蒸留器
ロティサリーが暮らしに収まると、次が見える。
次は、火じゃない。
湯気だ。
湯気の向こうに、もう一つのご褒美がある。
蒸留。
昔から考えていた。
考えて、いったん諦めていた。
理由は簡単だ。技術難度が高い。
火を扱うだけじゃ足りない。
温度を読む。
冷やす。
圧を逃がす。
滴る速度を揃える。
手順が長い。
手順が長いと、失敗した時の片付けが増える。
増えると、森の暮らしが壊れる。
だから、今まで手を出さなかった。
でも――今は違う。
古森工房主。
“置ける”火が増えた。
“出せる”音の上限が、少しだけ広がった。
金属の手順を、生活圏の中に押し込めるだけの余裕ができた。
モリは朝、火の前に座り直した。
ユキは白い毛を丸めて伏せている。
アラシは影の縁で、目だけが光る。
二匹とも、今日は狩りじゃないと分かっている。
分かっているから静かだ。
静かなのは、助かる。
ただ、静かと“暇”は別だ。
ユキは一度だけモリを見て、すぐ視線を外した。
「今日はこっちじゃない」
そんな顔。
アラシも同じだった。
影の中で伏せたまま、耳だけがぴくりと動く。
呼ばれても、すぐは動かない。
――狩りでも散歩でもない日だと、もう分かっている。
モリが火の前に道具を並べ始めると、二匹は勝手に遊び始めた。
ユキが前脚で地面を軽く掻く。
アラシが影から半身だけ出して、わざと届く距離に尻尾を置く。
ユキが尻尾を踏みに行く。
アラシはするりと引く。
引いて、影へ戻る。
ユキは悔しそうに鼻を鳴らして、今度は影の縁を舐めるように追う。
追うけど、吠えない。
アラシも噛まない。
遊び方まで、静かだ。
時々、ユキの白い毛が日差しを受けて、影が濃くなる。
その濃くなった影へ、アラシがすっと沈む。
沈んで、また出る。
出る場所はいつも、ユキの横だ。
競っているのに、喧嘩じゃない。
二匹のあいだにも、手順がある。
モリはそれを横目で見て、少しだけ息を吐いた。
勝手にやってくれるなら、助かる。
今日は“かまう日”じゃない。
かまい始めると、手順が長くなる。
長くなると、失敗する。
モリは口の中で、小さく言った。
「……蒸留器」
言っただけで、少しだけ胸が軽くなる。
わくわく、というやつだ。
別に、少年みたいに騒ぐつもりはない。
でも、内側が少しだけ忙しい。
蒸留器ができれば。
蒸留酒が作れる。
香りが取れる。
濃度が揃う。
街で売っている酒でも、十分うまい。
飲めば眠れるし、喉も温まる。
でも、あれは“誰かの味”だ。
仕入れの都合と、店の都合と、街の空気で決まる味。
自分で蒸留した酒は、違う。
強いとか、珍しいとか、そういう話じゃない。
火と水と匂いが、自分の手順を通って一滴になる。
その一滴が飲みたい。
たぶん、ただの趣味だ。
でも、趣味があると暮らしは回る。
それに、錬金系のクラフトがはかどる。
薬草の抽出。
樹脂の精製。
匂いの分離。
森の暮らしは、だいたい匂いと水でできている。
そこに手順が増えるなら、嬉しい。
ただし。
便利はだいたい危ない。
蒸留は、特に危ない。
火を使う。
密閉する。
失敗すれば、爆ぜる。
爆ぜたら、森が終わる。
だから、段取りから。
モリは地面に小石を並べて、三つの場所を決めた。
一つ目。湯を沸かす釜。
二つ目。蒸気を通す管。
三つ目。冷やす場所。
冷やす場所だけは、火から離す。
近いと意味がない。
意味がないと、ただ危ない。
素材は銅。
銅は柔らかい。
柔らかいから、曲げられる。
曲げられるから、巻ける。
巻ければ、冷やせる。
冷やせれば、滴る。
滴る音がする。
モリはその音を、前から想像していた。
銅板を叩く。
薄くしすぎない。
薄いと歪む。
歪むと、継ぎ目が開く。
開くと、匂いが漏れる。
匂いが漏れると、寄る。
寄ると、面倒になる。
モリは叩く回数を減らした。
一撃を短く。
決める。
決めて、止める。
次に、管。
銅の棒を熱しすぎない温度で柔らかくして、ゆっくり曲げる。
急ぐと潰れる。
潰れると流れが止まる。
止まると圧が溜まる。
圧が溜まるのが、一番まずい。
だから潰さない。
潰さないために、芯を入れて巻く。
芯は木。
森にある。
木に巻いた銅管は、ほどよい輪になる。
輪は、冷やすための形だ。
冷やすための形は、無理をしない形だ。
最後に、逃がし。
これがない蒸留器は、作らない。
蓋を強く閉めると、圧が溜まる。
溜まった圧は、いつか暴れる。
だから、暴れる前に逃がす。
逃がし口を小さく作る。
普段は閉じる。
閉じるけど、完全には密閉しない。
“完全”は、だいたい危ない。
モリは全体を組み、空で一度、火にかけた。
湯気が上がる。
管が温まる。
輪にした銅が、冷えた布の上でひんやりする。
そして、出口から――水が落ちた。
ぽと。
小さな音。
モリはその音を聞いて、息を吐いた。
できた。
まだ酒じゃない。
まだ薬でもない。
でも、道具はできた。
道具ができたら、次は“仕入れ”だ。
低い度数の酒を、少しだけ。
少しだけでいい。
大量にやると、目立つ。
目立つと人が来る。
モリは立ち上がって、ユキとアラシに指を一本。
今日は終わり。
張り切るのは、ここまで。
張り切りすぎると、だいたい失敗する。
森に戻れば、やることは少ない。
それが、今の報酬だった。




