PROLOGUE 破壊神は朝から人の部屋にいる
“英雄は人を救う。
だが、世界は救われすぎると壊れる。”
目を開けるより先に、人の気配がした。
ガルドの右手が枕元へ伸びる。
眠気は残り、身体もまだ重い。それでも手だけは、長年染みついた順序を忘れない。
指先が、手を伸ばせば届く位置へ置いた武器へ触れる――その直前だった。
「おはよう、ガルド」
手が止まる。
ガルドは片目だけを開き、声のした方を見た。
窓際の椅子に、男が座っている。
脚を組み、頬杖までついていた。侵入者という自覚は、少なくとも本人にはないらしい。
まだ青みを残した朝の光が、肩を越えて流れる長い黒髪を淡く縁取っている。
長い睫毛の奥には、黄金に近い琥珀色の瞳。
中心の瞳孔だけが、人間のものより細い。
人間が美しいと感じるものだけを拾い集め、余計な部分を削り落として、人の形へ押し込めたような男だった。
名を、アストラという。
破壊神である。
ガルドは二秒ほど見た。
敵ではない。
それだけ確認すると、枕へ顔を戻しかける。
「……帰れ」
「起きて最初の言葉がそれ?」
「二度言わせるな」
「じゃあ、その前に一度だけ、“おはよう”って言って」
「帰れ」
「二回言ったね」
「お前が言わせたんだ」
アストラは嬉しそうに笑った。
細い金の瞳が柔らかく細まり、その瞬間だけは人間の青年と大して変わらない顔になる。
ガルドは上体を起こし、寝台の縁へ腰掛けた。
寝癖のついた髪。右目を覆う眼帯。身体のあちこちに残る古傷。
寝起きの中年男には、窓際の美貌をありがたがる気配など欠片もない。むしろ機嫌が悪い。
いつも通りだった。
「何時だ」
「朝」
「見れば分かる」
「じゃあ聞かなくてもよかったね」
ガルドは返事の代わりに水差しへ手を伸ばした。
顔を洗い、衣服を拾って朝の支度を始める。
左脚へ体重を移した瞬間だけ、動きが僅かに硬くなった。
「今日は左脚だね」
アストラの金の瞳が、その動きを追った。
「なにがだ」
「痛いでしょ」
ガルドの手が一瞬止まる。
「別に」
「そういう歩き方する時は痛い」
「医者ごっこなら他所でやれ」
アストラは椅子を離れず、ただその歩き方を見ていた。
「百二十六年前にも、同じ歩き方してたよ」
「覚えてねえよ」
「僕は覚えてる。君のことだからね」
「気持ち悪い」
「ありがとう」
「褒めてねえ」
ガルドは上着へ腕を通す。
「昨日は六回寝返りした」
ガルドが止まった。
「数えるな」
「今そこ気になる?」
「お前、夜中からいたのか」
「今そこ気づいた?」
「出てけ」
「昨日の夜からいるのに?」
「なおさら出てけ」
ガルドは再び支度へ戻った。
背後でアストラが、黒い長衣の裾を組んだ脚から払う。
仕立てそのものは上等だが、全身を覆う黒の中に覗く暗い赤と、細い銀鎖の装飾だけが妙に目についた。
「そういえば、百二十六年前の今日も雨だった」
「知らん」
「君が僕を三回刺した日だから」
「四回だ」
部屋が静かになった。
先に自分の失言へ気づいたのはガルドだった。
アストラの口元が、ゆっくり持ち上がる。
「……覚えてるじゃない、ガルド」
「昔のことだ」
「四回」
「黙れ」
勝ち誇った顔ではなかった。
ただ嬉しそうだった。
その方が、ガルドには面倒だった。
「お前の記憶、全部燃やせねえかな」
「無理だと思う」
「残念だ」
そこでアストラが初めて椅子を離れた。
黒い長衣の裾を引きながら近づき、ガルドの少し横へ回る。
金の瞳が、右目の眼帯へ落ちた。
黒手袋に包まれた指先が伸びる。
黒い布へ触れる寸前、その手首をガルドが掴んだ。
速かった。
寝起きの中年男の動きではない。
アストラの笑みが僅かに消える。
「触るな」
「まだ?」
「なにが」
「まだ触らせてくれない?」
「一生な」
「長いね。僕は嫌いじゃないけど」
「お前基準で喜ぶな」
「一生って約束みたいで好きだよ」
「今すぐ撤回する」
「もう聞いたから、撤回は受け付けないよ」
ガルドは手を離した。
アストラも、もう一度触れようとはしなかった。
ただしばらく眼帯を見つめ、それからガルドの顔へ視線を戻す。
二人の間に、ほんの短い沈黙が落ちた。
それを破ったのはガルドだった。
「飯でも食って帰れ」
「作ってくれるの?」
「誰が」
「じゃあ僕が作る」
「帰れ」
いつもの朝へ戻った。
ガルドが上着の留め具を締め、剣帯を取る。
その間もアストラは喋っていた。
「それ、昨日も――」
そこで、続きが来なかった。
ガルドはすぐには気づかない。
上着の留め具を一つ締める。
鞘の位置を確かめる。
まだ、なにも来ない。
いつもなら、その間に頼んでもいない言葉があと二つは飛んでくる。
ガルドの手が止まった。
振り返る。
アストラはガルドを見ていなかった。
金の瞳が、足元の石床へ落ちている。
いつもなら笑いに紛れて目立たない細い瞳孔が、今は針のように鋭かった。
なんの変哲もない、灰門第七共同住居棟の床。
その向こうに何かがあるように、アストラは見つめている。
笑みも消えていた。
「……どうした」
返事がない。
「アストラ」
今度は、さっきより低く名を呼んだ。
アストラが僅かに首を傾げる。
なにかを聞こうとしているようだった。
だがガルドには、なにも聞こえない。
朝の共同住居棟には、遠くの生活音があるだけだ。
「……鳴った」
「なにが」
アストラの視線は床から動かない。
「鎖」
ガルドの身体から眠気が消えた。
背が伸び、肩から余計な力が抜ける。
右手が自然に武器の位置へ下がった。
「どこだ」
アストラが指を下へ向ける。
「下」
「この棟か」
「もっと下」
「地下?」
「もっと」
ガルドも床を見る。
当然、なにもない。
ただの石床だ。
「君みたいなのが、もう一人いる」
ガルドの片眉が上がった。
「俺みたいなの?」
「うん。……いや」
「なんだ」
「少し違う」
「なにがいる」
「人間」
アストラは一拍置き、床の向こうを探るように目を細める。
「たぶん」
「たぶん?」
すぐには続かなかった。
金の瞳だけが、石床のさらに深い場所を測っている。
「神と人間が――壊れるくらい、繋がってる」
ガルドの片目が細くなった。
「……神鎖か」
アストラは答えなかった。
その瞬間。
眼帯の奥が痛んだ。
「……っ」
激痛ではない。
細い針を、古傷の奥へ深く差し込まれたような痛みだった。
ガルドの手が反射的に右目へ上がる。
そこで初めて、アストラの視線が床から離れた。
金の瞳が、まっすぐガルドを捉える。
ついさっきまで床へ向いていた冷たさは一瞬で消えていた。
そこにあるのは、ただガルドへの注意だけだった。
「痛む?」
「少し」
アストラが距離を詰め、眼帯へ手を伸ばす。
「触るな」
先ほどと同じ言葉だった。
だが今度は、ガルドも手首を掴まなかった。
アストラも止まる。
冗談は返さない。
「……ガルド」
「なんだ」
「今日は――」
アストラの唇が、そこで閉じた。
「なんだ」
「……いや」
ガルドはしばらく、その顔を見た。
「知ってる場所か」
返事はない。
アストラの視線が、再び床へ落ちる。
「アストラ」
ガルドには、その沈黙に覚えがあった。
問い詰めようとした、その時だった。
廊下から走る足音が近づいた。
次の瞬間、扉が激しく叩かれる。
「ガルド!」
地下へ沈みかけていた空気へ、人間の声が割り込んだ。
ガルドはすぐ扉へ向かった。
歩きながら眼帯から手を離す。
扉を開ける頃には、私室で破壊神とくだらない言い合いをしていた男の顔ではなくなっていた。
廊下の男は息を切らしている。
「境務ギルドからだ。すぐ来てくれ」
「なにがあった」
「神殿で死人が出た」
「事故か」
「殺しだ」
ガルドの目つきが変わった。
「誰が死んだ」
「司祭が一人」
「現場は」
「封鎖した」
「神殿側は」
使者は一度、廊下の左右を確かめてから声を落とした。
「表沙汰にしたくないらしい」
「だから境務か」
「ああ。発見されたのは、ついさっきだ」
ガルドはもう動いていた。
話を聞きながら部屋へ戻り、剣帯を締める。上着を整え、小物をいくつか腰へ差した。
なにを持っていくか迷う様子はない。
「早いな」
「死人は待ってくれねえ」
アストラの視線が、床からガルドへ戻った。
「行くの?」
「仕事だ」
「僕も行く」
「来るな」
即答だった。
「どうして?」
「面倒が増える」
「増やさないよ」
「存在してるだけで増える」
「ひどい」
使者がそこで、ようやくアストラをまともに見た。
「……誰だ、そいつ」
「知らん」
「アストラだよ」
「名乗るな」
「今、知らないって言われたから」
使者が眉を寄せる。
「知り合いなんだな?」
「違う」
「百年以上の付き合いだよ」
使者は二人を見比べた。
そして考えるのをやめた。
「……外で待ってる」
「そうしてくれ」
使者が去り、扉が閉まる。
朝の軽さは戻っていた。
だが、先ほどの沈黙はまだ残っている。
アストラがガルドを見る。
「僕、役に立つよ」
ガルドは剣帯の位置を直したまま、そちらを見なかった。
「知ってる」
アストラの顔が止まった。
金の瞳が、ほんの少し見開かれる。
ガルドは鞘を邪魔にならない位置へずらした。
「だから来るな」
「……今の、もう一回言って。ちゃんと聞きたい」
「なにも言ってねえ」
「言った」
「聞き間違いだ」
「僕の耳が?」
「今日は調子が悪いんだろ。鎖の音なんか聞いてるし」
「ずいぶん都合のいい理屈だね」
アストラは少し考えた。
いつもなら、止めても勝手についてくる。
だが今日は動かなかった。
ガルドは扉へ向かう。
「来るな」
「危ないから?」
「面倒だからだ」
「でも役には立つ」
「だから困る」
アストラが、妙に嬉しそうな顔をした。
「……なんだ」
「別に」
「その顔やめろ」
「行ってらっしゃい」
ガルドは扉を開け、廊下へ出た。
二、三歩進んだところで、背後からアストラが呼び止める。
「ガルド」
さっきまでの軽さが、その呼び方にはなかった。
ガルドが足を止める。
振り返らない。
「帰ってくる?」
廊下が静かになった。
ガルドは前を向いたまま答えた。
「俺の部屋だ」
短い返事だった。
背後で、気配が僅かに緩む。
「じゃあ待ってる」
「帰れ」
「気をつけてね」
「お前に言われたくねえ」
ガルドはそのまま角を曲がった。
姿が消え、足音だけが廊下に残る。
それも少しずつ遠ざかり、やがて完全に聞こえなくなった。
アストラはしばらく、ガルドが消えた方を見ていた。
やがて笑みが消える。
口元から人間らしい柔らかさが失われると、長い黒髪と白い肌の中で、黄金の瞳だけが異様に鮮明になった。
部屋へ戻る。
扉を閉める。
もう一度、先ほどと同じ石床へ視線を落とした。
そのさらに下。
都市の底を越えた、もっと深い場所へ。
「……誰が」
声から、完全に軽さが消えていた。
「鎖を掘り返した?」
返事はない。
破壊神は、笑わなかった。
*
神殿では、一人の司祭が床に倒れていた。
司祭服の胸元は大きく裂け、その下には、刃物で深々と斬られたような異様な創が開いている。
だが――。
血が、あまりにも少なかった。
床にも。
衣服にも。
大きな裂傷に見合うだけの血は、どこにも残っていなかった。




