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元神鎖の傭兵は英雄にならない  作者: 秋月キアラ
第1巻 ― 司祭殺しと地下の神鎖本編
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1/11

PROLOGUE 破壊神は朝から人の部屋にいる

“英雄は人を救う。

だが、世界は救われすぎると壊れる。”

 目を開けるより先に、人の気配がした。


 ガルドの右手が枕元へ伸びる。眠気は残り、身体もまだ重い。それでも手だけは、長年染みついた順序を忘れない。


 指先が、手を伸ばせば届く位置へ置いてある武器へ触れる、その直前だった。


「おはよう、ガルド」


 手が止まる。


 ガルドは片目だけを開き、声のした方を見た。


 窓際の椅子に男が座っている。脚を組み、頬杖までついていた。侵入者という自覚は、少なくとも本人にはないらしい。


 まだ青みの残る朝の光が、長い黒髪の輪郭を淡く縁取っている。髪は肩を越えて背へ流れ、光の加減によってわずかに紫を帯びて見えた。


 長い睫毛の奥にある瞳は、黄金に近い琥珀色だった。美しい色なのに、中心の瞳孔だけが人間のものより細い。その一点だけで、整いすぎた顔立ちが急に人から遠ざかって見える。


 均整の取れすぎた輪郭、指先に至るまで、どこにも崩れがない。


 美しい男、というだけでは足りない。


 人間が美しいと感じるものだけを拾い集め、余計な部分をすべて削って人の形へ押し込めたような、どこか落ち着かない美貌だった。


 ガルドは二秒ほど見た。


 敵ではない。


 それだけ確認すると、枕へ顔を戻しかける。


「……帰れ」


「起きて最初の言葉がそれ?」


「二度言わせるな」


「じゃあ、その前に一度だけ、“おはよう”って言って」


「帰れ」


「二回言ったね」


「お前が言わせたんだ」


 アストラは嬉しそうに笑った。細い金の瞳が柔らかく細まり、その瞬間だけは人間の青年と大して変わらない顔になる。


 ガルドは上体を起こし、寝台の縁へ腰掛ける。寝癖のついた髪に、右目を覆う眼帯。身体のあちこちに古傷を残した寝起きの中年男には、窓際の美貌をありがたがる気配など欠片もない。


 むしろ機嫌が悪い。


 いつも通りだった。


「何時だ」


「朝」


「見れば分かる」


「じゃあ聞かなくてもよかったね」


 ガルドは返事の代わりに水差しへ手を伸ばした。


 顔を洗い、衣服を拾って朝の支度を始める。左脚へ体重を移した瞬間だけ動きが僅かに硬くなった。


「今日は左脚だね」


 背後から声が飛ぶ。


「何が」


「痛いでしょ」


 ガルドの手が一瞬止まった。


「別に」


「そういう歩き方する時は痛い」


「医者ごっこなら他所でやれ」


 アストラは椅子を離れず、ただその歩き方を見ていた。


「百二十六年前にも、同じ歩き方してたよ」


「覚えてねえよ」


「僕は覚えてる。君のことだからね」


「気持ち悪い」


「ありがとう」


「褒めてねえ」


 ガルドは上着へ腕を通す。


「百二十六年前の今頃は、もっと寝癖がひどかった」


「何の話だ」


「君の髪」


「そこまで覚えてんのか」


「もちろん。君のことならね。昨日は六回寝返りした」


 ガルドが止まった。


「数えるな」


「今そこ気になる?」


「お前、夜中からいたのか」


「今そこ気づいた?」


「出てけ」


「昨日の夜からいるのに?」


「なおさら出てけ」


 ガルドは再び支度へ戻る。


 背後では、アストラが黒い長衣の裾を組んだ脚から払った。仕立てそのものは上等だが、全身を覆う黒の中に覗く暗い赤と、細い銀鎖の装飾だけが妙に目につく。


「そういえば、百二十六年前の今日も雨だった」


「知らん」


「君が僕を三回刺した日だから」


「四回だ」


 部屋が静かになった。


 先に自分の失言へ気づいたのはガルドだった。


 アストラの口元が、ゆっくり持ち上がる。


「……覚えてるじゃない、ガルド」


「昔のことだ」


「四回」


「黙れ」


 勝ち誇った顔ではなかった。


 ただ嬉しそうだった。


 その方が、ガルドには面倒だった。


「お前の記憶、全部燃やせねえかな」


「無理だと思う」


「残念だ」


 そこでアストラが初めて椅子を離れた。


 黒い長衣の裾を引きながら、ゆっくり近づいてくる。真正面ではなくガルドの少し横へ回り、その金の瞳が眼帯へ落ちた。


 黒手袋に包まれた指先が伸びる。


 黒い布へ触れる寸前、その手首をガルドが掴んだ。


 速かった。


 寝起きの中年男の動きではない。


 アストラの笑みが僅かに消えた。


「触るな」


「まだ?」


「何が」


「まだ触らせてくれない?」


「一生な」


「長いね。僕は嫌いじゃないけど」


「お前基準で喜ぶな」


「一生って約束みたいで好きだよ」


「今すぐ撤回する」


「もう聞いたから、撤回は受け付けないよ」


 ガルドは手を離した。


 アストラも、もう一度触れようとはしない。ただしばらく眼帯を見つめ、それからガルドの顔へ視線を戻した。


 二人の間に、ほんの短い沈黙が落ちる。


 先に切ったのはガルドだった。


「飯でも食って帰れ」


「作ってくれるの?」


「誰が」


「じゃあ僕が作る」


「帰れ」


 いつもの朝へ戻った。


 ガルドが上着の留め具を締め、剣帯を取る。その間もアストラは何か喋っていた。


「それ、昨日も――」


 声が途切れた。


 ガルドはすぐには気づかない。留め具を留め、鞘の位置を確かめる。


 数秒経って、ようやく静かすぎることに気づいた。いつもなら、頼んでもいない言葉があと二つは飛んでくる。


 ガルドの手が止まる。


 振り返った。


 アストラはガルドを見ていなかった。


 金の瞳は足元の石床へ落ちている。いつもなら笑いに紛れて目立たない細い瞳孔が、今は針のように鋭く見えた。


 何の変哲もない、灰門第七共同住居棟の床。それなのにアストラは、その向こうに何かがあるように見つめていた。笑みも薄れている。


「……どうした」


 返事がない。


「アストラ」


 二度目は低かった。


 アストラが僅かに首を傾げる。何かを聞こうとしているようだったが、ガルドには何も聞こえない。


 朝の共同住居棟には、遠くの生活音があるだけだった。


「……鳴った」


「何が」


 アストラの視線は床から動かない。


「鎖」


 ガルドの身体から眠気が消えた。


 背が伸び、肩から余計な力が抜ける。右手が自然に武器の位置へ下がった。


「どこだ」


 アストラが指を下へ向ける。


「下」


「この棟か」


「もっと下」


「地下?」


「もっと」


 ガルドも床を見る。


 当然、何もない。ただの石床だ。


「君みたいなのが、もう一人いる」


 ガルドの片眉が上がった。


「俺みたいなの?」


「うん。……いや」


「何だ」


「少し違う」


「何がいる」


「人間」


 アストラは一度言葉を切った。


「たぶん」


「たぶん?」


 珍しく、言葉を選んでいた。


「神と人間が――壊れるくらい、繋がってる」


 ガルドの片目が細くなる。


「……神鎖か」


 アストラは答えなかった。


 その瞬間、眼帯の奥が痛んだ。


「……っ」


 激痛ではない。細い針を古傷の奥へ深く差し込まれたような痛みに、ガルドの手が反射的に右目へ上がる。


 そこで初めて、アストラの視線が床から離れた。


 金の瞳がまっすぐガルドを捉える。さっきまで床へ向いていた冷たさは一瞬で消え、そこにあるのはただガルドへの注意だけだった。


「痛む?」


「少し」


 アストラが距離を詰め、眼帯へ手を伸ばす。


「触るな」


 先ほどと同じ言葉だった。


 だが今度は、手首を掴むこともしなかった。


 アストラも止まる。


 冗談は返さない。


「……ガルド」


「何だ」


「今日は――」


 言葉が止まった。


「何だ」


「……いや」


 ガルドはしばらく、その顔を見ていた。


「知ってる場所か」


 返事はない。


 アストラの視線が再び床へ落ちる。


「アストラ」


 ガルドには、その沈黙に覚えがあった。


 問い詰めようとした、その時だった。


 廊下から走る足音が近づき、次の瞬間、扉が激しく叩かれる。


「ガルド!」


 地下へ沈みかけていた空気へ、人間の声が割り込んだ。


 ガルドはすぐ扉へ向かった。歩きながら眼帯から手を離し、扉を開ける頃には私室にいた男の顔ではなくなっている。


 廊下の男は息を切らしていた。


「境務からだ。すぐ来てくれ」


「何があった」


「神殿で死人が出た」


「事故か」


「殺しだ」


 ガルドの目つきが変わる。


「誰が死んだ」


「司祭が一人」


「現場は」


「封鎖した」


「神殿側は」


 使者は一度、廊下の左右を確かめてから声を落とした。


「表沙汰にしたくないらしい」


「だから境務か」


「ああ。発見されたのは、ついさっきだ」


 ガルドはもう動いていた。


 話を聞きながら部屋へ戻り、剣帯を締める。上着を整え、小物をいくつか腰へ差した。何を持っていくか迷う様子はない。


「早いな」


「死人は待ってくれねえ」


 アストラの視線が床からガルドへ戻った。


「行くの?」


「仕事だ」


「僕も行く」


「来るな」


 即答だった。


「どうして?」


「面倒が増える」


「増やさないよ」


「存在してるだけで増える」


「ひどい」


 使者がそこで、ようやくアストラをまともに見た。


「……誰だ、そいつ」


「知らん」


「アストラだよ」


「名乗るな」


「今、知らないって言われたから」


 使者が眉を寄せる。


「知り合いなんだな?」


「違う」


「百年以上の付き合いだよ」


 使者は二人を見比べ、考えるのをやめた。


「……外で待ってる」


「そうしてくれ」


 使者が去り、扉が閉まる。


 朝の軽さは戻っていたが、先ほどの沈黙はまだ残っていた。


「僕、役に立つよ」


 アストラが言う。


 ガルドは剣帯の位置を直しながら答えた。


「知ってる」


 アストラの顔が止まる。金の瞳がほんの少し見開かれた。


 ガルドはそちらを見ないまま、鞘を邪魔にならない位置へずらした。


「だから来るな」


「……今の、もう一回言って。ちゃんと聞きたい」


「何も言ってねえ」


「言った」


「聞き間違いだ」


「僕の耳が?」


「今日は調子が悪いんだろ。鎖の音なんか聞いてるし」


「ずいぶん都合のいい理屈だね」


 アストラは少し考えた。


 いつもなら、止めても勝手についてくる。


 だが今日は動かなかった。


 ガルドは扉へ向かう。


「来るな」


「本当に?」


「本当に」


「危ないから?」


「面倒だからだ」


「僕が?」


「お前が」


「でも役には立つ」


「だから困る」


 アストラはそれ以上追及せず、代わりに妙に嬉しそうな顔をした。


「……何だ」


「別に」


「その顔やめろ」


「行ってらっしゃい」


 ガルドは扉を開け、廊下へ出た。


 二、三歩進んだところで、背後から声が飛ぶ。


「ガルド」


 今度の声は少し違った。


 ガルドが足を止める。


 振り返らない。


「帰ってくる?」


 廊下が静かになった。


 ガルドは前を向いたまま答える。


「俺の部屋だ」


 短い返事だった。


 背後で気配が僅かに緩む。


「じゃあ待ってる」


「帰れ」


「気をつけてね」


「お前に言われたくねえ」


「どうして?」


「自分の胸に聞け」


 アストラは素直に自分の胸へ手を当て、少し首を傾げた。


「何も言わないよ」


「だろうな」


 ガルドは角を曲がった。


 姿が消え、足音だけが廊下に残る。それも少しずつ遠ざかり、やがて完全に聞こえなくなった。


 アストラはしばらく、ガルドが消えた方を見ていた。


 やがて笑みが消える。


 口元から人間らしい柔らかさが失われると、長い黒髪と白い肌の中で、黄金の瞳だけが異様に鮮明になった。


 部屋へ戻って扉を閉め、先ほどと同じ石床へ視線を落とした。


 そのさらに下。


 都市の底を越えた、もっと深い場所へ。


「……誰が」


 声から軽さが消えていた。


「鎖を掘り返した?」


 返事はない。


 アストラは自分の胸元へ指を置いた。


 そこには何もない。


 少なくとも、人の目には。


 ガルドが出ていった扉を一度見て、それから再び床へ視線を戻す。


 アストラは笑わなかった。


 その頃、神殿では一人の司祭が床に倒れていた。


 司祭服の胸元は大きく裂け、その下には刃物で深々と斬られたような異様な創が開いている。


 だが、その傷に対して、血があまりにも少なかった。


 床にも衣服にも、大きな裂傷に見合うだけの血は残っていなかった。

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