第二章 沈黙売りは鍵を返さない
旧市場地区は、リィナが想像していたよりずっと普通だった。
表通りから一本入った生活路には果物屋があり、帳簿を扱う小さな店があり、工具を積んだ荷車が軋みながら通り過ぎていく。二階の窓からは洗濯物が揺れ、その下を子供たちが走り抜けていた。
朝の仕事を始めた職人が木箱を運び、買い物帰りらしい女が値段のことで店主と揉めている。
「……ここ?」
「ああ」
前を歩くガルドは振り返らない。
「情報屋って、もっとこう……」
「なんだ」
「怪しい酒場の地下とか」
「目立つだろ」
「じゃあ看板のない店」
「それも怪しい」
「暗号を言わないと入れない扉」
「なにに期待してんだ、お前」
「情報屋」
「忘れろ」
そのガルドが急に足を止めた。
リィナも半歩遅れて止まり、肩越しに前を見る。
「いた?」
「いた」
果物屋の脇には空の木箱が積まれており、その一番上に女が一人腰掛けていた。
深い藍黒のフードから、長い黒髪が胸元へ流れている。影の下に覗く瞳は淡い灰色で、眠たげというより、なにを見てもすぐには驚かなそうな静けさがあった。
黒を基調にした細身の装束に、青黒い石を嵌めた銀の飾り。腰へ派手な武器を何本も吊るしているわけではないのに、どういうわけか普通の買い物客には見えない。
片手には赤い果物。もう片方では、小型のナイフを弄んでいた。
「……あの人?」
「ああ」
リィナはフードの女をもう一度見た。
「もっと怖い人を想像してた」
「ナイフ見ろ」
「ナイフ?」
リィナは言われた通り、刃から柄へ視線を移した。使い込まれた革巻きまで目に入ったところで、どこかで見た覚えがあることに気づく。
視線がゆっくり下がり、ガルドの腰で止まった。本来ならそこに収まっているはずの小型ナイフの鞘だけが、空になっている。
「……え?」
ガルドはすでに女の前まで歩いていた。
「それ」
女は果物を一切れ切った。
「俺のだ」
「うん」
「返せ」
「まだ使ってる」
リィナはガルドの腰と女の手を見比べた。
「いつ盗った」
女が初めて顔を上げた。
フードの影から淡い灰の瞳がまっすぐガルドを捉える。整った顔立ちには悪びれた様子も、からかっている気配もない。
「借りました?」
「なんで自分のことなのに疑問形なの!?」
思わずリィナが口を挟む。
女は最初からリィナがいることを知っていたらしく、驚きもせず一度だけ視線を向けた。
「返す」
「いつ」
「使い終わったら」
「今終われ」
「あと一切れ」
「知らん」
女は本当に最後の一切れを切り、口へ運んでよく噛み、飲み込んだ。それから刃を布で丁寧に拭う。
ガルドのこめかみが僅かに動いた。
「部屋に鍵掛けてたぞ」
「うん」
「返事になってねえ」
「掛かってた」
「知ってる」
「なら問題ない」
「問題しかなくない?」
女がリィナを見る。
「?」
「本気で分かってない顔じゃないよね?」
「分かってる」
「分かってやってるんだ!?」
女は木箱から降りると、そのままガルドへ近づいた。
フードの裾と長い黒髪が揺れ、黒い外套の内側へ隠れていた細身の身体が一瞬だけ現れる。
近い。近すぎる。
しかもナイフを手渡すのではなく、ガルドの腰へ手を伸ばし、空になっていた鞘へそのまますとんと差し戻した。
ガルドは避けない。ただ、とても嫌そうだった。
「距離近くない?」
「こいつが勝手に近い」
「効率がいい」
「なんの?」
「返却の」
「手渡せ」
「次から考える」
「やらねえって言え」
「できない約束はしない」
リィナはしばらく女を見つめた。
「強いな、この人」
フードの下で、淡い灰の瞳だけがリィナへ動く。
「リィナ」
「え?」
「だよね」
「なんで知ってるの?」
「知ってる」
「説明!」
「必要?」
「怖いから欲しい!」
「諦めろ」
ガルドが話を切った。ナイフの位置を確かめ、それから女を見る。
「本題だ。ネアって女を探してる」
「知ってる」
「早い!」
リィナの声だけが一段上がった。
「どこまで」
「昨日の夜から、三組が探してる」
「三組」
女は指を一本立てる。
「神殿」
二本目。
「娼館」
三本目を立てたところで、ほんの少しだけ間を置いた。
「知らない人」
ガルドが眉を寄せる。
「知らない人って誰だ」
「知らない」
沈黙が落ちた。
先に耐えきれなくなったのはリィナだった。
「……情報屋なのに?」
「うん」
「知らないの?」
「知らないから調べてる」
女は恥じる様子もなければ、誤魔化そうともしない。分からないことを、ただ分からないまま認めている。
「堂々としてる」
「分からないのに、分かったって言う方が危ない」
ガルドが女を見る。
その答えについてはなにも言わなかった。
「特徴は」
「ある」
女は服の内側から、小さく折った紙を取り出した。
「二人組」
紙には数行の時刻と場所、それに簡単な特徴が記されている。
「神殿関係者じゃない。娼館側とも接触してない」
「ネア本人には?」
リィナが訊く。
「強引に接触した形跡はない」
「じゃあなにしてるの?」
「彼女がどこを通ったか確認してる」
ガルドが紙へ目を落とす。
「ネアじゃなく、足跡を追ってる」
「うん」
「なにを探してる」
「知らない」
「役に立たんな」
「だから安くする」
「料金取るんだ」
「仕事だから」
ガルドが紙を返す。
「いくら」
「後で」
「一番嫌なやつだな」
女――ミラは何事もなかったように歩き出した。
「どこ行く」
「根拠を見せる」
「なんの?」
リィナが追いつく。
「ネアが逃げた先」
「見つけたの?」
「うん」
「どこ?」
ミラは前を向いたまま答えた。
「ネアは、もう地上にいない」
ガルドの歩みが、ほんの一瞬だけ鈍った。
「……どこ行ったの」
「アル=ネグラ」
旧市場の人波は、なにも変わらず動いていた。
ミラが入ったのは、先ほどリィナが見かけた帳簿屋だった。
「ここ、情報屋の店?」
「違う」
「じゃあなんで使ってるの」
奥で帳簿を束ねていた店主は、顔も上げない。
「昨日、なくした帳簿を見つけてもらった」
「あ、許可あるんだ」
ミラは空いている作業台へ向かう。
「ある」
ガルドが横から見る。
「俺の部屋には?」
「ない」
「分かってんじゃねえか」
ミラは空いている作業台を借り、地図を二枚広げた。
店主はなにも言わない。こうしてミラが街のあちこちを仕事場にすること自体、珍しくもないらしい。
一枚目は、現在使われている地下管理図だった。
「通常、アル=ネグラへ降りるならこの三か所」
ミラは地図上の入口を順に指した。
「ネアは?」
「どれも通ってない」
「確実か」
「記録上は」
「記録外」
「ある」
ミラは二枚目の地図を広げた。
紙そのものが古い。現行図にはない細い線が、地上から地下へ伸びている。
「これ?」
「廃巡礼路」
かつて地上の神殿群と、地下の旧祭祀区画を繋いでいた経路。現在は封鎖されているらしい。
「じゃあ通れないじゃん」
「通常は」
「嫌な言い方」
ミラは別の帳簿を開き、日付を追っていった。やがて指が止まる。
「昨夜だけ開いてる」
リィナが地図から顔を上げた。
「……偶然?」
「正式な開放」
「誰が」
ガルドの声が低くなる。
「成立証路団」
ミラは開放記録をこちらへ向けた。
地下の古い境界標と、土地権利の確認。その立会いのため、廃巡礼路が一時的に開放されている。
記録に不自然な欠落はない。許可も正規で、使った経路にも理由がある。末尾には立会人の名前が記されていた。
エルディン=ヴァレイン。
「エルディン……」
リィナが読み上げる。
ガルドの目が僅かに細くなる。
「知ってる?」
「名前くらいは」
「どんな人?」
「今は関係ない」
ミラは開放記録へ視線を落としたままだ。
「この書類だけなら、その通り」
「味方するんだ」
「事実」
ガルドは現在図と古図を見比べた。正式な地下入口と、廃巡礼路。
「わざわざこっち使う必要あったか」
「対象地点への最短」
「安全ならこっちだ」
「うん」
「じゃあなんで危ない方?」
リィナが訊く。
「旧境界標そのものを確認する立会いなら、旧経路を使う理由はある」
「合理的だな」
「うん」
「怪しいの? 怪しくないの?」
「どっちでもねえ」
ガルドは立会記録を閉じた。
問題はそこではない。
ミラは立会記録の末尾を指で押さえた。
「成立証路団がネアを逃がした証拠はない」
「ネアが自分で開けた」
「権限がない」
「じゃあ」
ガルドは地図上の線を指で追った。
「誰かが、昨夜そこが開くと知ってた」
「可能性はある」
「オルフェン?」
リィナが訊く。
「可能性」
「娼館?」
「可能性」
「知らない二人組?」
「可能性」
「全部可能性!」
「そう」
ガルドは立会記録を閉じる。
「それでいい」
リィナは不満そうな顔で口を閉じる。
ミラは帳簿を元へ戻しながら続けた。
「この開放記録自体、ただの偶然かもしれない」
「じゃあ――」
「偶然であることと、誰かに利用されたことは両立する」
ガルドはなにも言わず、もう一度古図へ目を落とした。
途中で線が途切れている。
「問題がある」
「まだ?」
「現在の地図だと、ここから先がない」
ミラが欠落部を指した。
「古図」
「境務倉庫に残ってるかもしれない」
リィナはすぐ地図をまとめ始めた。
「じゃあ次、倉庫だ」
ミラは地図を畳んだ。
「私は別の情報を確認する」
「なんだ」
「まだ半分しか分かってない」
「また知らんのか」
「だから調べる」
ミラはそれ以上足を止めず、そのまま店を出ていった。
ガルドは一度だけ、帳簿の末尾にある名前を見る。
エルディン=ヴァレイン。
記憶する。
それだけだった。
境務の資料室へ戻ると、今度は紙との戦いになった。
現行地図、旧図、修繕記録、古い巡礼路の部分図。机いっぱいに広げても、肝心の一か所だけが繋がらない。
リィナが二枚の地図を指で押さえた。
「ここからここがない」
「ああ」
「地下で道なくなったら?」
「戻る」
リィナが顔を上げる。
「すごくまとも」
「なんだと思ってんだ」
「行けるところまで行く人」
「帰れなくなる奴は長生きしねえ」
リィナは一瞬だけ黙り、それから地図へ視線を戻した。
「……覚えとく」
そこへ資料室の扉が開いた。
「失礼します、追加資料を――」
若い男が入ってくる。
柔らかな金髪は長く、後ろで低く束ねられていた。黒を基調に金の意匠が入った長衣は傭兵の装いにしては妙にきちんとしており、襟元には白が残っている。
整った顔立ちも含めて、こういう埃っぽい資料室より、祭壇の近くに立っていた方が似合いそうな青年だった。
その両腕には、かなりの量の紙束を抱えている。
リィナが振り返る。
その瞬間、青年の爪先が床の僅かな段差へ引っかかった。
「あ」
紙が宙を舞った。
「うわっ!」
「す、すみません!」
青年は見事に転んだ。
納品書、補修記録、勤務表、税資料。なんの関係があるのか分からない紙まで景気よく散らばっていく。
「大丈夫!?」
「僕より紙が!」
「それはそうだけど!」
リィナがしゃがんで拾い始める。
青年も慌てて這い回る。
その中で、一枚だけ床を滑った。
別に風が吹いたわけでもない。
紙は机の脚へ当たって僅かに向きを変え、そのままガルドの靴先まで来て止まる。
ガルドが拾い、開いた。
そのまま黙る。
「……なにそれ」
リィナが覗き込む。
旧巡礼路。
欠けていた区間。
横道。
旧出口。
今まで探していた線が、全部そこにあった。
「これだ」
青年が顔を上げた。髪とよく似た琥珀色の目が、ガルドの持つ紙へ向く。
「探していたものですか?」
「なんでそれだけガルドに行くの?」
「僕に聞かれても……」
「持ってきた資料だろ」
「はい。関連しそうなものを倉庫からまとめて持ってきただけです」
「何枚」
「六十三枚」
「六十三分の一」
「……すみません?」
「謝らなくていい」
ガルドは地図を机へ置く。
「助かった」
イオリは一瞬きょとんとし、それから柔らかく笑った。整った顔立ちのわりに、その笑い方だけは妙に人懐っこい。
「よかったです」
散った紙を拾い終えたところで、青年が机上の古図を覗き込んだ。
「ここ……」
ガルドが見る。
「知ってるか」
「似た場所なら」
「行ったことあるの?」
リィナがすぐ反応する。
「迷子になった時に」
「地下で!?」
「たぶん」
「たぶん!?」
ガルドは笑わない。
「入口」
「分かりません」
「出口」
青年は地図を見つめ、しばらく迷ったあと、一か所を指した。
旧巡礼路の出口寄り。
ガルドの目が僅かに細くなる。
「どうやってそんな所まで行ったの」
リィナが聞く。
「歩いていたら」
「どうやって帰った」
「歩いていたら出ました」
「……」
「すみません」
「だからなんで謝るの」
ガルドが訊く。
「名前」
「え?」
「お前」
「イオリです」
「イオリ」
一度だけ繰り返す。
「覚えとく」
イオリの表情が少し不安になった。
「なにかしました?」
「この人に覚えられると面倒になるよ」
「余計なこと言うな」
イオリは今度こそ紙束を両腕でしっかり抱え、慎重に歩く。
一枚落ちた。
全員が見る。
床へ落ちたのは、ごく普通の納品書だった。
なにも起きない。
「今度は普通」
「普通でいいです」
イオリは恥ずかしそうに拾い、今度こそ資料室を出ていった。
ガルドは旧図を畳む。
「どうした?」
「なんでもねえ」
必要なものは手に入った。
それ以上、偶然の意味まで考える必要はない。
少なくとも今は。
地下へ入る準備を整えて旧巡礼路へ向かうと、入口前には先客がいた。
ミラだった。
旧市場で被っていた藍黒のフードもそのままに、腰回りには必要最低限の道具だけが増えている。すでに地下へ降りる準備は終わっていた。
リィナが露骨に嫌な顔をする。
「……来るの?」
「うん」
「なんで」
「別件」
「その答え一番怖い」
ガルドが荷物を下ろさずに訊く。
「なにを追ってる」
ミラはほんの少し間を置いた。
知らないのではない。
どこまで言うか選んでいる。
「数か月前から、アル=ネグラ由来の古い遺物が地上へ上がってる」
「それって普通じゃないの?」
「普通」
「じゃあなにが」
「経路」
ミラは入口脇の石壁へ手をついた。
「物が動けば、普通はどこかに痕跡が残る」
合法なら古物商を通る。
非合法でも闇市場がある。
神殿の買付や登録業者も同じだ。
誰かが売り、誰かが運び、誰かが買えば、どこかには記録や噂が残る。
「一つも通ってない」
「一個も?」
「一個も」
「終点」
ガルドが訊く。
「複数」
「その一つが」
「オルフェン司祭」
リィナの顔から軽さが消えた。
「殺された人……」
「うん」
「確実か」
「本人名義で買われたわけじゃない」
「なら」
「最終的に彼の手元へ渡ったことだけは確認した」
「誰から」
「不明」
「なにを」
「正確には不明」
「ほとんど分かってない!」
ミラは真顔のままだった。
「一番重要なことは分かってる」
「なに」
「私の知らない経路で、物が動いてる」
リィナが少し首を傾げる。
「……それが重要?」
「かなり」
「だから地下へ?」
ガルドが訊く。
「確認したい」
「金になる?」
「それは後で」
「趣味?」
「仕事」
少し間を置いて。
「趣味でもある」
「認めるな」
リィナがミラを見る。
「閉じてるもの全部気になる?」
「うん」
「扉」
「うん」
「箱」
「うん」
ガルドが割り込む。
「人の部屋」
「うん」
「それだけやめろ」
「どうして?」
「人の部屋だからだ」
「それは分かってる」
「行動に反映しろ」
「必要なら」
「必要になるな」
旧巡礼路の入口には、大きな封鎖扉があった。
昨夜は正規立会いのため開放されたが、すでに再封鎖されている。
古い鍵機構を見て、リィナが聞いた。
「開けられる?」
「うん」
即答だった。
ガルドはもう扉の前へしゃがみ込むミラを見る。
「聞く必要なかったな」
「正規の鍵は?」
「ない」
「じゃあ駄目じゃん!」
ミラはもう扉の前へしゃがみ込んでいた。黒い手袋に包まれた細い指が、どこから出したのか分からない工具を鍵穴へ滑り込ませる。
「待って。合法?」
「境務の調査だ」
「ミラは境務じゃない」
「同行者」
「今決めたでしょ!」
小さな音がして、鍵が外れた。
「早っ」
三人で重い扉を押す。
蝶番が低く軋み、冷たい空気が暗闇の奥から流れてきた。
その先には石段が続いている。
さらに先は、持っている灯りでは見通せない。
リィナはすぐには入らなかった。
入口から外、扉、灯り、腰回り、靴、荷物へと視線を移し、一つずつ確認していく。
ガルドはなにも言わず、それを待った。
「帰る道、一つ」
「今はな」
「増える?」
「見つけろ」
「了解」
三人は地下へ降りた。
背後に残る地上の光が、少しずつ細くなっていった。
旧巡礼路は、想像していたより広かった。
古い石造りの通路が奥へ続き、壁にはかつて神名だったらしい文字が刻まれている。だが摩耗が激しく、今ではほとんど読めない。
途中には首の欠けた神像が立っていた。
誰の姿だったのかも分からない。
ミラが先頭を歩く。
地図と床の痕跡を確認する役。
その後ろをリィナ。
最後尾にガルド。
リィナは分岐を通るたび、周囲へ視線を巡らせていた。
「三つ目」
「なにが」
「帰りの目印」
一つ目は首の欠けた神像。
二つ目は壁へ走る赤い鉱脈。
三つ目が、半分崩れた柱。
「四つ目は?」
ミラが前を向いたまま聞く。
「まだない」
「そう」
「テストしないで」
さらに進んだところで、ガルドが足を止めた。
リィナも反射的に止まり、ミラは僅かに遅れて振り返る。
「なに?」
「静かすぎる」
「最初から静かじゃない?」
「違う」
ミラがしゃがみ、床の埃と壁際の擦れを確認する。
「少し前まで人がいた」
「何人」
「少なくとも六」
「見たの?」
「足跡」
「今は」
「分からない」
ガルドの手が剣へ下がった。
「下がれ」
前方の暗がりから、人影が一つ出てきた。
続いてもう一人。
側面にも。
さらに背後にも。
「六?」
リィナの声が低くなる。
「八」
「増えた!」
前方の男が踏み込んだ。
ガルドが一歩前へ出て刃を受け、正面から力をぶつけず外へ流す。そのまま懐へ入り込み、柄頭を腹へ叩き込んだ。
男の身体が折れる。
ガルドは肩を押し、そのまま壁際へ転がした。
「殺すな!」
「相手に言って!」
リィナは中央へ残り、ミラを背中側へ置く。
別の男が横から踏み込んできた。リィナは腕を上げて刃の軌道を外すと、そのまま手首を打つ。
剣が床へ落ちる。
間を空けず足を払い、男を転がした。
ミラの淡い灰の瞳が、リィナの背後へ走る。
「後ろ」
リィナが身体を回す。
刃先が髪を掠める。
「っ!」
かわした隙にミラが男の袖を取った。フードの奥の表情はほとんど変わらないまま腕を捻り上げ、そのまま壁へ押し込む。
「戦えるんじゃん!」
「多少」
「多少じゃない!」
ガルドは正面の二人を捌きながら、さらに奥を見ていた。
一人だけ、戦いへ入っていない男がいる。
深い色の外套。
疲れの残る顔。
大声で指示しているわけではない。
それでも周囲の黒装束たちは、無意識にその男を中心として動いていた。
「お前が頭か」
男――レヴァンがガルドを見る。
「戻れ」
「嫌だ」
「お前には関係ない」
「司祭が一人死んでる」
ほんの一瞬、レヴァンの目が動いた。
小さな反応だったが、ガルドは見逃さない。
「知ってる顔だな」
「……戻れ」
レヴァンが踏み込む。
速い。
ガルドも剣を抜いた。
刃と刃がぶつかった瞬間、普通の金属音とは違う低い振動が、腕から骨の奥へ響いた。
レヴァンの刃から、細い一線が走る。
黒。
いや、銀。
どちらとも言い切れない。
黒銀の一本が、刃の交点からガルドへ走った。
「――っ」
眼帯の奥が、焼けるように痛んだ。
ガルドは反射的に身体をずらす。
黒銀の一線が脇を抜け、足元の石へ触れた。
細い亀裂が走る。
「ガルド!」
「見るな!」
「見える!」
ガルドは退かず、正面から受けた刃を横へずらした。
レヴァンの方が一瞬驚いた。
その視線がガルドの眼帯へ移り、次に身体を探るように下がっていく。
「その眼……」
「見るな。減る」
「まさか」
レヴァンが半歩だけ距離を取った。
そこにあってはならないものを見る顔だった。
「《神鎖の残骸》」
リィナの動きが止まりかける。
「……なにそれ」
「後だ」
レヴァンはガルドを見たままだ。
「知らないのか?」
「お前が言った言葉だろ」
理解できないものを見るような目。
今度はガルドが聞いた。
「お前、神鎖か」
レヴァンの驚きが消える。
「だったら?」
「面倒だ」
再び剣が交差した。
レヴァンの黒銀が走り、ガルドが身体をずらす。
攻撃は脇を抜け、そのまま石壁へ触れた。
音は小さい。
だが壁には、細い黒銀の線が焼き付いた。
その奥に、淡い光が見えた。
通路の奥から、弱い女の声が届いた。
「レヴァン」
レヴァンの動きが、ぴたりと止まる。
ガルドも視線だけを向けた。
女が立っている。
美しい。
だが、最初に目につくのは容姿ではない。
輪郭が薄い。
光の中へ溶けていくように、身体の端が不安定に揺れている。
「行こう」
「まだ――」
「時間がない」
声も弱かった。
レヴァンの顔が変わる。
ガルドたちへの警戒より、女を見た時の焦りの方が明らかに強い。
「なにを守ってる」
返事はない。
「ネアか」
「追ってくるな」
「犯人に言われたら考える」
レヴァンの顔が固まる。
否定はしない。
肯定もしない。
リィナが息を呑んだ。
「好きにしろ」
「じゃあ追う」
「……死ぬぞ」
「よく言われる」
エリュネの輪郭が、また僅かに揺らぐ。
「レヴァン」
先ほどより、さらに弱い。
レヴァンはもう迷わない。
短く合図を出すと、黒装束たちが一斉に距離を取り、通路の奥へ退いていく。
「逃げる!」
追いかけようとしたリィナを、ガルドが制した。
「追うな!」
「どっち!?」
レヴァンは女の方へ戻り、そのまま一行は暗い通路の奥へ消えていった。
足音が遠ざかり、やがて静寂が戻る。
ガルドが眼帯へ手を当てた。
リィナはすぐそばまで来たが、触れはしない。
「大丈夫?」
「動ける」
「大丈夫とは違う」
ガルドは答えなかった。
ミラは壁際へ寄っていた。
先ほど、レヴァンの攻撃が掠めた場所だった。
石の表面に、一本だけ痕が残っている。
黒。
いや、銀。
どちらとも言い切れない、細い一本。
焦げ跡ではない。
ただ石を刃で削った跡とも違う。
ガルドの視線が、そこで止まった。
「追う?」
「待て」
「でも今なら――」
「待て」
リィナが止まる。
ガルドは壁へ近づいた。
触れない。
黒とも銀とも言い切れない一本が、石の表面を細く走っている。
リィナも横から覗き込んだ。
その顔が変わる。
「……これ」
「ああ」
「司祭の傷」
「似てる」
「同じじゃないの?」
「確認してない」
「でも色も」
「ああ」
「レヴァンの攻撃でできた」
「ああ」
「じゃあ犯人――」
ガルドが見る。
リィナの口が閉じた。
「まだ決めるな」
神殿で見た証拠が、リィナの頭にも戻ったらしい。
「ネアの時も、証拠は揃ってた」
「……うん」
「今も同じだ」
「でも怪しい」
「怪しい」
「認めるんだ」
「怪しいのと犯人は別だ」
ミラが壁から通路奥へ視線を移した。
「追わないの?」
「追う」
「今?」
リィナが聞く。
「今じゃない」
ガルドはレヴァンたちが消えた方向を見る。
「まず、あいつがなにを守ってるかだ」
ミラはレヴァンたちが消えた暗闇を見ていた。
「私たちを殺すのが目的には見えなかった」
「ああ」
「先へ行かせたくなかった」
「ああ」
「エリュネという女性」
「知ってるか」
「知らない」
即答だった。
「調べろ」
「調べる」
「あの人、神なの?」
「さあな」
「レヴァンは神鎖?」
「あいつ自身はなにも説明してねえ」
「否定もしなかった」
「証拠の一つだ」
リィナは黒銀の線を見る。
「何個集めたら答えになるの」
「成立するまで」
「ずるい」
「仕事だ」
ミラが淡々と数える。
「ネア」
一つ。
「地下遺物」
二つ。
「レヴァン」
三つ。
視線はすべて、地下の奥へ向いている。
「少なくとも、同じ方向にある」
「全部、下?」
「ああ」
「進む?」
ミラがガルドを見る。
「勝手に決めるな」
ほんの少し間を置いて。
「……進む」
「結局同じ」
三人は再び歩き出した。
先頭はミラ。
中央にリィナ。
最後尾がガルド。
数歩進んだところで、リィナがガルドの背中を見る。
「ねえ」
「なんだ」
「《神鎖の残骸》ってなに?」
ガルドの足が、一瞬だけ止まる。
振り返らない。
「知らん」
「あいつ、ガルド見て言った」
「聞こえてた」
「すごい驚いてた」
「そうだな」
「本当に知らない?」
「今は歩け」
「知ってる人の逃げ方」
「置いてくぞ」
「はいはい」
旧巡礼路は、さらに暗い方へ続いていた。
少し離れた別の地下通路では、レヴァンが壁へ片手をついていた。
呼吸が荒い。
ガルドと打ち合った腕には、浅くない傷が開いている。
傍らにエリュネが立っていた。
先ほどより、僅かに薄い。
「痛い?」
「平気だ」
「嘘」
「動ける」
エリュネが手を伸ばす。
指先に淡い光が集まりかけた。
「やめろ」
レヴァンが即座に止める。
エリュネの手が止まる。
「でも」
「使うな」
「傷、開いてる」
「お前が薄くなる」
「少しくらい」
「駄目だ」
レヴァンは自分で傷を押さえ、布を巻いた。
エリュネはしばらく、その手元を見ている。
「あの人、追ってくるね」
「……来る」
「怖い?」
レヴァンは少し考えた。
「強い」
「うん」
「でも、それじゃない」
眼帯。
あの男の身体。
黒銀を受けた瞬間に触れた、説明のつかない感触。
本来なら、そこにはあるはずのものがある。
だが切れている。
それなのに、完全に失われてもいない。
「あいつは――」
レヴァンの口が、そこで閉じる。
「?」
エリュネが顔を上げる。
レヴァンは眼帯の男を思い返すように、僅かに目を伏せた。
「切れているはずの鎖を持っている」
エリュネの表情から、僅かに色が消えた。
「……そんなこと」
「あるはずがない」




