第十三章 司祭殺しは司祭殺しとして終わる
神人接続室から光が消えても、地下はすぐには静かにならなかった。
壁の奥では、長く動き続けていた装置が一つずつ停止していく。低い唸りが途切れ、遠くで崩落警告らしい短い音が鳴るたび、乳白色の照明が不安定に明滅した。
その中央で、レヴァンは床へ座り込んでいる。
少し離れた場所にはエリュネ。
二人とも、生きていた。
最初に現実へ戻ったのはリィナだった。
「……みんな、生きてる?」
ネア。イオリ。マリー。アストラ。最後に、壁際の低い段差へ腰を下ろしているガルドまで、一人ずつ目で確かめる。
マリーがリィナへ顔を向ける。
「生命反応上は肯定」
「ほんとに?」
「生命反応上は」
「そういう言い方やめて」
「精度を優先しました」
壁際のガルドが二人を見る。
「生きてるならいい」
リィナの視線が即座に飛ぶ。
「一番怪我してる人がそれ言わないで」
「動ける」
「それ、生きてる判定に使わないで」
ガルドは答えず、壁へ手をついて立ち上がった。身体を起こすだけで眼帯の奥が引きつるように痛んだが、歩けないほどではない。
アストラが立ち上がったガルドの顔を見る。
「痛い?」
「少し」
「かなりだね」
「帰れ」
「今、地下だよ」
「知ってる」
リィナがなにか言いかけ、途中で口を閉じた。
ネアが、レヴァンを見ていた。
勝った相手を見る目でも、救われた人間を見る目でもない。
オルフェンを殺したのは、この男だ。
そこだけはなにも変わっていない。
ガルドもレヴァンを見る。
「立てるか」
レヴァンは少し間を置いて頷いた。
「……ああ」
「なら立て」
すぐ傍らには、落とした武器が転がっている。
レヴァンは一度だけそれを見たが、拾わなかった。代わりにエリュネへ目を向け、まだそこにいることを確かめてから、ゆっくり立ち上がる。
リィナが武器を拾わなかったレヴァンを見る。
「逃げないの?」
「どこへ」
淡泊な返事だった。
ガルドが先へ向く。
「歩けるなら歩け」
「拘束しないのか」
「必要ならする」
「俺がまた攻撃したら?」
「その時止める」
レヴァンの口元が僅かに動いた。
「信用してるのか」
「してねえ」
「じゃあなんで」
ガルドは一度だけ振り返った。
「逃げないって顔してる」
「……顔で決めるのか」
「今はな」
それ以上、レヴァンは聞かなかった。
帰路は長かったが、来た時ほど複雑ではなかった。
ミラが外部制御を維持しているため強制封鎖は止まっている。ノクティスが残った隔壁も通行可能な状態を保ち、リィナが避難させた住民たちも深層から離れていた。
壊れた施設を、今度は全員で上へ向かう。
途中、エリュネの足が遅れた。
存在がまだ安定していないのか、融合の反動なのかは分からない。
レヴァンは気づかないまま数歩先まで進み、そこでようやく振り返った。
エリュネが少し後ろにいる。
「……大丈夫か」
「大丈夫」
「本当に?」
エリュネが少し笑う。
「今は、見ないと分からないのね」
レヴァンは黙った。
しばらくして。
「悪くないわ」
それ以上はなにも言わなかった。
白い古代施設を抜け、もっと新しい石造区画へ上がる。さらに進むと煙や水、食べ物、人の汗が混じった生活の匂いが戻ってきた。
アル=ネグラでは、すでに崩れた壁を直す者がいる。水路へ落ちた荷物を拾う者がいて、負傷者を運ぶ声が飛び交っていた。
誰もガルドたちを英雄を見る目では見なかった。
それでよかった。
地上へ出た時には、鐘も止まっていた。
カリ=エルには人の声が戻り始めている。
完全に日常へ戻ったわけではない。神殿周辺では境務の人員が走り、倒れた者の手当てが続いていた。それでも、都市を圧迫していた神威は消えている。
レヴァンはそのまま、境務が設けた臨時処理区画へ移された。
正式な裁判ではない。
まず、誰が誰で、なにをし、どの事件へ関与したのか。後から変えられない最低限の事実を記録するための場所だった。
狭い部屋には机と椅子、それに記録用紙。
世界の底まで潜って戻った末に待っていたのは、結局、紙と筆だった。
レヴァンが椅子へ座る。
エリュネは同じ席には置かれず、少し離れた場所で別の担当から事情確認を受けている。人間の容疑者と同じ一枚へ押し込めるには、神格という存在は少し面倒すぎるらしい。
レヴァンがそちらを見る。
エリュネも気づき、顔を向けた。
神鎖はない。
それでも、目は合った。
記録官が手元の用紙へ目を落とす。
「オルフェン司祭殺害について確認します」
レヴァンが正面へ向き直る。
「はい」
「あなたが殺害しましたか」
「殺したのは俺だ」
ほとんど間はなかった。
部屋の隅で、ネアが顔を上げる。
レヴァンは彼女を見なかった。
記録官の筆が紙を走る。
「故意ですか」
そこだけ、返事が遅れた。
レヴァンは自分の手を見る。
「殺すつもりではなかった」
記録官はなにも挟まない。
筆も止まらない。
レヴァンが顔を上げた。
「だが」
一度、息を吐く。
「俺がやった」
その言葉も、紙へ残った。
古代施設のことは、別の記録になる。
封蓋都市の異常も。
消えかけた神も。
神鎖が切れたことも。
今、この一枚が扱っているのは一つだけだった。
オルフェンという司祭が死んだ。
レヴァンが殺した。
記録官が最後の欄へ筆を入れる。
《被疑者本人、自認》
筆が止まった。
世界の底まで続いた事件は、紙の上で一度、一人の司祭が殺された事件へ戻った。
ガルドは部屋を出た。
廊下の壁へ背を預けていると、少ししてリィナが追ってきた。
「ねえ」
「なんだ」
「レヴァン」
「ああ」
「助けたのに」
「なにを」
リィナは聴取室の扉を見る。
「これから捕まるんでしょ?」
「そうだろうな」
「じゃあ……なんのために助けたの?」
ガルドは聴取室の扉から目を離さない。
「死なせなかっただけだ」
少し間を置く。
「罪まで消してねえ」
リィナが黙った。
「死んだら払えねえものもある」
それ以上は続けない。
「……そっか」
リィナも、それだけだった。
ネアの処理は、その後だった。
通された部屋は、彼女へ手配が出された時と大して変わらない。
机。
椅子。
書類。
神殿側の処理官と、境務の書記。
今度のネアは容疑者ではなく、証人として席へ座っている。
処理官が事件後に揃った記録を手元へ揃える。
「確認が完了しました」
レヴァン本人の自認。
現場の黒銀痕と、本人の神威痕との一致。
接続破断による殺害方法の解析。
そして、ネアが殺害後に現場へ戻ったことを裏づける記録。
第一に疑われた時の証拠は、その後に見つかった事実によって意味を変えていた。
処理官が最後の書類へ印を押す。
「ネアに対する、オルフェン司祭殺害容疑を解除します。拘束手配も取り消されます」
ネアは紙を見た。
処理官が解除書類を脇へ置く。
「以上です」
次の書類を整え始める。
ネアは少し待った。
「……それだけ?」
処理官が顔を上げた。
「なにがですか」
「あの――」
リィナが口を開く。
「いい」
ネアが止める。
「私が言う」
リィナは黙った。
ネアは《容疑解除》と書かれた紙を指先で軽く叩いた。
「こんなもの?」
壁際のガルドが解除書類を見る。
「たぶんな」
「便利だね」
「なにがでしょう」
「紙一枚で犯人にして」
指先が、今度は解除書類へ移る。
「紙一枚で“違いました”って」
処理官の返答が少し遅れた。
「当時は、確認された証拠に基づいて手配が行われました。手続き上の違反も――」
ネアが処理官を見る。
「分かってる」
「間違えたけど、ルール通りだったんでしょ」
処理官は答えなかった。
「そういう話だよね」
若い神官が僅かに身動きする。
「その……」
ネアが見ると、若い神官は口を閉じた。
彼一人で神殿全体を代表することもできないのだろう。
「……ご不便をおかけしました」
ネアは笑わなかった。
「不便だったよ」
若い神官は黙った。
ガルドも口を挟まない。
ネアが自分で言った。
それで十分だった。
処理官が別の書類を出す。
「では、身柄手配解除後の居所について確認します。希望される場合、元の居住区域への送還手続きを行います」
「元の区域って?」
「登録されていた娼館区画です」
「戻らない」
返事は速かった。
「では、一定期間、神殿指定宿泊施設で保護を――」
「いらない」
「しかし」
「アル=ネグラに戻る」
リィナがネアを見る。
「大丈夫?」
「大丈夫かどうかは知らない」
ネアは解除書類を持ち上げた。
「でも、今度は自分で仕事を選ぶ」
処理官が眉を寄せる。
「アル=ネグラには正式な就労保護制度がありません。治安上の問題も――」
「知ってる」
「ではなぜ」
「私が決めるから」
それで終わった。
誰も、なにも足さない。
ガルドがネアを見る。
「そうか」
リィナが横から顔を向けた。
「それだけ?」
「なにが」
「仕事紹介したり、住むとこ探したり」
「いらない」
ネアが即答する。
ガルドはリィナを見る。
「だそうだ」
「二人して早い」
それまで黙っていたミラがネアへ視線を向ける。
「アル=ネグラで情報を売りたくなったら、連絡して」
ネアが見る。
「仕事?」
「仕事」
「気が向いたら」
「それでいい」
それ以上、ミラも勧めなかった。
神殿を出ると、日は昼から夕方へ傾き始めていた。
カリ=エルの街路には、もう人の流れが戻っている。
ネアの腕を掴む者はいない。
先導する者も、戻る場所を指定する者もいない。
自分の足で石段を下り、通りへ出る。
人混みへ入る前に、ネアがガルドを見る。
「ねえ」
「なんだ」
「あんた、最初から私を助けるつもりだった?」
「犯人かもしれなかったからな」
ネアが一瞬止まる。
それから、少しだけ口元を上げた。
「そうだった」
「だから話を聞いただけだ」
「変な奴」
「よく言われる」
「じゃあね」
「ああ」
抱き合いもしない。
ネアは一度も振り返らず、人混みへ入っていった。
やがて地上の大通りから、アル=ネグラへ続く方へ姿を消した。
夜。
レヴァンが目を覚ました時、最初に気づいたのは静けさだった。
療養区画の小さな部屋。
壁。
窓。
外を歩く見張りの足音。
それらは全部ある。
なのに、最も近くにあったものだけがない。
レヴァンが静かな部屋の中で顔を上げる。
「エリュネ」
返事はない。
以前なら声にする必要すらなかった。
どこにいるのか。
眠っているのか。
痛んでいるのか。
それくらいは、考えるより先に分かった。
「……まだいるか」
窓の外へ目を向ける。
中庭を挟んだ向こうで、淡い光が動いた。
エリュネだった。
彼女もこちらを探していたらしい。
互いに目が合うまで、相手の場所は分からなかった。
レヴァンが立つと、見張りがすぐ反応した。
「どちらへ」
「会っていいか」
「面会時間外です」
レヴァンが黙る。
少し離れた向こう側でも、担当者がなにかを確認している。
短い調整の後。
「数分だけなら」
「十分だ」
中庭に面した通路で、二人は向かい合った。
レヴァンが向かいに立つエリュネを見る。
「聞こえない」
「なにが?」
「君の声が」
エリュネが一瞬止まった。
それから、レヴァンを見返す。
「今、聞こえてるでしょう」
レヴァンも止まった。
少しだけ笑う。
「……そうだな」
「不便ね」
「ああ」
エリュネが彼を見る。
「どうする?」
レヴァンはすぐには答えなかった。
「……分からない」
エリュネが少し笑う。
「じゃあ、考えましょう」
レヴァンは頷いた。
そのまま二人は、そこで話し始めた。
成立証路団の記録室では、紙をめくる音だけが続いていた。
机には今回の事件に関する最終記録が並んでいる。
地下。
地上。
封蓋機構。
神格異常。
記録官が結果欄を一つずつ確認していく。
《人間側死亡》
未成立。
《神格側消失》
未成立。
《完全融合》
未成立。
記録官の指が止まった。
その下には、もう欄がない。
紙の端まで視線を落とし、もう一度上から確認する。
「……該当項目がありません」
エルディン=ヴァレインも結果欄を見る。
「そうですね」
「記録不能ですか」
「いいえ」
返事はすぐだった。
エルディンは机の端から、新しい用紙を一枚引き寄せる。
「項目がないだけです」
机には、危機の最中に成立していた二つの対処案も残っている。
《地下完全封鎖》
《地上放出》
どちらにも、実行を示す印はない。
二つの紙の横に、新しい一枚が置かれた。
そこだけが白い。
エルディンがペンを取る。
ペン先が、白紙の上で一度止まった。
それから書く。
《案件:封蓋都市・神人接続事故緊急対応》
その下。
《第三選択成立》
記録官が文字を見る。
「第三……選択?」
「はい」
「地下完全封鎖でも、地上放出でもない」
「ええ」
「人間側死亡も」
「成立していません」
「神格側消失も」
「成立していません」
「完全融合も」
「成立していません」
記録官が、もう一度《第三選択成立》を見る。
「では、これは」
「既存の結果欄に存在しなかった結果です」
エルディンは、それだけ答えた。
記録官は少し迷い、それから新しい欄を作る。
《人間側――生存》
《神格側――存続》
《拘束神鎖――切断》
《完全融合――不成立》
《地下完全封鎖――不実行》
《地上放出――不実行》
最後の一行を書き終え、記録官の筆が止まった。
さっきまで存在しなかった結果欄が、紙の上に残っている。
エルディンが署名する。
印章を一度だけ押した。
重い音が、紙の上へ落ちる。
記録官が改めて、その新しい欄を見る。
「第三選択」
「ええ」
エルディンは書類を閉じた。
少しして、ガルドが記録室へ呼ばれた。
エルディンが完成した記録を差し出す。
「正式に記録しました」
「そうか」
ガルドは受け取らず、立ったまま紙面を見る。
《第三選択成立》
「選択肢」
指で紙を叩く。
「足りなかったな」
「ええ」
即答だった。
ガルドがエルディンを見る。
「悔しくねえのか」
「私の感情で記録は変わりません」
「面倒な奴だ」
「よく言われます」
ガルドは紙から目を離した。
「一つ聞く」
「どうぞ」
「なんでそこまで、“決めること”に拘る」
エルディンはすぐには答えなかった。
「私は、決められなかったことで人が何十年も殺し合うのを見ています」
声は穏やかなままだった。
「誰がなにを許したのか。誰がなにを拒んだのか。誰が責任を負ったのか。それが残らなかった」
ガルドは黙って聞く。
「最悪の決断より、誰も決めなかったことの方が、長く人を壊す場合があります」
「だから誰かに決めさせる」
「いいえ」
返事は速かった。
「本人が決める」
「そこは同じか」
「以前から」
ガルドは机の古い照会記録へ目を落とした。
「レヴァンへ、三つ出したな」
「照会時の三案です」
「信仰を戻す。依代へ移す。古代施設を使う」
「はい」
「それだけだった」
「当時、成立可能と確認できたのはその三案でした」
「今回、俺は作った」
「ええ」
「それだ」
ガルドは古い記録を指で軽く叩く。
「あるもんだけ並べて、この中から選べってやると」
ガルドが古い照会記録を一度見る。
「まだない答えを作る余地まで消すことがある」
エルディンも、すぐには頷かなかった。
「成立していない可能性を、選択肢として提示することはできません」
「なら、できる奴が作る」
静かになった。
エルディンはガルドを見る。
「それが今回、あなたでした」
勝ったとも。
負けたとも言わない。
「用がそれだけなら帰る」
ガルドが扉へ向かう。
「一つだけ」
足が止まった。
「なんだ」
「私はレヴァンさんへ、照会時に成立し得る三案を提示しました」
「知ってる」
「彼は、その中から選んだ」
エルディンは古い記録を閉じる。
「あなたは違った」
ガルドが振り返る。
「なにが」
「提示されたものから選ぶ前に、選択肢そのものを増やした」
ガルドはなにも言わない。
エルディンがガルドを見る。
「次は」
その穏やかな調子は変わらない。
「あなたが新しい選択肢を作ることも、最初から選択肢に含めます」
ガルドはしばらく男を見る。
「勝手にしろ」
「ええ」
それだけ。
ガルドは部屋を出た。
扉が閉じる。
記録室へ静けさが戻った。
エルディンは机へ向き直り、新しい用紙を一枚出す。
上端へ書く。
《ガルド――》
そこでペン先が止まった。
数秒。
なにも続けない。
エルディンは紙を閉じた。
成立証路団の外へ出ると、カリ=エルはいつもの顔を取り戻し始めていた。
鐘は鳴っていない。
露店の男が客を呼び、荷車が道を塞いで後ろの馬車から怒鳴り声が飛ぶ。巡礼者が道を尋ね、その脇では商人が値段を吹っかけている。
建物の壁際で、リィナが待っていた。
ガルドが出てくると身体を起こす。
「終わった?」
「司祭殺しはな」
リィナが少しだけ止まった。
「……じゃあ帰る?」
「帰る」
二人は人混みへ入った。
少しして。
「ねえ」
「なんだ」
「英雄になった気分は?」
「どこが」
「街、救ったじゃん」
「ついでだ」
「なんの?」
ガルドは前だけを見て歩く。
「司祭殺しを片付けた」
「……そっちが本題なんだ」
「最初からそうだろ」
「途中から世界の底まで行ったけどね」
「知らん」
「破壊神もいた」
「知らん」
「古代兵器も拾った」
「知ら――」
途中で止まった。
リィナも前を見る。
通りの向こう。
人混みの間を、月白色の髪を揺らしながらマリーが歩いてくる。
まっすぐ。
迷いなく。
ガルドへ。
リィナが横を見る。
「それは知ってる?」
「……帰るぞ」
「逃げた」
ガルドは答えなかった。
二人はそのまま人混みを抜けていく。
治療も、報告も、まだ残っている。
すぐに戻れるわけではない。
それでも、帰る場所は決まっていた。
灰門第七共同住居棟。




