蒸留酒
蒸留器ができた翌日。
モリは、街へ出た。
森で完結できるなら、外へ行く回数は減らす。
でも、減らしすぎると、必要なものが足りなくなる。
蒸留に必要なのは、まず“元”だ。
いきなり自家醸造から始めるほど、張り切ってはいない。
張り切ると、だいたい燃える。
だから今日は、市場で低度数の酒を仕入れて、それを蒸留する。
少量だけ。
それがモリの手順だ。
街道に出ると、人が増える。
増えるのに、騒がしくない。
前より落ち着いている。
ナラティブジョブの頃の“尖り”は、少し丸くなっている。
運営がマシンを最適化した、という噂は本当らしい。
広場の市場。
露店が並び、声が飛び、匂いが流れる。
――その中で、NPCが生き生きしている。
いや、正確には。
生き生きしている“ように見える”。
昔なら、区別は簡単だった。
NPCは同じ顔で、同じ言葉を繰り返す。
プレイヤーは、雑で、速くて、勝手だ。
今は違う。
酒樽の前で、売り子が肩をすくめる。
「今日はここまでね。風が変わって匂いが飛ぶから」
買い手が笑う。
「お前、昨日は“在庫が薄い”って言ってたじゃん」
売り子も笑って返す。
「薄いのは薄いの。けど“無い”って言うと、怒るでしょ?」
笑いが起きる。
誰も怒らない。
それが“普通”になっている。
周りのプレイヤーも、特に違和感なく対応している。
言い返す。譲る。冗談を言う。少しむっとして、すぐ引く。
ぱっと見では、どっちがどっちか分からない。
いや、分かる必要がなくなってきている。
隣にいるなら、隣だ。
モリはそこが、少し怖かった。
怖いのに、便利でもある。
世界が落ち着く。
落ち着くと、暮らしが回る。
モリは市場の端で、酒の瓶を見た。
度数の低い果実酒。
香りが強い。
甘みが残る。
蒸留に向く。
蒸留に向く、という考え方をしている時点で、もうだいぶ危ない。
酒を“道具”にしてしまう。
勝ち道具にした瞬間、揉める。
揉めるのは嫌だ。
だから、量を買わない。
露店の値札を二つ見て、安い方を選ぶ。
相場の“だいたい”で十分だ。
売り子が、瓶を布で包みながら言った。
「森へ持っていくの?」
モリは短く頷いた。
「少しだけ」
「ふぅん。森の人って、だいたい“少しだけ”って言うよね」
モリは笑わない。
でも否定もしない。
少しだけ。
少しだけでいい。
モリは瓶を受け取り、街を出た。
森へ戻る道は、静かだ。
静かな道は、考えが戻ってくる。
自分で蒸留した酒が飲みたい。
市販の酒でも、十分うまい。
でも、あれは誰かの手順の味だ。
自分の手順で、一滴になる味が欲しい。
モリは拠点に戻ると、まず瓶を裏の箱に置いた。
生活の線と混ぜない。
混ぜると、迷う。
次に、蒸留器。
銅の釜。
銅の管。
冷却の輪。
逃がし口。
一つずつ触って、位置を決める。
火は小さく。
最初は弱火。
一気に上げない。
上げると、匂いが跳ねる。
酒を注ぐ。
色が薄い。
匂いが甘い。
瓶の口を閉めても、指先に香りが残る。
モリは釜の縁を指でなぞって、液面の高さを確かめた。
入れすぎると、沸いた時に跳ねる。
跳ねると、管が濡れる。
濡れると、匂いが漏れる。
漏れると、寄る。
だから、少しだけ。
モリは火を見た。
火は小さく鳴っている。
この音が変わったら、上がりすぎだ。
弱火で、じわじわ。
いきなり温度を上げるんじゃない。
装置を“慣らす”。
釜の中で、細かい泡が増える。
泡が増えると、甘い匂いが少しだけ濃くなる。
濃くなると、外へ漏れた時に目立つ。
モリは逃がし口を見た。
目で見るだけ。触らない。
触ると、余計な動作になる。
余計な動作は、だいたい失敗の入り口だ。
銅の管は、すぐ熱を持つ。
触れなくても分かる。
目に見えない湯気が、管の中を走り始めるからだ。
冷却の輪に掛けた濡れ布が、少しずつ温くなる。
温くなると、冷えが足りない。
冷えが足りないと、滴らない。
滴らないと、ただ匂いだけが伸びる。
モリは濡れ布を一度だけ絞って、冷たい水を足した。
やりすぎない。
やりすぎると、冷えすぎて流れが止まる。
止まると圧が溜まる。
蒸留は、いつも“ほどほど”の真ん中にある。
モリは深呼吸して、耳を澄ませた。
釜の中の小さな沸騰音。
管の中を走る、聞こえないはずの流れ。
冷却の輪の布が、時々きゅっと鳴る音。
その全部が揃っている間は、まだ大丈夫だ。
モリは蓋を閉めた。
閉めるけど、完全には密閉しない。
完全は危ない。
湯気が上がる。
蒸気が管を通る。
冷却の輪が、ひんやりと湿る。
そして、出口から。
ぽと。
一滴。
次に、もう一滴。
モリはその音を聞きながら、息を吐いた。
落ちてくるのは、透明だ。
甘い匂いは、少しだけ角が取れている。
小さな杯に受ける。
まず、匂い。
次に、舌先で少し。
熱い。
喉が温まる。
でも、きつすぎない。
まだ“弱い”。
それでいい。
いきなり強い酒を作るのは、勝ち方が雑だ。
雑だと、暮らしが壊れる。
今日は、成功の確認だけ。
量を増やすのは、次。
度数を上げるのも、次。
モリは杯を置き、火を落とした。
匂いが残らないうちに。
最後に、運営へ渡す一言をまとめる。
度数が分かりにくい酒は、揉める。
酔いが暴れると、事故になる。
事故は、森まで飛ぶ。
表示と上限で、先に止める。
それだけでいい。
モリは蒸留器を冷まし、森の静けさへ戻った。




