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第十二章 英雄にならない男は世界の常識を斬る

 ガルドは剣を構えたまま、レヴァンを見る。


「鎖を切る」


 レヴァンの表情が変わった。


「やめろ」


「理由」


「神鎖を切れば俺が死ぬ」


 迷いのない即答だった。


 脅しでもなければ、融合を続けるための方便でもない。長く神鎖として生きてきたレヴァンにとって、それは火に触れれば焼けるのと同じほど確かな常識なのだろう。


 隣で、エリュネがわずかに顔を伏せる。


 融合はすでに七割を越えている。彼女の腕は半ばまでレヴァンの輪郭と重なり、どこからが人間で、どこからが神なのか見分けにくくなっていた。


「……あるいは」


 ガルドが視線を向ける。


「私が消える」


 リィナがレヴァンとエリュネを見比べる。


「どっちか?」


 エリュネは小さく頷いた。


「そう」


「絶対?」


 レヴァンがエリュネより先に口を開く。


「絶対だ」


 ガルドは二人から目を離し、すぐ傍らのマリーを見る。


「確認」


「既知神人接続記録を照合します」


 マリーの淡い瞳を走査光が横切り、乳白色の壁面へ複数の記録が浮かんだ。長い文字列は次々と流れ、やがて結果だけが残る。


《神鎖級接続・完全切断》


《人間側生命活動――停止》


 表示が切り替わる。


《神格側存在情報――消失》


 さらに別の記録。


《双方崩壊》


 リィナの顔から、わずかに血の気が引いた。


「安全な完全切断例を確認できません」


「……ガルドは?」


 一瞬、全員の視線が集まる。


 マリーの淡い瞳がガルドへ向く。


「規格外事例」


「それも例じゃないの?」


「再現条件不明。標準的成功例として使用できません」


「便利に外すな」


「事実です」


 ガルドはそれ以上言わなかった。


 壁の表示が切り替わる。


《接続統合率 72%》


 すぐに数字が一つ上がった。


《73%》


「追加情報」


 マリーがレヴァンとエリュネを順に見る。


「現時点で接続機構を完全停止した場合、人間側死亡確率、極大」


「極大ってどのくらい?」


「“ほぼ確実”に近似」


 リィナの口元が固くなる。


「神格側存在崩壊確率。同じく極大」


 ガルドは腰の通信具を取った。


「セイル」


 雑音が走り、通信具の向こうでセイルへ繋がる。


『聞こえています』


 背後には複数の声と、まだ完全には収まっていない鐘の響きが混じっていた。地上も落ち着いたわけではない。


「神鎖を切って、人間も神も生きた例」


 短い沈黙。


『ありません』


「一件も?」


『少なくとも、公的な記録には一例もありません』


 古代の記録にもない。


 現在の公的記録にもない。


 レヴァンが息を吐く。


「だから言っただろ」


 声に滲んでいるのは、苛立ちより疲労だった。


「俺たちはもう戻れない」


 エリュネがなにも言わず、レヴァンへ少し近づく。その動きへ反応するように、重なった二人の光がさらに混ざった。


「接続統合率、七十四パーセント」


 アストラがガルドを見る。


「やめる?」


 以前なら、先に壊すかどうかを聞いていただろう。


 今は違う。


 ガルドは首を横へ振った。


「まだ」


 リィナが壁の記録と二人を見比べる。


「つまりさ」


 まずレヴァンを指す。


「鎖を切ったら、この人が死ぬ」


「肯定」


 次にエリュネ。


「こっちが消えるかもしれない」


「肯定」


「切らなければ?」


「融合進行」


「二人とも、今の二人じゃなくなる」


「人格連続性の喪失確率、高」


「しかも街まで巻き込む」


「肯定」


 リィナは黙った。


 答えを探している顔ではない。並べられた結果を、一つずつ自分の中へ入れている。


 数秒して。


「嫌」


 レヴァンが眉を寄せた。


「なに?」


「どっちも嫌」


「子供みたいなことを言うな」


「子供でも嫌なものは嫌!」


「代わりがない!」


「だから探すんでしょ!」


 マリーが即座にリィナを見る。


「代替案を要求します」


「ない!」


 あまりに早い返事に、イオリまで振り向いた。


「私にはない!」


「では――」


「だから考えて!」


 リィナの指が今度はガルドへ向く。


 当の本人はすでに眼帯へ指を当てていた。黒銀を受けた後から、右目の奥では複数の接続が重なって見えている。


「こういう時に考えるの、あんたでしょ!」


「考えてる」


「じゃあ早く!」


「うるせえ!」


「……はい」


 珍しく素直に黙った。


 ネアがその横で、小さく息を吐く。


「……私も嫌」


 レヴァンが彼女を見る。


「一人もう死んでる」


 ネアはオルフェンの名を出さなかった。


「これ以上、事件の終わりに死体増やすの嫌」


 それだけだった。


 ガルドは返事をせず、視線をレヴァンとエリュネの間へ戻す。


 もう、一本の鎖には見えない。


 幾つもの接続が重なっている。


 エリュネからレヴァンへ神威を流すもの。


 レヴァンの生命活動を支えるもの。


 エリュネの存在を神格として保つもの。


 互いの感覚や位置を伝える細い流れ。


 二人を完全融合へ引き込んでいる装置側の接続。


 そして、その中心。


 双方を離れられない状態へ固定している一本。


 ガルドは目を細めた。


 今まで、全部が重なって見えていた。


 だから一本だと思っていた。


 違う。


 オルフェンは、生命を支える接続を切られて死んだ。


 あの広間でガルドが斬った時、レヴァンは死ななかった。エリュネも一度消えたが、戻った。


 義眼には、その痕跡が残っている。


《接続指定干渉履歴》


 同じ「切る」でも、切ったものが違えば、起きることも違う。


 義眼の奥が痛む。


 視界の端が赤く滲む。


 それでも、ガルドは中心の一本から目を逸らさなかった。


「……そういうことか」


 マリーがガルドを見る。


「なにを確認しましたか」


 ガルドは答えず、幾つもの接続を順に見た。


 命を支えるもの。


 神を残すもの。


 力を流すもの。


 互いを知るためのもの。


 そして――離れることを許さないもの。


「俺が一本だと思ってたものは」


 視線が、最後の一本で止まる。


「一本じゃねえ」


「肯定」


 リィナが眉を寄せる。


「……どういうこと?」


「全部斬る必要もねえってことだ」


 マリーが数秒沈黙した。


「理論上は」


「できる?」


 リィナが勢い込む。


「知らん」


「またそれ!?」


「だからやる」


 レヴァンの顔へ警戒が戻る。


「……なにを考えている」


 ガルドは一歩前へ出た。


「神鎖を切る」


「話を聞いていたのか!」


「聞いてる」


「切れば死ぬ!」


「知ってる」


「ならなんで!」


 眼帯の下から、新しい血が細く頬を伝った。


 ガルドは拭わない。


「だから、死なない切り方をする」


 レヴァンの口が、一瞬だけ閉じる。


「そんな方法はない!」


「今まではな」


「前例がない!」


「俺がいるだろ」


 静かになった。


 通信の向こうでも、セイルはなにも言わない。


 アストラも笑わなかった。


「お前と俺は違う!」


「知ってる」


「なら!」


「だから同じ切り方はしねえ」


 ガルドはさらに一歩進む。


 レヴァンを見る。


「お前を斬らない」


 次にエリュネ。


「こいつも斬らない」


 そして、二人の間へ視線を戻す。


「間だけ斬る」


 そこで、マリーが僅かに顔を上げた。


「関連記録を確認」


「なんだ」


「第一封鎖域。通行判定記録」


 壁面へ古い文字が浮かぶ。


《相互関係:成立》


 深層へ入る際、ガルドとアストラを通した門の記録だった。


 その下に残っていた古代文字が、マリーの再解析によって組み替えられる。


「翻訳精度を更新」


《相互関係:存続》


 次。


《拘束接続:不要》


 さらに。


《拘束接続:切断可能》


 リィナが表示を見る。


「……なにそれ」


「この施設の通行判定規則――《層律》では、関係成立条件と拘束接続を別項目として管理しています」


 ガルドは文字列を見た。


 神鎖が切れているはずの自分とアストラを、あの門は二個体の関係として認識した。


 鎖がなくても。


 関係は成立していた。


 ガルドは再び、レヴァンとエリュネの間にある一本を見る。


「関係を残して」


 その一本だけを目で追う。


「拘束だけ切れる」


「可能性を補強する記録です」


 確定とは言わない。


 それで十分だった。


 アストラが少しだけ嬉しそうな顔になる。


「ほら」


「なにが」


「関係あるって認められてた」


「今そこ拾うな」


「大事だよ」


「後にしろ」


 レヴァンがエリュネを見る。


「鎖がなくても……?」


 エリュネの瞳も揺れた。


「私たちは……」


 ガルドがエリュネを見る。


「知らん」


「またそれか!」


「やってねえからな!」


 レヴァンの怒鳴り声にも構わず、ガルドは隣にいるアストラを一度だけ見た。


「でも」


「なに?」


「あいつとは切れても残った」


 アストラの顔が一気に明るくなる。


「やっぱり認めた」


「黙れ」


 マリーの瞳に走査光が走る。


「接続統合率、七十八パーセント」


 全員の意識が中央へ戻った。


 時間はない。


 ガルドが制御核へ目を向ける。


「準備する」


 マリーはすぐ制御核へ向かった。


「拘束接続指定には、接続構造の一時固定が必要です」


「何秒」


「最低六秒」


 リィナが制御核へ向かったマリーを見る。


「できる?」


「実行可能」


 マリーが制御核へ手を触れた瞬間、白い装置の内部を赤い警告光が走った。


《神威過負荷》


 同時に、マリーの腕へ細い発光が浮かぶ。


「ただし、制御核近傍における予測損耗率上昇」


「どれくらい」


「継続時間に比例。現在、一八パーセント」


「ならお前は離れろ」


「拒否します」


 ガルドが見る。


「命令だ」


「第一登録個体に命令権限は設定されていません」


「こういう時だけ細けえな!」


「規定です」


「壊れるぞ」


「予測損耗率、一九パーセント」


「だから離れろ」


「拒否します」


 ガルドが黙った。


 マリーを見る。


「理由」


 いつもなら即座に答える。


 効率。


 規定。


 登録。


 最適行動。


 今回は違った。


 マリーは制御核へ置いた自分の手を見た。


 次に、ガルドを見る。


「……分かりません」


 リィナが目を瞬いた。


「合理的理由を特定できません」


 マリーは再び制御核へ視線を戻す。


「しかし、ここを離れる選択を不適切と判断します」


「それ」


 リィナが、ほんの少しだけ笑った。


「“残りたい”んじゃない?」


「“残りたい”の定義を――」


 いつもの返答が、途中で止まった。


 マリーは数秒考える。


「……保留します」


 それ以上は、誰も教えなかった。


 ガルドも説明しない。


「死ぬなよ」


「当機は生命体定義に――」


「壊れるな」


「了解」


 マリーが両手を制御核へ置く。


 光が腕から肩へ走り、接続構造の固定準備が始まった。


「補助回路三系統」


 別の壁面が開く。


 人一人が身を屈めて通れる程度の細い補助路。その奥へ、三本の回路が並んでいた。


 どれも表示は大きく欠けている。


「識別不能」


 リィナが三本の回路を順に見る。


「どれ?」


 マリーも回路を走査する。


「不明」


「外したら?」


「第一系統誤遮断時、人間側生命維持停止可能性」


 イオリの顔が固まる。


「第二系統誤遮断時、神格側存在崩壊可能性」


 マリーの瞳へ次の解析結果が流れる。


「第三系統誤遮断時――」


「もういい!」


 リィナが止めた。


 補助路は狭い。


 体格の大きいガルドには入りづらく、リィナでも装備を外す必要がある。


 イオリが三本の回路を見た。


 ガルドも見る。


「イオリ」


「はい」


「適当にやれ」


 これまでにも何度か言われた言葉だった。


 なにも考えず歩け。


 偶然拾った紙。


 転んで開いた壁。


 意図せず見つけた道。


 イオリは一瞬だけ笑った。


 だが、首を横へ振る。


「今回は」


 三本を見る。


「僕が選びます」


 ガルドは黙った。


 数秒後。


「そうか」


 それだけだった。


 イオリは補助路へ入る。


 三本の回路。


 左。


 中央。


 右。


 文字は壊れている。


 完全な答えは、どこにもない。


 第一封鎖域で見た古い記号。


 オルフェンの資料。


 水が埃を洗って現れた経路標識。


 迷子だった昔に、意味も分からず見ていた形。


 中央の回路にだけ、輪の途中へ一本の線が入っている。


 拘束を示す記号と、どこか似ていた。


 それだけ。


 入口でリィナが、三本の前に立つイオリを見る。


「分かる?」


「分かりません」


「……怖い?」


「怖いです」


 イオリの手は震えていた。


 それでも、中央の回路から視線を外さない。


「でも」


 指を置く。


「これにします」


 操作する。


 室内の光が一瞬消えた。


 誰も息をしなかった。


 古代装置が低く唸り、続いて出力が一段落ちる。


 マリーの瞳に文字列が流れた。


「指定回路」


 短い間。


「正常遮断」


 リィナの顔が一気に明るくなる。


「当たった!」


 イオリは補助路の中で、しばらく動けなかった。


 やがて息を吐き、震えていた手を握る。


「選びました」


 リィナが見る。


「今回は」


 イオリは震えていた自分の手を握る。


「僕が選びました」


 直後。


 レヴァンとエリュネの周囲から、膨大な神威が噴き出した。


「来る!」


 リィナが腕で顔を庇う。


 白い室内が光で埋まった。


 アストラが前へ出る。


「僕が受ける」


 ガルドが即座にアストラを見る。


「壊すなよ」


 アストラは横目だけを向けた。


「約束はしないって言ったよ」


「今の話だ」


 神威が迫る。


 アストラはほんの一瞬だけ考えた。


「……でも」


 一歩。


「今は壊さない」


 直撃した。


 いつもなら、消せばいい。


 世界からなくしてしまえば、破壊神にとってはそれで終わる。


 だがアストラは消さなかった。


 膨大な神威を正面から受け止め、その流れを自分の中へ通しながら、レヴァンとエリュネの存在へ返らないよう押さえ込む。


 腕へ細い亀裂のような光が走った。


 頬にも一本。


 人間の傷とは違う。


 それでも、負荷を受けていることだけは分かる。


 リィナが神威を受け止めるアストラを見る。


「アストラ!」


「大丈夫じゃないよ」


 アストラは珍しく即答した。


 それでも、僅かに笑う。


「壊した方が簡単」


「我慢しろ」


「君のお願いだからね」


 マリーの瞳へ接続表示が重なる。


「拘束接続露出率、上昇」


 ガルドが剣を握り直した。


 条件が一つずつ揃っていく。


 制御核でマリーが接続構造を固定する。


 イオリが補助回路を落とした。


 アストラが余剰神威を壊さず受けている。


 義眼の中で、複雑に重なっていた線が少しずつほどけていく。


 生命。


 神格維持。


 神威。


 感覚。


 相互認識。


 装置。


 そして。


 拘束。


 狙うべき一本が、ようやく他から離れ始めた。


 その時。


 ガルドの視界の端に、別の線が見えた。


 自分から横へ。


 アストラまで。


 視線が止まる。


 古い。


 ひどく細い。


 ところどころで明確に途切れ、完全な一本にはなっていない。


 だが、消えてもいない。


 百年以上前に切ったはずの場所。


 アストラも神威を受けたまま、ガルドへ目を向けた。


「……まだ、残ってる」


 以前、セイルに問われた言葉が頭をよぎる。


 ――あなたの神鎖は、本当に切れていますか。


 切り切れなかったのか。


 後から繋がったのか。


 神鎖とは別のなにかなのか。


 なに一つ分からない。


 マリーの瞳に新しい数値が走る。


「接続統合率、八十五パーセント」


 ガルドは即座に視線をレヴァンたちへ戻した。


「後だ」


 アストラが少しだけ笑う。


「そう言うと思った」


 融合は待ってくれない。


 レヴァンも、なにをされようとしているのか理解したらしい。


「やめろ!」


 融合している身体を無理に動かす。


「動くな!」


「俺たちはこれを選んだ!」


「知ってる!」


 エリュネの顔にも恐怖が浮かぶ。


「切ったら……!」


「お前らは生きろ!」


 レヴァンの表情が歪んだ。


「勝手に決めるな!」


 ガルドの動きが止まった。


 自分が言ったことを。


 今度は相手から返された。


 数秒もない。


 それでも。


「……ああ」


 ガルドは認めた。


「だから」


 剣を構える。


「これで終わりじゃねえ」


「なに?」


「生きてから、また決めろ」


 レヴァンがなにかを言おうとした。


 ガルドはもう聞かなかった。


 今ここで行われようとしている一度きりの融合が、この先すべての選択まで奪う。


 止めるのは、そこまでだ。


 その先まで代わりに決める気はない。


 義眼が照準を合わせる。


 レヴァン本人を外す。


 エリュネ本人も。


 人間側生命維持を避ける。


 神格核を避ける。


 神威供給も。


 共有されている記憶には触れない。


 相互認識は残す。


 二人が互いを相手として見ているものにも、刃を入れない。


 残るのは、ただ一本。


 離れることを許さず、双方を一つの状態へ固定し続ける接続。


《拘束神鎖接続》


 マリーが制御核を固定したまま数値を確認する。


「固定可能時間、六秒」


 制御核から強い光が立ち上がった。


「開始」


 六。


 アストラが神威を受け止める。


 今すぐ消してしまえば楽になる力を、そのまま抱えて立っている。


 五。


 マリーの腕に亀裂が走り、淡い光が内部から漏れた。


 それでも手を離さない。


 四。


 補助路のイオリが操作部を握り続ける。


 顔は青く、指も震えていた。


 それでも、もう誰かに代わってもらおうとはしない。


 三。


 リィナはなにも言わない。


 弓も構えず、全員の位置と開いている帰還路だけを一度確認する。


 二。


 レヴァンとエリュネが互いを見た。


 神鎖を通した理解ではない。


 まだ残っている、それぞれの目で。


 一。


 ガルドが剣を振った。


 刃はレヴァンの身体を通らない。


 エリュネにも触れない。


 二人の間。


 ただ一本。


 光の中を、剣先が抜けた。


 キン。


 小さな音だった。


 世界を揺らす轟音もなければ、神威の爆発もない。


 細い鎖が一本。


 切れたような音だけがした。


 光が止まった。


 神人接続室を満たしていた白い奔流が、一瞬ですべて消える。装置の唸りも、空中の表示も、融合の脈動も、なにもかもが沈黙した。


 レヴァンの身体が床へ崩れた。


「……!」


 リィナが息を呑む。


 エリュネの姿が消えている。


 完全に。


 淡い光すら残っていない。


 ガルドは剣を下ろさず、動かなかった。


 一秒。


 二秒。


 三秒。


 レヴァンも動かない。


 リィナの呼吸が浅くなる。


 ネアは唇を噛んだ。


 アストラが受け止めていた神威をゆっくり散らし、腕を下ろす。


 マリーだけが処理を続けている。


 やがて。


 レヴァンの胸が小さく動いた。


 もう一度。


 息を吸う。


 マリーの瞳へ解析結果が流れる。


「人間側生命活動」


 短い間。


「継続」


 リィナが大きく息を吐いた。


 だが、一人足りない。


 床へ倒れたレヴァンの目が開く。


 最初に探したのは、ガルドではなかった。


「……エリュネ」


 返事はない。


 レヴァンが片手を床へつく。


「エリュネ!」


 起き上がろうとした時。


 少し離れた場所へ、一粒の光が浮かんだ。


 次に二つ。


 十。


 淡い粒が集まり、輪郭を作っていく。


 髪。


 肩。


 腕。


 身体。


 エリュネが、そこに立っていた。


 以前より薄い。


 けれど。


 レヴァンの身体へ溶けていない。


 一人で。


 独立して立っている。


 マリーが再形成されたエリュネを走査する。


「神格側存在情報」


「継続」


「……生きてる?」


 リィナの声が震える。


「双方、生存」


 今度こそ、リィナは目を閉じた。


 ほんの一瞬だけ。


 表示が再起動する。


《完全融合――停止》


 続いて。


《人間側生命活動――継続》


《神格側存在情報――継続》


 最後。


《拘束神鎖接続――消失》


 レヴァンがエリュネを見る。


「エリュネ」


 彼女も口を動かした。


 声は聞こえている。


 けれど、その前に来るはずのものが来ない。


 なにを言おうとしているのか。


 どこが痛いのか。


 今、なにを見ているのか。


 どこへ動こうとしているのか。


 今までなら、言葉になる前に分かった。


 今は、なにも流れてこない。


 レヴァンの表情が変わる。


「……聞こえない」


「エリュネ……?」


 エリュネが手を伸ばした。


 レヴァンは一拍遅れて、それに気づく。


 自分も手を伸ばした。


 指先が触れる。


 二人とも、そこで一度その手を見る。


 神威は流れ込まない。


 痛みも。


 感情も。


 記憶も。


 ただ、触れた指先の感触だけがある。


 レヴァンがゆっくり指を閉じた。


 エリュネも、ほんの少し遅れて握り返す。


 そのずれを、レヴァンは初めて見るような顔で見つめた。


 ガルドはそこでようやく剣を鞘へ戻した。


 身体の方は限界だったらしい。近くの低い段差へ腰を下ろす。


 レヴァンはまだ、エリュネの手を握っていた。


「……分からない」


 エリュネがなにかを言う。


 今度はレヴァンが、彼女の口元を見た。


 少し遅れて意味を取る。


 エリュネが、もう一度言う。


 今度はゆっくり。


 レヴァンも、ちゃんと聞く。


 低い段差へ腰を下ろしたガルドが二人を見る。


「……面倒だろ」


 レヴァンが顔を向けた。


「……」


「なんだ」


「今までは」


 レヴァンはエリュネを見る。


「なにも言わなくても分かった」


「これから聞け」


「……鎖がない」


「ああ」


「もう俺たちは――」


 ガルドがレヴァンを見る。


「鎖が切れたくらいで」


 一拍。


「関係までなくなるかよ」


 それ以上は言わなかった。


 目の前で、神鎖のない二人がまだ手を握っている。


 レヴァンがエリュネを見る。


 エリュネも見る。


 以前なら、ほとんど同時だった。


 今は少しだけずれる。


 エリュネが先に笑った。


 レヴァンは、その笑顔に一拍遅れて気づいた。


 それから、ようやく笑おうとした。


 その前に。


 涙が落ちた。


 エリュネが手を伸ばす。


 レヴァンは、その指が頬へ近づくまで気づかない。


 見て。


 触れて。


 ようやく分かる。


 レヴァンはなにも言わず、その手を取った。

 リィナが少し赤くなった目元を手袋で擦る。


 ネアは黙って二人を見ていた。


 ガルドがレヴァンへ目を向ける。


「司祭殺しは消えねえぞ」


 涙を拭わないまま、レヴァンは頷いた。


「……分かってる」


「ならいい」


 それで終わりだった。


 カリ=エルでは、鐘が一つ止まった。


 続いて、別の鐘。


 また一つ。


 都市のあちこちで狂ったように鳴っていた鐘が、順番に静かになっていく。神殿の護符から光が消え、震えていた古い神具も止まった。


 祭壇へ押し寄せていた神威が薄れ、空気の重さが少しずつ元へ戻っていく。


 高所に立っていたセイルは、剣を構えたまま待っていた。


 一度。


 二度。


 次の神威波は来ない。


 刃へ入った亀裂を見てから、ゆっくり剣を下ろす。


 後方の記録担当が表示へ身を寄せる。


「地下接続反応、急減!」


 別の記録担当も、自分の表示を確認する。


「神威流入、停止!」


「封蓋構造、安定方向へ移行!」


 セイルは一度だけ目を閉じる。


 通信具が鳴った。


 通信の向こうでマリーが解析結果を読み上げる。


『人間側生命活動――継続』


 セイルが目を開けた。


『神格側存在情報――継続』


 周囲の者たちが一斉に振り返る。


 さらに。


『拘束神鎖接続のみ――消失』


 静寂。


 部下の一人が通信具を見つめる。


「……神鎖だけ?」


「そのようです」


「二人とも?」


「生きています」


 部下は理解できない顔をした。


「そんな……」


 やがて、セイルを見る。


「前例は?」


 セイルは少し黙った。


 傷の入った剣。


 それから、懐にある空の胃薬瓶。


 一度だけそこへ視線を落とし。


「ありません」


 顔を上げた。


「今までは」

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