い」
「なにがだ」
「会話」
「進もう」
ミラが立った。
「休めたか」
「うん」
「問題ありません」
ノクティス。
「私は最初から問題ない」
ミラ。
「一番座ってた人が言う?」
四人は再び進んだ。
少し先。
暗い通路の奥に、淡い光が見えた。
ガルドが止まる。
レヴァン。
その横に、今度はエリュネの姿が前よりはっきり見えた。
だが、安定したわけではない。腕の輪郭が一瞬透け、髪の先からほどけた光の粒が、床へ落ちる前に消えていく。
「……あの人」
ミラがエリュネの揺らぐ輪郭へ目を凝らす。
「前より見える」
「見えるようになったんじゃねえ」
「え?」
ガルドは答えず、揺らぐエリュネの輪郭を見続けた。
断定できるほど知ってはいない。
レヴァンが振り返った。
疲れている。
服には傷が残り、呼吸も浅い。
「……またお前か」
「待て」
「嫌だ」
「仕返しされた」
「司祭を知ってるな」
レヴァンの顔が変わる。
今度は隠しきれなかった。
「オルフェン」
「……」
「ネアはどこだ」
「知らない」
「本当か」
「知らない」
「じゃあ、なんで私たち止めるの」
リィナが聞く。
「これ以上、下へ行くな」
「それはこちらが決めます」
ノクティス。
「知らないから言える」
「なにを知らないのですか」
「全部だ」
「便利な言葉だな」
「お前は特にだ」
「俺?」
「知らないくせに戻ってきた」
ガルドの表情が僅かに変わった。
一瞬だけ。
リィナも気づいたが、聞かなかった。
ノクティスが前へ出る。
「道を空けてください」
「断る」
レヴァンも構えた。
ガルドが二人の間へ視線を走らせる。
「待て」
リィナが半信半疑で振り返る。
「今度こそ待つ?」
今回は、全員が一瞬だけ止まった。
エリュネがレヴァンを見る。
「レヴァン」
「大丈夫だ」
「大丈夫じゃない」
「まだ動ける」
「だから」
エリュネが一歩近づく。
その途中で身体が揺れ、腕の一部が光へ溶けた。
レヴァンが即座に手を伸ばし、身体を支える。
「動くな」
「レヴァン」
「力を使ったのか」
「少しだけ」
「使うなと言った」
「あなたが怪我してたから」
「俺はいい」
「私は嫌」
短い沈黙。
エリュネがガルドたちを見る。
次にレヴァン。
「逃げて」
「……」
「ここは私が――」
「君を置いて?」
エリュネが止まる。
「私は死なない」
「消えるだろ」
誰も口を挟まなかった。
「でも、あなたは」
「俺は残る」
「怪我してる」
「残る」
「レヴァン」
「君の方が先だ」
その声だけは、少し柔らかかった。
「だから頼む。なにもしないでくれ」
「そんな頼み方、ずるい」
「知ってる」
エリュネが下を見る。
「……逃げてくれる?」
「ああ」
「一緒に?」
「当たり前だ」
レヴァンがガルドを見る。
「追ってくるな」
「それは約束できん」
「……そう言うと思った」
レヴァンが足元の古い巡礼設備を蹴った。
「下がれ!」
石灰と埃が一気に舞い、崩れかけた間仕切りが倒れて通路を塞ぐ。
視界が白くなった。
ノクティスがすぐ崩れた間仕切りへ近づく。
「追えます」
ガルドはその背へ短く制止を入れた。
「待て」
ノクティスが振り返った。
「今度はなんですか」
「あの女に力を使わせてねえ」
ミラが煙の向こうを見る。
「逃走手段は既存設備」
「ああ」
「だから?」
ガルドは崩れた間仕切りを見た。
「あいつ、神を守ってる」
リィナが少し黙った。
「……仲悪くないんだ」
「誰と誰が」
「あの二人」
「神鎖だからって仲悪い必要ねえだろ」
「あんたたち見てると、そういうものかと」
「一緒にするな」
「でもアストラも――」
「一緒にするな」
「二回言った」
ミラがガルドを見る。
「強調してる」
「そのアストラという人物は?」
ノクティスが尋ねた。
「知らん」
「知ってる」
リィナ。
「知らん」
「知り合い」
ミラ。
「お前は黙れ」
「百年以上――」
「次行くぞ」
「逃げた!」
リィナは立ち上がり、その直前に一度だけ煙の向こうを見た。
そのままガルドたちの後を追った。
レヴァンたちが辿り着いたのは、古い巡礼者用の休憩所だった。
小さな礼拝所でもあったらしい。
崩れた祭壇があり、壁には、かつてなにかの名が刻まれていた跡だけが残っている。摩耗して、誰を祀っていた場所なのかも分からない。
レヴァンは壁へ背を預け、ゆっくり座り込んだ。
脇腹から血が滲んでいる。
エリュネがすぐ隣へしゃがんだ。
「見せて」
「平気だ」
「見せて」
「……」
「レヴァン」
レヴァンは諦めて服を少しずらした。
傷を見たエリュネの顔が曇る。
「深い」
「浅い」
「私、神だよ」
「知ってる」
「傷くらい分かる」
「じゃあ浅いことも分かるだろ」
「深い」
「頑固だな」
「あなたに言われたくない」
エリュネが手を伸ばし、掌へ淡い光を集める。
レヴァンは即座にその手首を掴んだ。
「使うな」
「でも」
「駄目だ」
「傷が」
「自然に治る」
「痛いでしょう」
「人間だからな」
レヴァンが少しだけ笑う。
「多少痛くても残る」
エリュネの手が止まった。
自分の指先を見る。
透けている。
「……私は」
「言うな」
「神なのに」
少し間が空いた。
「残れないのね」
レヴァンはすぐには答えなかった。
「残す」
エリュネが顔を上げる。
「どうやって?」
「必ず」
「答えになってない」
「分かってる」
「方法、あるの?」
レヴァンは黙る。
「まだ見つかってないんだ」
「見つける」
「レヴァン」
「見つける」
二度目は強かった。
エリュネはそれ以上聞かなかった。
代わりに荷物へ手を伸ばし、小さな包みと湯沸かしを取り出す。乾いた薬草を杯へ入れ、湯を注ぐと、苦そうな匂いが礼拝所へ広がった。
「君が飲むものじゃないだろ」
「あなたの」
杯を渡す。
「今?」
「震えてる」
レヴァンは自分の手を見る。
僅かに震えている。
「寒いだけだ」
「嘘」
「さっきも言われたな」
「誰に?」
「君に」
「じゃあ二回目」
「最近、容赦ないな」
「昔からだよ」
「そうだったか」
「覚えてない?」
「昔すぎる」
「私は覚えてる」
レヴァンがエリュネを見る。
少しだけ表情が緩んだ。
茶を一口飲み、すぐ顔をしかめる。
「苦い?」
「苦い」
「昔から苦いの嫌いだったものね」
「そんな昔のこと覚えてるのか」
「あなたのことだから」
少しだけ間を置く。
「……そうか」
「うん」
礼拝所には二人しかいない。
外では水滴が落ちている。
レヴァンは杯を両手で持った。
「あの人たち、追ってくるね」
「ああ」
「黒い人、強かった」
「強い」
「眼帯の人も」
レヴァンの手が止まる。
「怖い?」
「強い」
「それだけ?」
沈黙。
「レヴァン」
「……神鎖は、切れれば死ぬ」
エリュネの表情が変わった。
「……うん」
視線が、レヴァンの傷からその顔へ戻る。
「普通はな」
「あの人は?」
レヴァンはすぐには答えず、手の中の杯を少し傾けた。苦い茶の表面が小さく揺れる。
「切れてる」
「分かるの?」
「痕がある」
エリュネの眉が僅かに寄った。
「でも生きてる」
「ああ」
「切ったの?」
「分からない」
間を置かず、次の問いが来る。
「切られた?」
「分からない」
「じゃあ……」
エリュネの声が途切れた。
レヴァンは杯から目を離し、薄暗い礼拝所の入口へ視線を向ける。さっきまでガルドたちがいた方向だ。
「どっちにしろ、あり得ない」
「《神鎖の残骸》」
「ああ」
エリュネは少しだけ顔をしかめた。
「ひどい呼び方」
「他に言葉が出なかった」
「謝る?」
「本人に?」
「うん」
レヴァンは一瞬だけ考え、それから肩を壁へ預け直した。
「殺されそうだ」
「死なないでしょう?」
「俺は普通の人間だぞ」
エリュネが笑った。
「普通?」
「……」
「普通?」
「二回言うな」
「あなたも普通じゃない」
「君と繋がった時点でな」
エリュネの笑みが少し消えた。
「後悔してる?」
レヴァンの返事は速かった。
「してない」
エリュネが目を伏せる。
「私は――」
「聞いてない」
「まだなにも言ってない」
「言わせない」
「ずるい」
「知ってる」
エリュネはレヴァンの隣へ座り直した。
肩が近づく。
その身体が一度だけ揺れ、輪郭が薄くなった。
レヴァンの笑みが消える。
ゆっくりと手を伸ばし、エリュネの指先へ触れる。
確かめるように。
エリュネも、その手を見る。
「レヴァン」
「なに」
「まだ触れるね」
レヴァンはその手を強く握った。
「触れる」
エリュネが小さく笑う。
「じゃあ、まだ大丈夫」
レヴァンは返事をしなかった。
しばらくして、飲みかけの鎮脈茶を床へ置く。
指先には、まだ僅かな震えが残っている。
そこへ黒銀の残光が一瞬だけ走った。
エリュネはそれを見て、両手でレヴァンの手を包む。
「震えてる」
「寒いだけだ」
「嘘」
「……」
「三回目」
レヴァンは目を閉じた。
エリュネの手を、振りほどかなかった。




