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第三章 黒い女は扉を開けない

 旧巡礼路は、下るほど古くなっていった。


 少なくとも、リィナにはそう見えた。最初のうちは後から塗り直された壁や補修材が目についたが、さらに進むと、現在使われている道標の下から古い巡礼印が顔を出す。その先では、その印すら摩耗し、形を失っていた。


 天井から落ちた水滴が、湿った石床で小さく弾ける。


 リィナが壁際の石柱へ目を向ける。


「五つ目」


「まだ数えてんのか」


「帰り道だからね」


 半分欠けた石柱の根元には、古い巡礼印が残っている。


 後ろを歩いていたミラも石柱を確認する。


「正しい」


 リィナの顔が少し明るくなる。


「珍しく褒められた」


「褒めてない」


「返して」


「なにを?」


「今の、ちょっと嬉しかった気持ち」


「返し方が分からない」


「無視しろ」


 ガルドは前を向いたままだった。


「なんで私だけ雑なの」


「歩け」


 三人はさらに奥へ進む。


 リィナは文句を言いながらも、分岐を通るたび後ろを確認していた。一つ目は首の欠けた神像、二つ目は壁へ走る赤い鉱脈、三つ目は崩れた柱。四つ目は途中から上下が逆になった古い文字で、五つ目が今の石柱だった。


 どれも見つけやすく、崩れにくい。帰りにも残っていそうなものばかりだ。


「ねえ」


「なんだ」


「さっきの男、本当に追わなくていいの?」


「追ってる」


「違う道じゃん」


「あいつも下へ行く」


「絶対?」


「絶対とは言ってねえ」


 ミラは地図から前方へ視線を戻す。


「可能性は高い」


「また二人でそういう言い方する」


 リィナは不満そうだった。


「走って追えば、追いつけたかもしれないのに」


「追いついた後どうする」


「え?」


「また戦うか?」


 リィナは少し考えた。


「……その可能性は高いです」


「真似すんな」


「しかも、あの女もいた」


 エリュネ。先ほど見た時より輪郭が薄く、レヴァンが戦いを切ってまで連れていった女だ。


「だったら、あいつらが行く先を押さえる方が早い」


「逃げた方向じゃなく?」


「目的地だ」


 リィナはさらに考える。


「当たってなかったら?」


「戻る」


「やっぱりまともだ」


「なんだと思ってんだ」


 その時、前方から重い音が響いた。


 ――ドン。


 三人とも止まる。


 ガルドの右手が剣の柄へ下がり、リィナは反射的に左右の脇道を確認した。ミラは音のした方角へ顔を向ける。


 数秒後。


 ――ガンッ。


 今度はもっと硬い。石壁へ、重いものを叩きつけたような響きだった。


「……なにあれ」


「人だ」


「人が出す音!?」


「少なくとも一方は」


 ミラが答える。


「もっと怖い言い方になった!」


 ガルドは剣を抜かず、柄に手を置いたまま曲がり角まで進んだ。


 その先には、少し広い空間があった。


 かつては巡礼者の休憩所か、小さな礼拝所だったらしい。祭壇は半分崩れ、壁の窪みには神像が置かれていたらしい跡だけが残っている。


 その中央に、一人の女が立っていた。


 長身だった。


 深い色の肌に、すっきりと整った骨格。黒髪は頭に沿って細かく編まれ、後ろでまとめられている。編み込みの間から覗く先の尖った長い耳には、小さな金属飾りがいくつか光っていた。


 黒革を主体にした軽装は、肩や腕、腹部を大きく隠してはいない。細身ではあるが華奢ではなく、露わになった肩から腰まで、戦うために鍛えられた筋肉が無駄なくついている。


 それでも、筋肉を誇示するような立ち方ではなかった。


 背筋は自然に伸び、重心も静かだった。拳すら握っていない。


 その周囲には武装した男が四人おり、一人はすでに床へ倒れている。


 残った男の一人が斬りかかった。


 女は剣先ではなく、肩と腰、踏み込む足を見ていた。身体が動き出す前の変化を拾い、半歩だけ外へずれる。


 刃が空を切る。


 女の手が男の手首へ触れ、そのまま肘へ滑る。腰を沈めた瞬間、露出した肩から脇腹へ筋肉が滑らかに連動した。


 力任せではない。前へ出た男の勢いをそのまま使い、身体を回す。男の足が床を離れた。


 次の瞬間。


 ――ドン。


 男の背中が壁へ叩きつけられた。


「……さっきの音」


 リィナが呟く。


 二人目が背後から入った。


 女は振り返らない。身を半歩ずらした拍子に黒い外套が流れ、腿に固定された短刀の鞘が一瞬覗く。


 横目に柄が入った瞬間だけ腕を伸ばし、武器を持つ手を引いた。


 前へ崩れた男の肩へ身体を添え、そのまま押す。男は自分の勢いで床へ転がった。


 三人目は距離を取り、横へ回り込む。


 女は追わず、代わりに足元の崩れかけた石を軽く蹴った。


 石が少しずれる。


 男が踏み込む。


 足場が沈み、体勢が崩れた。


 女は落ちた武器を拾い、刃先を男の喉元へ向ける。


 そこで止めた。


「続けますか」


 声は静かだった。


 男が首を横へ振る。


「では、そこで」


 女は刃を横へ放った。


 追わない。


 三人を片づけた後も、女の呼吸はほとんど変わっていなかった。肩が大きく上下することもなく、黒い肌に浮いた薄い汗だけが、地下の灯りを僅かに拾っている。


 武装した男たちは負傷者を抱え、礼拝所跡から退いていった。


「……なにあの人」


 リィナは女の尖った耳と、深い肌の色を改めて見る。


「ダークエルフ……?」


 ミラの淡い灰色の瞳が、黒い女へ向く。


「ノクティス=マリエル」


「知ってるの?」


「有名」


「有名なのか」


 ガルドが初めて聞いたような顔をした。


 ミラが彼を見る。


「ガルドが知らなすぎる」


「困ってねえ」


「周りが困る」


「それはちょっと分かる」


「お前らな」


 ノクティスがこちらを向いた。


 最初にミラ、次にリィナ。最後にガルドを見る。


 眼帯。


 身体の古傷。


 腰の剣。


 足の置き方。


 視線がほんの少しだけ長く止まった。


 品定めというより、相手の作りを読むような目だった。


「境務ですか」


「見りゃ分かるか」


「ある程度は」


 リィナはノクティスを見上げ、ほんの少し身を寄せる。


「もっとこう……」


「なにか?」


「聞こえてた」


「聞こえる距離でした」


「いや……もっと豪快な人かと思ってました」


「なぜですか」


 リィナはノクティスの腕を見る。


 露出した上腕。肩。身体へ沿う黒革の装束。その下にあるものを隠す気のない、実戦用の身体だった。


 視線が顔へ戻る。


「……見た目?」


「そうですか」


「怒らないんだ」


「怒る理由がありません」


 ガルドは逃げていった男たちの足元を見ていた。


 血痕と複数の靴跡は、どれもさらに下へ続いている。


「なにしてる」


「依頼の途中です」


「俺もだ」


「そのようですね」


「会話短っ」


 リィナが二人を交互に見る。


「なんの仕事だ」


「依頼内容なので、今は話せません」


「ならいい」


「あなたはなにを?」


「人探し」


「誰を」


「まだ言えん」


「なら結構です」


「似てない?」


 リィナがミラを見る。


「少し」


「どこがだ」


「説明しないところ」


 ノクティスは武装者が落としていった荷物へ目を向けた。触れずに外側だけを見る。


「この者たちも下へ向かっていました」


「仲間じゃねえのか」


「仲間ではありません」


 ミラが聞く。


「なにを追ってた?」


「私と同じ物かもしれません」


「物」


「ええ」


 ガルドが続きを聞こうとした、その時。


 奥から靴音がした。


 ゆっくりと、こちらへ近づいてくる。


 ガルドの表情が変わる。


 ノクティスも同時だった。


 二人とも音の方へ向く。


「……また来た?」


「今度は面倒なのがな」


 暗がりから男が出てきた。


 レヴァン。


 その背後には、淡い光をまとったエリュネがいる。


「また会ったな」


 ガルドが言う。


「戻れと言ったはずだ」


「聞いた」


「なら戻れ」


「嫌だ」


「この会話二回目だ」


 リィナの呟きには誰も反応しない。


 ノクティスはレヴァンの身体と、その周囲へ視線を走らせた。普通の人間を見る時より、僅かに長い。


「神鎖」


 レヴァンの視線がノクティスへ動く。


「分かるのか」


「分かります」


「みんな分かるの?」


 ミラはレヴァンを見たまま首を横へ振る。


「私は分からない」


「ちょっと安心した」


 レヴァンの後ろには数人の武装者がいる。先ほどノクティスと戦っていた者たちとは別だった。


 ノクティスはレヴァンの背後にいる武装者たちへ視線を流す。


「先ほどの者たちとは違いますね」


「お前たちに用はない」


「俺にはある」


「ない」


「司祭」


 レヴァンの顔がほんの僅かに硬くなる。


 ガルドは続けた。


「ネア」


 さらに。


「地下権利書」


 今度はノクティスだった。


 レヴァンの視線が明確に彼女へ動く。


 ガルドは見逃さない。


「知ってるな」


「……戻れ」


「それはこちらが決めます」


「知らないから言える」


「なにを知らないのですか」


 レヴァンは答えない。


 ガルドが一歩前へ出る。


「待て」


 誰も待たなかった。


「やっぱり!」


 レヴァン側の武装者が動く。


 二人がノクティスへ向かう。


 一人目の斜めからの斬撃を、ノクティスは刃へ触れず、手首へ手を添えて外へ流した。そのまま肘へ掌を滑らせると、武器が床へ落ちる。


 二人目には一歩内側へ入り、肩と胴を使って壁へ押し込んだ。息だけを奪い、すぐ離れる。


 三人目は足元の崩石を小さく蹴るだけで踏み込みを狂わせ、そのまま転倒させた。


 追撃はしない。


 ガルドはノクティスが倒した三人を一瞥する。


「強いな」


「知り合いじゃないの?」


「今見た」


「初対面です」


「そこ二人で同時に答えるんだ」


 レヴァンがノクティスへ向いた。


 黒銀の線が立ち上がる。腕からなのか、武器からなのか、リィナには判別できない。


 黒銀が立ち上がった瞬間、ガルドがノクティスへ顔を向けた。


「正面から受けるな!」


 ノクティスは理由を聞かなかった。受け止める構えを捨て、角度をつける。


 黒銀の一撃が武器の上を滑った。


 それでも衝撃は消えない。


 ノクティスの身体が一歩後ろへ押された。黒革の装束の下で腰と脚が一瞬強く締まり、踵が石床を噛む。そこから先は動かなかった。


 石床へ細い亀裂が入る。


 初めて、ノクティスの眉が僅かに動いた。


「……これは」


「神鎖だ」


 次の瞬間には、レヴァンがガルドへ向かっていた。


 ガルドは正面から受ける。


 刃が衝突し、床が割れた。右腕へ重い衝撃が走り、眼帯の奥が痛む。


 それでも足は崩れない。


 ノクティスが見る。


「神鎖相手に正面から受けるな、と?」


「そう言った」


「あなたが言いますか」


「ほんとだよ!」


「俺はいい」


「なんで!」


「慣れてる」


 レヴァンの顔が変わった。


「慣れている……?」


「二度言わせるな」


 それ以上を聞く暇はなかった。


 レヴァンが再びノクティスへ黒銀を走らせる。


 今度、ノクティスは攻撃が出てから動かなかった。


 肩と腰、それに神威が立ち上がる前の重心を見る。


 レヴァンが踏み出すより先に外へずれ、そのまま懐へ入った。


 拳が飛び、レヴァンが腕で受ける。


 鈍い音とともに、一歩後ろへ押された。


「……」


「硬いですね」


「お前もな」


「会話しながら殴り合わないで!」


「強い人は余裕がある」


「感心してる場合!?」


 その時、レヴァン側の一人が後退した。


 足元には、埃に埋もれた古い石板がある。


 カチ、と小さな音がした。


 ガルドが下を見る。


「下!」


 床が抜けた。


 リィナの足元が沈み、ガルドが腕を掴んで引く。同時にミラの側も崩れ、落ちた石が進路を塞いだ。


 ノクティスが踏み込み、大きな崩石を蹴り飛ばす。


 空いたところへミラが滑り込んだ。


 そこへ武装者が二人迫る。


 ガルドが一人の武器を弾き、空いた胴へノクティスの掌が入る。もう一人にはノクティスが足を払い、崩れたところへガルドの柄が肩から顎へ入った。


 二人とも意識を失う。


 互いを見てもいない。


 相談もしていない。


 相手が空けた場所を、そのまま使っただけだった。


「初対面だよね!?」


「たぶん」


「初対面です」


「そこは覚えてるんだ!」


 その奥で、エリュネの輪郭が一瞬だけ揺れ、淡い光が薄くなった。


「レヴァン」


 弱い声。


 レヴァンの視線が戦場から外れる。


 それだけで判断が変わった。


「下がれ」


 武装者たちが即座に距離を取る。


「逃げるか」


「時間がない」


「なんのだ」


「お前には関係ない」


「その言葉も二回目だ」


 レヴァンが壁際へ手を伸ばす。そこには古い操作部が埋め込まれていた。


「なにして――」


 リィナの声を轟音が潰した。


 天井の溝から、巨大な石扉が落ちてくる。


「下がれ!」


 ガルドがリィナを押し、ノクティスもミラを壁際へ寄せた。


 巨大な石扉が床へ落ち、激震とともに粉塵が舞う。


 視界が戻った時、道は完全に塞がれていた。


「レヴァン!」


 返事はない。


「追えない!」


 リィナはすぐ地図を取り出した。


「迂回!」


 ミラが覗き込む。


「四十分くらい」


「じゃあそっち!」


 ノクティスだけが動かなかった。


 巨大な扉へ近づき、邪魔になった外套を片肩から後ろへ払う。露わになった肩と上腕には、さっきの戦闘で乱れた様子すらない。


「……なにしてるの?」


 ノクティスは答えない。


 扉の中央へ掌を当てる。


 それから壁との境目へ指を沿わせ、屈んで床を見る。最後に天井側の溝へ視線を上げた。


 見ているのは扉そのものではない。


 なにが、この巨大な石の塊を立たせているのか。


 ガルドはその動きを追っていた。


「離れろ」


「だからなんで――」


 リィナの声が止まる。


 ノクティスは一度だけ腰を落とした。


 肩から背、腹部、脚までが一つに締まる。


 ――ドン。


 一撃。


 拳が入ったのは、扉の中央ではなかった。


 左側の接合部。


 石粉が弾ける。


「うわっ!」


 だが、ノクティスは続けて殴らない。


 生じた亀裂を見る。


 亀裂は扉の面へは伸びず、壁との境目を走っていた。


 ノクティスが半歩、位置を変える。


 ――ガンッ。


 二撃目。


 今度は壁側。


 石扉には、まだほとんど傷がない。


 代わりに、それを支えている側だけが砕け始めていた。


「構造部を狙ってる」


「解説してる場合!?」


「もう一発だな」


「ええ」


「会話成立してる!」


 ノクティスが三度目の拳を入れる。


 ――ドン。


 片側の支持が崩れた。


 扉は割れない。


 砕けもしない。


 巨大な石の塊は、その形をほとんど保ったまま――ゆっくりと傾き始めた。


「待って待って待って!」


「下がれ」


 四人が距離を取る。


 支えを失った重量が、そのまま倒れる。


 巨大な石扉が横倒しになった。


 轟音。


 床が揺れ、粉塵が一気に舞い上がる。


 しばらく、誰も喋らなかった。


 粉塵の向こうに、倒れた扉がある。


 扉そのものは、ほとんど壊れていない。


 壊されたのは、それを閉じたまま支えていた部分だけだった。


 ノクティスがその結果を確認する。


「開きました」


 リィナが口を開いた。


「開けてない!」


 ノクティスが見る。


「?」


「壊した!」


「結果として開いています」


「そうだけど!」


 ミラは倒れた石扉の向こうを覗き込む。


「通れる」


「そっちも乗るの!?」


 ガルドは破壊箇所を見ていた。


 扉の中央はほとんど無傷で、壊されているのは接合部だけだ。


「早かったな」


「迂回よりは」


「そこ褒めるんだ」


 ミラは壁へ目を向けた。


「修理費は出る」


「依頼主へ請求してください」


「払ってくれるの?」


「契約遂行に必要な損耗です」


 ガルドは壊れた接合部へ目をやる。


「強いな」


「先ほども聞きました」


「今度は別の意味だ」


 ノクティスが僅かにガルドを見る。


「そうですか」


 リィナも倒れた扉を見た。


「でも、真ん中殴らなかったね」


「硬いからです」


「壊せる?」


「壊せます」


「じゃあなんで」


「時間がかかります」


 リィナは少し黙った。


「……ちゃんと考えて壊してるんだ」


「考えずに壊す理由がありますか?」


「偏見でした。すみません」


「構いません」


「行くぞ」


 ガルドが先へ進む。


 四人は倒れた扉を越えた。


 最後にリィナが一度振り返る。扉はもう閉じないが、道そのものは残っている。


「これ、帰りも通れるよね?」


「通れます」


「よし。帰還路六個目」


「それは目印じゃねえだろ」


「こんなの忘れないよ」


 ノクティスも倒れた石扉を振り返る。


「同感です」


「やった。今度は褒められた」


「褒めてはいません」


「もういい!」


 少し先に、また小さな礼拝所跡があった。


 レヴァンとの距離は開いている。


 ガルドは無理に追わなかった。


「少し止まる」


 リィナが壁際へ座り、水袋を開く。ミラも横へ腰を下ろす。


 ノクティスだけは立ったままだった。片脚へ僅かに重心を預け、外套の隙間から覗く長い脚にも疲労らしいものは見えない。


 ガルドも壁へ背を預けるだけで、完全には警戒を解かない。


「で」


「ええ」


「なんの仕事だ」


「文書の回収です」


「なんの?」


「地下権利書」


 リィナが水袋を口から離した。


「誰の?」


「依頼主である高位エルフの一族が、所有権を主張しています」


「オルフェンの持ち物じゃないの?」


「保管していたことと、正当な所有者であることは同義ではありません」


「うわ、面倒くさそう」


「面倒なので私に依頼したのでしょう」


 ミラが口を開きかけた。


「それで十分だ」


 ガルドが先に切る。


「制度の話はいい」


「まだなにも説明していません」


「しそうな顔だった」


「顔で判断するのですか」


「今はな」


 リィナが水袋を持ったまま苦笑する。


「便利だなあ、それ」


「ネアが持ってる?」


「可能性があります」


「根拠」


「オルフェン司祭が最後に扱っていた研究記録と、権利書の保管場所が重なっています」


 ミラが短く補足する。


「持ち出された資料に入ってるかもしれない」


「ネアが持ち出した?」


「それも分かりません」


 ノクティスは断定しない。


「じゃあ、あなたもネアを探してるんだ」


「文書を探しています」


 リィナが止まる。


「……ネアは?」


「依頼対象ではありません」


「助けないの?」


「必要であれば」


「その人が危なかったら?」


「目の前で救えるなら救います」


「でも探すのは?」


「文書です」


「依頼だから?」


「ええ」


 リィナは少し眉を寄せた。


「知らない人より仕事が大事?」


 ノクティスは怒らなかった。


 ほんの少し考えてから答える。


「契約した仕事を放棄して、知らない者を救うことが善だとは考えていません。ただ、目の前で死ぬ者を見捨てるとも言っていません」


「線引きしてるんだ」


「仕事ですから」


 ガルドは壁へ背を預けたまま、短く頷く。


「普通だ」


「ガルドは普通じゃないけどね」


「余計だ」


 リィナは指を折り始めた。


「神殿は研究資料。ノクティスの依頼主は権利書。娼館はネアを連れ戻したがってる」


 そこで指が止まった。


 少し前には、正体の分からない二人組もネア本人ではなく、彼女の通った道を追っていた。


 リィナの声が少しだけ弱くなる。


「……誰も、あの人自身を探してないじゃん」


 礼拝所跡が静かになった。


 ノクティスがリィナを見る。


 ミラはガルドへ視線を向けた。


 ガルドの顔は変わらない。


「俺たちは探してる」


 リィナがガルドを見る。


「……そっか」


「犯人なら捕まえるけどな」


「分かってる」


「無罪とも言ってねえ」


「それも分かってる」


「ならいい」


 それだけだった。


 ノクティスがガルドを見ている。


「なんだ」


「いいえ」


「なら見るな」


「見る程度は自由でしょう」


 リィナが呟く。


「この人も強い」


「なにがだ」


「会話」


「進もう」


 ミラが立った。


「休めたか」


「うん」


「問題ありません」


 ノクティス。


「私は最初から問題ない」


 ミラ。


「一番座ってた人が言う?」


 四人は再び進んだ。


 少し先。


 暗い通路の奥に、淡い光が見えた。


 ガルドが止まる。


 レヴァン。


 その横に、今度はエリュネの姿が前よりはっきり見えた。


 だが、安定したわけではない。腕の輪郭が一瞬透け、髪の先からほどけた光の粒が、床へ落ちる前に消えていく。


「……あの人」


 ミラがエリュネの揺らぐ輪郭へ目を凝らす。


「前より見える」


「見えるようになったんじゃねえ」


「え?」


 ガルドは答えず、揺らぐエリュネの輪郭を見続けた。


 断定できるほど知ってはいない。


 レヴァンが振り返った。


 疲れている。


 服には傷が残り、呼吸も浅い。


「……またお前か」


「待て」


「嫌だ」


「仕返しされた」


「司祭を知ってるな」


 レヴァンの顔が変わる。


 今度は隠しきれなかった。


「オルフェン」


「……」


「ネアはどこだ」


「知らない」


「本当か」


「知らない」


「じゃあ、なんで私たち止めるの」


 リィナが聞く。


「これ以上、下へ行くな」


「それはこちらが決めます」


 ノクティス。


「知らないから言える」


「なにを知らないのですか」


「全部だ」


「便利な言葉だな」


「お前は特にだ」


「俺?」


「知らないくせに戻ってきた」


 ガルドの表情が僅かに変わった。


 一瞬だけ。


 リィナも気づいたが、聞かなかった。


 ノクティスが前へ出る。


「道を空けてください」


「断る」


 レヴァンも構えた。


 ガルドが二人の間へ視線を走らせる。


「待て」


 リィナが半信半疑で振り返る。


「今度こそ待つ?」


 今回は、全員が一瞬だけ止まった。


 エリュネがレヴァンを見る。


「レヴァン」


「大丈夫だ」


「大丈夫じゃない」


「まだ動ける」


「だから」


 エリュネが一歩近づく。


 その途中で身体が揺れ、腕の一部が光へ溶けた。


 レヴァンが即座に手を伸ばし、身体を支える。


「動くな」


「レヴァン」


「力を使ったのか」


「少しだけ」


「使うなと言った」


「あなたが怪我してたから」


「俺はいい」


「私は嫌」


 短い沈黙。


 エリュネがガルドたちを見る。


 次にレヴァン。


「逃げて」


「……」


「ここは私が――」


「君を置いて?」


 エリュネが止まる。


「私は死なない」


「消えるだろ」


 誰も口を挟まなかった。


「でも、あなたは」


「俺は残る」


「怪我してる」


「残る」


「レヴァン」


「君の方が先だ」


 その声だけは、少し柔らかかった。


「だから頼む。なにもしないでくれ」


「そんな頼み方、ずるい」


「知ってる」


 エリュネが下を見る。


「……逃げてくれる?」


「ああ」


「一緒に?」


「当たり前だ」


 レヴァンがガルドを見る。


「追ってくるな」


「それは約束できん」


「……そう言うと思った」


 レヴァンが足元の古い巡礼設備を蹴った。


「下がれ!」


 石灰と埃が一気に舞い、崩れかけた間仕切りが倒れて通路を塞ぐ。


 視界が白くなった。


 ノクティスがすぐ崩れた間仕切りへ近づく。


「追えます」


 ガルドはその背へ短く制止を入れた。


「待て」


 ノクティスが振り返った。


「今度はなんですか」


「あの女に力を使わせてねえ」


 ミラが煙の向こうを見る。


「逃走手段は既存設備」


「ああ」


「だから?」


 ガルドは崩れた間仕切りを見た。


「あいつ、神を守ってる」


 リィナが少し黙った。


「……仲悪くないんだ」


「誰と誰が」


「あの二人」


「神鎖だからって仲悪い必要ねえだろ」


「あんたたち見てると、そういうものかと」


「一緒にするな」


「でもアストラも――」


「一緒にするな」


「二回言った」


 ミラがガルドを見る。


「強調してる」


「そのアストラという人物は?」


 ノクティスが尋ねた。


「知らん」


「知ってる」


 リィナ。


「知らん」


「知り合い」


 ミラ。


「お前は黙れ」


「百年以上――」


「次行くぞ」


「逃げた!」


 リィナは立ち上がり、その直前に一度だけ煙の向こうを見た。


 そのままガルドたちの後を追った。


 レヴァンたちが辿り着いたのは、古い巡礼者用の休憩所だった。


 小さな礼拝所でもあったらしい。


 崩れた祭壇があり、壁には、かつてなにかの名が刻まれていた跡だけが残っている。摩耗して、誰を祀っていた場所なのかも分からない。


 レヴァンは壁へ背を預け、ゆっくり座り込んだ。


 脇腹から血が滲んでいる。


 エリュネがすぐ隣へしゃがんだ。


「見せて」


「平気だ」


「見せて」


「……」


「レヴァン」


 レヴァンは諦めて服を少しずらした。


 傷を見たエリュネの顔が曇る。


「深い」


「浅い」


「私、神だよ」


「知ってる」


「傷くらい分かる」


「じゃあ浅いことも分かるだろ」


「深い」


「頑固だな」


「あなたに言われたくない」


 エリュネが手を伸ばし、掌へ淡い光を集める。


 レヴァンは即座にその手首を掴んだ。


「使うな」


「でも」


「駄目だ」


「傷が」


「自然に治る」


「痛いでしょう」


「人間だからな」


 レヴァンが少しだけ笑う。


「多少痛くても残る」


 エリュネの手が止まった。


 自分の指先を見る。


 透けている。


「……私は」


「言うな」


「神なのに」


 少し間が空いた。


「残れないのね」


 レヴァンはすぐには答えなかった。


「残す」


 エリュネが顔を上げる。


「どうやって?」


「必ず」


「答えになってない」


「分かってる」


「方法、あるの?」


 レヴァンは黙る。


「まだ見つかってないんだ」


「見つける」


「レヴァン」


「見つける」


 二度目は強かった。


 エリュネはそれ以上聞かなかった。


 代わりに荷物へ手を伸ばし、小さな包みと湯沸かしを取り出す。乾いた薬草を杯へ入れ、湯を注ぐと、苦そうな匂いが礼拝所へ広がった。


「君が飲むものじゃないだろ」


「あなたの」


 杯を渡す。


「今?」


「震えてる」


 レヴァンは自分の手を見る。


 僅かに震えている。


「寒いだけだ」


「嘘」


「さっきも言われたな」


「誰に?」


「君に」


「じゃあ二回目」


「最近、容赦ないな」


「昔からだよ」


「そうだったか」


「覚えてない?」


「昔すぎる」


「私は覚えてる」


 レヴァンがエリュネを見る。


 少しだけ表情が緩んだ。


 茶を一口飲み、すぐ顔をしかめる。


「苦い?」


「苦い」


「昔から苦いの嫌いだったものね」


「そんな昔のこと覚えてるのか」


「あなたのことだから」


 少しだけ間を置く。


「……そうか」


「うん」


 礼拝所には二人しかいない。


 外では水滴が落ちている。


 レヴァンは杯を両手で持った。


「あの人たち、追ってくるね」


「ああ」


「黒い人、強かった」


「強い」


「眼帯の人も」


 レヴァンの手が止まる。


「怖い?」


「強い」


「それだけ?」


 沈黙。


「レヴァン」


「……神鎖は、切れれば死ぬ」


 エリュネの表情が変わった。


「……うん」


 視線が、レヴァンの傷からその顔へ戻る。


「普通はな」


「あの人は?」


 レヴァンはすぐには答えず、手の中の杯を少し傾けた。苦い茶の表面が小さく揺れる。


「切れてる」


「分かるの?」


「痕がある」


 エリュネの眉が僅かに寄った。


「でも生きてる」


「ああ」


「切ったの?」


「分からない」


 間を置かず、次の問いが来る。


「切られた?」


「分からない」


「じゃあ……」


 エリュネの声が途切れた。


 レヴァンは杯から目を離し、薄暗い礼拝所の入口へ視線を向ける。さっきまでガルドたちがいた方向だ。


「どっちにしろ、あり得ない」


「《神鎖の残骸》」


「ああ」


 エリュネは少しだけ顔をしかめた。


「ひどい呼び方」


「他に言葉が出なかった」


「謝る?」


「本人に?」


「うん」


 レヴァンは一瞬だけ考え、それから肩を壁へ預け直した。


「殺されそうだ」


「死なないでしょう?」


「俺は普通の人間だぞ」


 エリュネが笑った。


「普通?」


「……」


「普通?」


「二回言うな」


「あなたも普通じゃない」


「君と繋がった時点でな」


 エリュネの笑みが少し消えた。


「後悔してる?」


 レヴァンの返事は速かった。


「してない」


 エリュネが目を伏せる。


「私は――」


「聞いてない」


「まだなにも言ってない」


「言わせない」


「ずるい」


「知ってる」


 エリュネはレヴァンの隣へ座り直した。


 肩が近づく。


 その身体が一度だけ揺れ、輪郭が薄くなった。


 レヴァンの笑みが消える。


 ゆっくりと手を伸ばし、エリュネの指先へ触れる。


 確かめるように。


 エリュネも、その手を見る。


「レヴァン」


「なに」


「まだ触れるね」


 レヴァンはその手を強く握った。


「触れる」


 エリュネが小さく笑う。


「じゃあ、まだ大丈夫」


 レヴァンは返事をしなかった。


 しばらくして、飲みかけの鎮脈茶を床へ置く。


 指先には、まだ僅かな震えが残っている。


 そこへ黒銀の残光が一瞬だけ走った。


 エリュネはそれを見て、両手でレヴァンの手を包む。


「震えてる」


「寒いだけだ」


「嘘」


「……」


「三回目」


 レヴァンは目を閉じた。


 エリュネの手を、振りほどかなかった。

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