講和宣言
停戦の鉦が鳴っても、戦場はすぐには静かにならない。
火の粉がまだ舞う。
詠唱を切れずに残った魔法陣が、地面で薄く明滅している。
矢が刺さったままの盾が、風に鳴る。
前線の空気は、止まれない。
止まった瞬間が一番危ないことを、全員が知っているからだ。
だから、誰もが次の一撃を“出しかけたまま”待っていた。
その時。
空が割れた。
割れたように見えただけだ。
だが見え方としては、それに近い。
雲の下に、光の幕が降りた。
巨大な円環が空に浮かび、そこから魔力が糸のように編まれていく。
ホログラム。
魔法による立体投影。
前線の誰もが、反射で武器を構え直した。
あれだけの出力は、攻撃にも防壁にもなる。
だが、落ちてきたのは火球でも雷でもない。
人の形だった。
空に立つ、巨大な男。
足元は雲を踏んでいるようで、輪郭は淡い光で縁取られる。
それでも、顔だけは異様に鮮明だ。
青い肌。
赤い目。
肩幅が広い。
鎧は簡素で、飾りの多い王ではない。
優しそうな顔をしている。
それが余計に怖い。
優しさが嘘か本当か、ここでは判断できない。
ホログラムは一度、視線を戦場全体に滑らせた。
睨むでもない。
数を数えるようでもない。
ただ、見ている。
見られている、という感覚だけが背骨に残る。
そして、声が落ちた。
拡声ではない。
喉で張り上げた声でもない。
けれど、どの叫びよりも通る。
説得力のある声色だ。
低く、落ち着いていて、怒りを混ぜない。
『我が名は、魔王アズール=ノア。
この国境戦線に関わる全軍――人間側、魔族側、ならびに外部より介入する者へ告ぐ』
“外部”という言い方が、前線のプレイヤーの神経を撫でた。
まるで、最初からそこに居ると知っていたみたいに。
『本日この時をもって、我が国は講和を宣言する』
一瞬だけ、前線が無音になった。
無音ではない。
風も、火の音もある。
だが、人の声が消えた。
次に来たのは、ざわめきだ。
「は?」
「イベント……?」
「コンテンツ終わりってこと?」
戦闘派の苛立ちは早い。
早い苛立ちは、すぐ攻撃になる。
ホログラムの魔王は、言葉を続けた。
『我が国は、人間王国と停戦条件を取り交わした。
戦場となっていた土地は、今後“緩衝地帯”として指定する』
『緩衝地帯は、双方が単独で軍を進駐させない。
双方の代表による共同管理とする。
管理の目的は三つ――』
『一、戦闘の再発防止。
二、難民・負傷者・非戦闘員の保護。
三、物流路と治安の回復』
戦争の言葉じゃない。
戦争の後始末の言葉だ。
『共同管理の実務として、以下を通達する』
『第一に、緩衝地帯における軍事行動は“防衛”に限定する。
越境行為、追撃、挑発目的の発砲・詠唱を禁止する。
違反は、所属を問わず処罰対象とする』
人間側の兵も、魔族側の兵も、顔が硬い。
命令としては分かる。
だが“処罰”を相互に認めるのは、国家として重い。
『第二に、緩衝地帯の主要拠点に“連絡評議所”を設置する。
王国、我が国、ならびに現地治安を担う騎士団・巡察隊が常駐し、
誤認戦闘の抑止と、事件の一次裁定を行う』
連絡。裁定。
戦場に必要なのは本来それだ。
だが、今までそれが無かったから“コンテンツ”になっていた。
『第三に、融和政策を開始する。
捕虜の段階的交換。
非戦闘員の往来許可。
物資の相互通行――まずは医療品と食糧から。
次いで、技術者と職人の交流を認める』
ここで、魔王は一拍置いた。
『ただし、融和は“無防備”ではない。
緩衝地帯における犯罪行為――略奪, 扇動, 偽装, 越境破壊については、
双方の法に基づき厳格に裁く。
主戦を煽る者も同様だ』
主戦派の火種を、最初から潰しに来ている。
それが見える。
プレイヤーの群れの中で、誰かが舌打ちした。
「……奪われた」
攻略の道筋を。
毎週の派手な戦争を。
ポイントの稼ぎ場を。
“奪われた”という言葉は、危ない。
奪われたと思うと、奪い返したくなる。
だが同時に、別の声もあった。
「……面白くなってきたな」
戦争が終わるからつまらないんじゃない。
戦争が“別の形”に変わるから、面白い。
そう思える連中だ。
ホログラムの魔王は、最後に言った。
『我らは、厭戦である。
多くの魔族は、これ以上の戦を望まない。
だが、望まぬ者がいることも知っている』
赤い目が、一瞬だけ細くなる。
『この鉦は、終わりの合図ではない。
始まりの合図だ。
剣を収められる者から収めよ』
光の男が、ゆっくりと消えていく。
魔力の糸がほどけ、空の円環が薄くなる。
戦場には、音だけが残った。
停戦の鉦。
ゴォォン。
派手な戦闘の残像が、まだ目に残っている。
耳の奥で爆音が鳴り続けている。
それでも、いまは誰もが知った。
この戦争は、“喋った”。
そして――炎上の種も、確かに落ちた。
魔族側の陣地。
鉦の余韻がまだ土に残る場所で、ひとりの将軍が立っていた。
兜の縁が影を落として、顔の半分が見えない。
見えないのに、目だけが赤く光っている気がした。
周囲の兵たちは武器を下げ始めている。
下げる者ほど、息を吐いている。
“助かった”という息だ。
だが将軍は、剣帯の留め具に指を置いたまま動かなかった。
外すでもない。
握るでもない。
ただ、次の形を測っている。
「……講和、だと」
声は小さい。
小さいのに、周りの温度だけが下がる。
「我らの死を、帳簿に変える気か」
副官が言葉を探している間に、将軍は遠くの平原を見た。
光の群れ。
騒ぐ者たち。
止まれない者たち。
「停戦の瞬間は、刃が一番入りやすい」
「あの者らは、それを知っている。……知っていて、止まれない」
将軍の口元が、わずかに歪んだ。
笑いではない。
嫌悪でもない。
興奮に近い。
「なら――こちらは、止まれる側に回るだけだ」
誰に言ったのか分からない言葉が、土の上に落ちる。
次の戦争の形が、そこに生まれる。
兵のひとりが、無意識に喉を鳴らした。
鉦の音よりも怖い沈黙が、将軍の周りだけに溜まっていった。




