第一章 娼婦エルフは司祭を殺さない
神殿付属研究棟の朝は、妙に静かだった。
本来なら祈祷を終えた神官や、資料を抱えた書記が行き交う時間なのだろう。廊下の向こうには人の気配があり、足音も低い話し声も聞こえている。
それなのに、問題の区画だけが切り取られたように静まり返っていた。
入口には簡易の封鎖紐が張られ、その脇に神官と書記、使用人らしい男女が何人か立っている。誰も、奥の扉へ近づこうとはしない。
ガルドの隣を歩くリィナは、鮮やかな赤髪を揺らしながら、封鎖された区画を睨んでいた。黒を基調にした軽装の戦闘服には金の意匠が入り、背には使い込まれた弓と矢筒、腰には短剣が下がっている。細身ではあるが、立ち方にも歩き方にも、戦うことに慣れた人間の軽さがあった。
「……最悪」
赤い瞳が神官たちから奥の扉へ移る。
「まだなにも見てねえだろ」
「神殿で殺人があって、そこに境務が呼ばれてる時点で最悪だよ」
口は軽い。だが、周囲を見る目はさっきから止まっていない。ガルドは足を止めず、そのまま奥へ進んだ。
「普通、神殿の揉め事って神殿で片づけるでしょ?」
「普通ならな」
「普通じゃないんだ」
「だから呼ばれた」
「説明になってない」
「現場見りゃ増える」
「情報が?」
「面倒が」
リィナの赤い瞳が細くなる。
「増えなくていいんだけど」
ぼやきながらも足は止めず、ガルドと並んだまま奥の扉まで来た。
そこには年嵩の神官が一人待っていた。表情は固いが、取り乱してはいない。
ガルドは扉の前で足を止める。
「中は」
「発見時から、必要最低限の者しか入れていません」
「誰が入った」
「最初の発見者が一名。その後、死亡確認を行った神官と、封鎖確認の者が」
「死体は動かしたか」
「いいえ」
「触った奴は」
「死亡確認のため、一名が首の脈と鼻口で呼吸を確認しています。胸部には触れておりません」
ガルドは短く頷き、窓についても確認した。
「閉鎖済みです」
「見つけた時からか」
神官の返答が止まる。
「……確認します」
「分からんことを、分かったみたいに言うな」
神官の口元が僅かに硬くなった。
リィナがガルドの肩越しに声を落とす。
「入って十秒で感じ悪くするのやめない?」
「知らん」
神官は反論せず、扉を開けた。
ガルドが先に入り、リィナが一歩遅れて続く。
部屋は広くない。司祭個人の研究室と簡素な生活空間が、一室へ無理なく収まっている程度だった。壁一面の書棚、机と椅子、宗教器具、束ねられた研究資料。読みかけの本が開いたまま伏せられ、卓上には茶器が残されている。
そこまでは、昨夜まで人が使っていた部屋だった。
机から数歩離れた床に、人が倒れている。
リィナの足が止まった。
オルフェン司祭。
死体を見る覚悟そのものは、ここへ来るまでにしていたはずだった。それでも、読みかけの本や飲み残された茶、きれいに立ったままの椅子が、死体より先に目へ入ってしまう。
「……朝まで、ここで普通に生きてたんだよね」
ガルドは入口から室内を見回したまま答えた。
「たぶんな」
「本、途中だ」
「ああ」
「お茶も」
「ああ」
「こういうの、嫌だな」
ガルドは返さなかった。
すぐには死体へ近づかず、床、窓、机、出入口、家具の位置と人が通れる空間を順に目で拾う。それからようやくオルフェンの手前まで進み、触れずにしゃがみ込んだ。
ガルドは死体へ視線を落としたまま、振り返らない。
「来ねえのか」
「行くよ」
リィナは一歩進み、死体がはっきり見える距離まで来たところで一度だけ顔を背けた。それでも引き返しはしない。
オルフェンの胸元は、大きく裂けていた。
司祭服の下にあるのは、刃物で深く胸を切り開かれたようにも見える異様な創だった。
リィナが喉を鳴らす。
「……これ、本当に斬られたの?」
「さあな」
「さあなって」
「まだ見てる」
一見すれば深い斬り傷だが、剣や刃物が一点から入り、皮膚や肉を一方向へ切り開いた傷には見えない。衣服も傷に沿って破れているものの、肉体の裂け目とは微妙に形が合っていなかった。
腕や手に目立った防御創はなく、周囲の家具にも争った痕跡はない。
「剣?」
「分からん」
「斧?」
「分からん」
「槍?」
「質問増やすな」
「じゃあなに?」
「調べる」
リィナは死体とガルドを交互に見た。
「……分かんないんだ」
「当たり前だ」
「もっとこう、一目見て“これは何々の仕業だ”とか」
「そんな奴は大抵外す」
「夢がない」
「死体に夢求めんな」
リィナは口を閉じた。
少しだけ肩の力が抜けたらしい。ガルドが死体から机、椅子へと視線を移していくのを、今度は自分も追う。
「喧嘩した感じでもないね」
「今のところはな」
「その“今のところ”って言い方、嫌い」
「便利だぞ」
「なんにも断言しなくて済むもんね」
「断言して外すよりマシだ」
リィナはもう一度死体を見る。さっきより長く見られた。
その視線が胸から床へ落ちたところで、眉が寄る。
「……あれ?」
「なんだ」
「血」
ガルドは答えを急がなかった。
「少なくない?」
「ああ」
「こんなに胸、裂けて見えるのに?」
「ああ」
血はある。だが、胸をこれほど深く裂かれた死体としては少なすぎる。衣服にも床にも、傷の大きさに見合うだけの出血痕が残っていない。
「じゃあ、別の場所で殺されて、ここに運ばれた?」
ガルドは死体の姿勢と床へ落ちた血の形を見た。
「それも違う」
「なんで?」
「ここで倒れた可能性が高い」
「じゃあなんで血がないの」
「それを調べる」
ガルドは再び、死体と床の血痕へ視線を戻した。
この部屋で死んだように見える。胸には大きな裂傷がある。それなのに、傷の形も出血量も普通の刃傷とは噛み合わない。
今分かるのは、そこまでだった。
「失礼しても?」
背後から声がした。
神殿の書記が、紙束と小さな物証袋を抱えて立っている。
ガルドが頷くと、書記は死体から距離を取った位置まで慎重に入ってきた。
「現在、最も疑いの強い者が一名おります」
「名前」
「ネア。没落エルフの娼婦です」
リィナの目が書記へ向く。だが、まだ口は挟まなかった。
ガルドは死体を見たまま促した。
「続けろ」
「昨夜、オルフェン司祭を訪ねています」
「何時?」
リィナが聞く。
「夜半より少し前です」
「目撃者は」
「使用人が二名。一名は顔まで確認しています」
書記が物証袋を持ち上げる。中には長い毛髪が一本入っていた。
「室内から採取されたものです。色と長さがネアの外見と一致します」
続いて、衣服から落ちたと思われる繊維。それも昨夜ネアが着ていた衣服と特徴が近いという。
「香油の残り香も確認されています。娼館側によれば、ネアが常用している品と同系統です」
「香りだけで分かるの?」
「珍しい品です。どこにでもあるものではありません」
一つだけなら弱い。
それでも積み重なる。
書記は最後に床を示した。
「履物の形状も近いものが残っています。一部には血液の付着も」
リィナの表情が少しずつ硬くなった。
「……かなり揃ってない?」
担当神官が頷く。
「ええ」
「加えて、事件後からネアは所在不明です」
「消えた?」
「逃亡した可能性が高いと考えています」
ガルドが床から書記へ視線を移す。
「可能性、な」
「もちろん現時点では断定いたしません。ですが、確認された状況からすれば、早急に身柄を確保する必要があります」
「筋は通る」
リィナが横を見る。
「認めるんだ」
「証拠は証拠だ」
書記が別の紙を取り出した。
「ただ、正式な居住記録がありません」
「正式な?」
「市内登録です。無登録者なので、身元照会に時間がかかっています」
脇にいた別の神殿関係者が事務的に補足する。
「下層の娼館にいた者です。逃走先も限られるでしょう」
書記が手配書用の文面を確認しながら口にした。
「娼婦エルフの出入りしそうな場所から――」
「ネア」
リィナが遮った。
書記が顔を上げる。
「名前、あるんですよね?」
「……はい」
「なら、その名前で呼べば?」
短い沈黙が落ちた。
「失礼しました」
「別に私に謝られても」
リィナは書記から視線を外した。書記も反論せず、紙へ目を戻す。
「いずれにせよ、早急な確保が必要です」
書記が手配用紙を机へ置き、筆を取る。
ガルドは答えず、床を見ていた。
血痕。
その上に重なった履物跡。
筆先が紙へ触れようとしたところで、ガルドが顔を上げた。
「待て」
書記の手が止まる。
「なにか?」
「殺害時刻は」
「推定では夜半前後です」
「こいつの足跡は」
「事件前後のものと考えています」
「順番が違う」
担当神官の眉が寄った。
「……なにがです?」
ガルドは床へ触れず、足跡の縁を指した。
「リィナ。見ろ」
隣へしゃがんだリィナが目を凝らす。
入口から死体へ向かう履物跡。その縁で、小さな血の飛沫が踏み潰されていた。
「……血が先?」
「ああ」
「でも、犯人だって血踏むでしょ」
「向き」
リィナは足形を見る。
つま先は入口側から室内へ向いている。その先には死体があった。
「……中に入ってる」
「血が落ちた後にな」
担当神官がすぐに口を開いた。
「殺害後、一度外へ出て戻った可能性があります」
「ある」
ガルドは即答した。
神官が止まり、リィナも顔を上げる。
「認めるんだ」
「成立するからな」
「では、やはりネアが――」
「だから犯人じゃないとは言ってねえ」
ガルドは足跡の続きを追った。入口から死体へ向かい、その周囲で乱れ、また外へ戻っている。
「ただ、来た、殺した、逃げた。その一回だけじゃ説明できねえ」
リィナが考える。
「じゃあ、殺したあと一度出て、また戻った」
「なら成立する」
「別の誰かが殺したあと、戻ってきた」
「それも成立する」
「……全然解決してないじゃん」
「候補が増えた」
「悪化してない?」
「間違った一個よりマシだ」
担当神官も床を見る。
「ですが、他の証拠は残っています」
「ああ」
「手配を止める理由にはなりません」
「好きに出せ」
ガルドは立ち上がる。
「後で恥かきたきゃな」
リィナの口元が僅かに緩んだ。
「笑ってない」
「笑ってるだろ」
「ちょっとだけ」
神官は意地になって手配を進めることもなく、少し考えた。
「……では、なにを確認すべきだと?」
「他の来訪者」
「記録上、ネア以外には――」
説明の途中で、ガルドの視線が机の上へ止まった。
「じゃあ、あれは誰のだ」
リィナも振り返る。
机の上には、杯が二つ置かれていた。片方には濃い色の茶が残り、もう片方はほとんど空になっている。
「……二個ある」
担当神官も二つの杯へ目を向ける。
「ネアのものでは?」
「普段、ネアはここで茶を飲んでたのか」
書記が記録をめくる。
「荷物の受け渡しが中心で、長居はしなかったようです」
「なら、この杯がネアの物だと決める理由もねえ」
「別の来客だった可能性は否定しません」
「今はそれでいい」
リィナが机へ近づき、杯へ鼻を寄せた。触れはしない。
「……苦そう」
「飲むな」
「飲まないよ」
「顔が飲みそうだった」
「どういう顔だよ」
「鎮脈茶ですね」
聞き慣れない名称に、リィナが顔を上げる。
「ちん……なに?」
「鎮脈茶です」
「なにそれ」
「神威に晒された者や、神術使用後の震えを抑える薬草茶です」
「だから苦い?」
「主に薬草ですから」
「じゃあ司祭が飲んでた?」
「常飲していた記録はありません」
ガルドが聞く。
「誰が用意した」
「確認します」
「珍しいもの?」
リィナが杯から離れた。
「極端には」
「じゃあ、これだけで相手は絞れない」
「ああ」
ガルドは二つの杯を一度だけ見た。
「もう一人いた可能性は上がった」
「杯二つだけで?」
「杯二つと、ネアが長居しないって話でな」
担当神官は完全には納得していない様子だったが、書記へ視線を向ける。
「来客記録を再確認してください。茶の入手経路も」
「はい」
それで十分だった。
ガルドは机から死体へ視線を戻した。
「今度はなに?」
「傷」
再びオルフェンの横へしゃがむ。
「さっきも見たよね」
「ああ」
「なにか変わった?」
「見落とした」
「珍しい」
「人間だからな」
「自分で言う?」
ガルドはもう聞いていなかった。
窓から差し込む朝の光は、先ほどより角度を変えていた。
その明るさを利用して裂傷を覗き込んだ時、傷の縁に一本だけ、色の違うものが見えた。
黒。
いや、銀。
どちらとも言い切れない。
焦げでもない。乾いた血でもない。金属片でもない。
肉の上を、細い黒銀の線が一本だけ走っている。
そして裂け目の一部は、その線を中心に周囲の組織が引かれたように開いていた。
線が傷を作ったのか。
傷ができたあとに、線だけが残ったのか。
まだ分からない。
担当神官も傷口を覗き込む。
「焼損でしょうか。神術による熱傷なら――」
眼帯の奥が痛んだ。
ガルドの呼吸が、一瞬だけ止まる。
視界とも記憶ともつかないものが、頭の奥を横切った。
黒銀。
鎖。
切れる感触。
自分の手。
そこで途切れた。
ガルドの肩が僅かに動き、反射的に手が眼帯へ上がる。
「ガルド?」
リィナの声へ返すまで、少し間があった。
「目、痛い?」
「平気だ」
「平気な顔じゃないけど」
「いつものだ」
「いつもそんな痛そうだった?」
「忘れろ」
「無茶言うなあ」
ガルドは手を下ろし、もう一度だけ黒銀の痕を見る。
「なにか、ご存じなのですか」
「まだなにも」
「ですが――」
「この傷」
ガルドが神官を見る。
「現状のまま残せ」
「当然、その予定ですが」
「追加の浄化も、神術鑑定も待て」
担当神官の表情が変わった。
「理由を」
「傷の縁に、普通じゃねえものがある」
「なんです?」
「まだ分からん」
「推測でも」
「推測だから言わねえ」
神官はしばらくガルドを見たあと、頷いた。
「分かりました」
ガルドは立ち上がり、そのまま研究室を出た。
リィナも後へ続く。
扉が閉まり、廊下を少し歩いたところで、リィナが声を落とす。
「……神鎖?」
ガルドが足を止めた。
さっきまでより明らかに速く振り返る。
「どこで聞いた」
「境務の仕事で何度か。傭兵同士でも、名前くらいは出るよ」
「詳しく知ってるのか」
「全然。名前だけ」
ガルドは数秒、リィナを見る。
「そうか」
「それだけ?」
「それだけだ」
「なにその確認」
「確認しただけだ」
リィナが口を開きかけたところで、二人は階段へ差しかかった。
階下に、一人の男がいた。
派手な装束でも、大柄でもない。威圧している様子もないのに、その男の周囲にだけ妙な空間があった。神官も書記も、意識して避けている様子すらないまま自然と少し距離を取って歩いている。
「……誰?」
ガルドが階下を見る。
男もこちらを見た。
二人が階段を下りると、男は特別な挨拶もせず上着のポケットへ手を入れ、小さな容器から白い錠剤を一つ取り出して水も使わず口へ放り込んだ。
リィナが眉を寄せる。
「……薬?」
「胃薬」
「なんで分かるの」
「昔から飲んでる」
男は錠剤を飲み込み、小さな容器を閉じた。
「今もです」
「そこ補足するんだ」
ガルドが男の前で止まる。
「セイル」
「ガルド」
挨拶はそれで終わった。
リィナが二人を見比べる。
「終わり?」
「なにが」
「挨拶」
「十分です」
セイルが答えた。
「そういう仲なんだ」
「どういう仲だ」
ガルドは嫌そうに返す。
セイルの視線が上階へ移った。
「傷を見ましたか」
「見た」
「どう思います」
「お前は」
セイルの目が僅かに細くなる。
「現時点では、聞かなかったことにしたいです」
「同感だ」
「待って」
二人がリィナを見る。
「なんで二人だけ通じてるの?」
「私も通じたくありません」
「もっと嫌な答えになった!」
セイルは錠剤の容器をポケットへ戻した。
「正式な確認は後でします」
「来なくていい」
「私も、できればそうしたいです」
「済まなそうか」
セイルは答えなかった。
それ自体が答えだった。
リィナは歩き出した彼の背中を目で追う。
「何者?」
「胃の弱い男」
「それ以外」
「今はそれでいい」
「よくない!」
「ガルド殿」
先ほどの書記が追いついてきた。
「正式な依頼内容について、お話が」
ガルドはセイルの背から目を離す。
「場所」
「こちらです」
通されたのは、研究室とは別の小さな会議室だった。
事件処理用らしい机には必要な書類が整えられており、担当神官、先ほどの書記、別の神殿関係者、それに境務の担当者が一人待っている。
全員が席へ着くのを待たず、担当神官が口を開いた。
「正式にお願いしたいのは、容疑者ネアの確保です」
「他は」
「他?」
「それだけなら境務まで呼ばん」
短い間のあと、書記が別の書類を前へ出す。
「オルフェン司祭が保管していた研究資料の一部が見つかっていません」
「中身」
「現在確認中です」
「中身が分からん資料を探せと」
「神殿所有の研究資料です」
ガルドは反論しなかった。
覚える。
それだけ。
「加えて、地下から持ち込まれた遺物が一点、所在不明です」
「地下?」
リィナが反応する。
ガルドの指も、ほんの僅かに止まった。
朝。
床の下。
もっと深く。
鎖。
「なに?」
「なんでもねえ」
担当神官が続ける。
「その遺物も、今回の件と無関係とは断定できません」
ガルドは指を折った。
「ネア」
一つ。
「資料」
二つ。
「遺物」
三つ。
「加えて、事件の拡大防止です」
「優先順位は」
「ネアの確保が第一。次いで資料と遺物の回収です」
「真相は」
「当然、解明が必要です」
「その次か」
返答が、ほんの僅かに遅れた。
リィナが机の向こうを見る。
「ネア本人は?」
「確保対象です」
「それは聞いた。生きて連れて帰るの?」
担当神官は表情を変えない。
「抵抗がなければ保護します」
リィナの顔が僅かに変わった。
ガルドが聞く。
「抵抗したら」
「現場判断にお任せします」
別の神殿関係者が淡々と口を開いた。
「無登録の者一名を確保するために、複数の神殿職員を危険に晒すことはできません。現時点では殺人容疑者です」
リィナの赤い瞳が、神殿関係者へ向く。
「名前」
「なんです?」
「ネア」
神殿関係者を見る。
「今度は覚えて」
「リィナ殿。感情論では――」
「分かった」
ガルドが遮った。
担当神官は、依頼を引き受けたと判断したらしい。
「では――」
「ネアを探す」
「はい」
「資料も確認する」
「お願いします」
「遺物も探す」
「助かります」
ガルドはそこで一拍置いた。
「生きてるなら、本人から話を聞く」
担当神官が黙る。
「抵抗した場合は?」
「その時決める」
「事前に対応規定を――」
「現場判断に任せるんだろ」
担当神官は黙った。
境務の担当者が小さく咳をする。
「ガルドに任せる」
それで決まった。
会議室を出ると、リィナがすぐ隣へ並んだ。
「受けるんだ」
「ああ」
「神殿、感じ悪かったけど」
「仕事と好き嫌いは別だ」
「ネアを助けたい?」
「犯人かどうかも分からん」
「犯人だったら?」
「捕まえる」
即答だった。
「じゃあ、なんであんな言い方したの」
ガルドは歩き続ける。
「本人に聞く」
「それだけ?」
「それだけだ」
神殿を出る頃には、朝の光はすっかり街へ広がっていた。
次の調査へ向かう前に、境務が使っている簡易の準備所へ寄る。
ガルドは机の片側で、剣と携行品を確認した。予備の紐、携帯灯、簡単な調査道具。腰帯から荷物、武器の留め具まで順に見直し、必要なものだけを残していく。
少し離れた机では、リィナが真剣な顔で紙へなにかを書いていた。
「なにしてる」
「遺書」
ガルドが見る。
「まだ市内だぞ」
「今から地下行くんでしょ?」
「まだ決めてねえ」
「神鎖絡みなんでしょ?」
ガルドの手が止まった。
「名前しか知らねえんだろ」
「だから聞いてるの。さっき反応したじゃん」
「……」
リィナも筆を止める。
数秒。
「今ので確定した」
「……」
「やった」
「なにがやっただ」
「情報を引き出した」
「どこで覚えた」
「ガルド見て」
「教育に悪いな」
ガルドは再び装備へ戻った。
「なに書いてる」
「死亡時の処理」
リィナは紙を少し持ち上げる。
「装備は売却。借金返して、余った分は――」
「借金あるのか」
「そっち?」
「返せる額か確認してる」
「死んだら装備売れば」
「生きて返せ」
「それが一番だけど」
口調は軽い。
だが、紙を押さえている指先は僅かに震えていた。
ガルドは気づかなかったように、自分の荷物を締め直す。
「残ったお金は仲間に酒」
「先に借金返せ」
「返すって書いたじゃん」
「酒屋に借金してんじゃねえだろうな」
「そこまで駄目な人だと思ってる!?」
「確認してるだけだ」
リィナは少し笑い、また紙へ目を落とした。
「地下ってさ」
「まだ行くとは言ってねえ」
「行く顔してる」
「どんな顔だ」
「面倒な仕事見つけた時の顔」
「見慣れたみたいに言うな」
「結構見てるよ」
筆先が止まった。
部屋の外を通る職員の足音が、一度だけ遠く響く。
「……死ぬかな」
ガルドは「死なない」とは言わなかった。
「装備見直せ」
リィナが顔を上げる。
「見た」
「もう一回」
数秒。
リィナは遺書を畳み、丁寧にしまった。
「はいはい」
立ち上がり、腰帯から荷物、武器の留め具まで順に確かめていく。
「これでいい?」
「靴」
「え?」
ガルドが足元を指す。
片方の紐が緩んでいた。
「あ」
リィナはしゃがみ込んで結び直す。
「……こういうとこだけ細かいよね」
「転んだら死体が一個増える」
「原因が靴紐だったら嫌すぎる」
「なら確認しろ」
立ち上がったリィナが、今度こそ荷物を背負う。
ガルドも剣を腰へ戻した。
二人は準備所を出た。
カリ=エルの通りには、すでに朝の人波ができている。商人も職人も巡礼者も、それぞれなにも知らずに今日を始めていた。
ガルドはその流れへ迷いなく入り、リィナもすぐ後を追う。
「で、次どこ?」
「まず情報を買う」
「神殿から?」
「違う」
「境務?」
「違う」
「誰から?」
ガルドは歩いたまま答えた。
「鍵の意味を知らない女」
「誰それ」
「会えば分かる」
「またそれ!」




