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片道だけの門

紐は、軽かった。


軽いのに、触ると少しだけ冷たい。


霧の床と同じ冷たさ。


モリは布包みを指先で押さえて、採集袋の奥にしまった。


見せびらかすものじゃない。


確認するためのものだ。


沼地の奥。


霧の中。


妖精のダンスホール。


今日も鈴の音は揃っていて、光の輪がゆっくり回っている。


モリは岸に立って、まず釣り具を置いた。


今日は、竿を振らない。


先に、確かめる。


「これで、いいのか」


モリが袋から紐を出すと、妖精のリーダー格が近づいた。


いつもの“近づくけど境界は越えない”距離。


妖精は紐を見て、目を細めた。


「……つめたい」


一言。


それが、肯定だった。


タクミが小声で笑う。


「分かるんだな」


ケンジはロザリオを指で押さえ、落ち着いて周囲を見ていた。


戦闘じゃない。


でも、油断もしない。


妖精は指先で、空気を摘まむような動きをした。


霧の糸。


見えない糸を、結ぶ。


モリの紐を、その結び目の“芯”にする。


そういう手つきだった。


モリは手を出さない。


手を出したら、壊す。


壊したら、終わる。


鈴の音が、ひとつ、揃った。


ふたつ、揃った。


妖精の踊りが、いつもより整う。


水面の光の輪が並びを変え、円が線になる。


かつて見た通路。


今日は、その先が違った。


線の端。


霧が、押し出される。


息を吐くみたいに、ふっと。


薄い膜が割れて、奥に暗い“抜け”ができた。


「……門だ」


タクミが呟いた。


ケンジは言葉を飲み込み、息だけで頷く。


妖精のリーダー格が、小さく言った。


「ひとりずつ」


モリは頷いた。


ここで全員が行く必要はない。


必要なのは、確認。


それだけ。


「俺が行く」


タクミが口を開きかけたが、モリが首を振る。


「いい。戻ってこれない可能性もある」


「……それ、怖いっすね」


ケンジが小声で言った。


モリは淡々と返す。


「だから、俺が行く」


線の上に足を置く。


冷たい。


沈まない。


足元の感触が、霧から板へ変わる。


板から、何もないものへ変わる。


境目がない。


境目がないのが、一番怖い。


モリは呼吸を整え、もう一歩だけ進んだ。


視界が白くなる。


白が、音を吸う。


鈴も、沼の音も、遠くなる。


足元の湿り気が消えて、土の匂いだけが残った。


――森。


霧の向こうじゃない。


ちゃんと森の匂いだ。


モリは振り返った。


門はない。


霧もない。


森の奥。


徒歩圏の延長。


それでも、今までのルートとは違う場所。


“抜けた”感覚だけが、残っている。


モリはすぐに周囲を確認した。


危険な匂いはない。


足場も悪くない。


音も、普通の森。


異常はない。


――ただ。


戻る“門”がない。


「……やっぱり片道か」


モリは小さく呟いた。


帰りは歩くしかない。


徒歩圏の延長。


つまり、帰れない距離じゃない。


でも、戻りが“同じ速さ”じゃない。


それが片道だ。


背後で、小さな鈴が鳴った。


薄い音。


沼の鈴と違う。


森の鈴。


振り向くと、木々の間に小さな光が揺れている。


森側の妖精。


人見知りの顔。


逃げずに、指先だけを動かした。


輪の並び。


揃え方。


“戻り”の合図。


今は開かない。


でも、いつか開く時の形。


モリはそれを目で覚え、頷いた。


それ以上は踏み込まない。


踏み込めば、今度は森側の舞台を荒らす。


今日は確認だけ。


モリは来た道とは違う、森の生活ルートへ足を向けた。


土の匂いを吸って、呼吸を整える。


歩く。


歩いて戻る。


それでいい。


森の道は、帰りの方が長く感じる。


行きは“探す”。


帰りは“持ち帰る”。


頭の中に増えた情報の分だけ、足が重い。


モリは息を整え、いつもの生活ルートを辿った。


湿った土。


苔。


倒木。


足場板を置く場所。


ユキのいない森でも、足が勝手に選ぶ。


霧が混じり始める。


空気が冷たくなる。


沼の匂いが戻ってくる。


そして、鈴の音。


妖精の踊りの音。


戻った。


戻りは、歩きだ。


でも、戻れる。


それで十分だ。


岸に着くと、タクミとケンジが同時に息を吐いた。


「……おそ」


タクミが小声で言う。


「歩きっすからね」


ケンジも、冗談みたいに返した。


モリは短く報告する。


「森の奥に出る。門は片道。帰りは徒歩」


タクミが眉を上げた。


「それ、便利なのか?」


「便利だ。使い方が変わるだけだ」


ケンジが頷く。


「行きはショートカット、帰りは散歩。生活っすね」


妖精のリーダー格が、胸を張る。


“今は”と言っている。


モリは頷き、紐を布に包み直した。


次は、双方向。


でも今日は、ここまで。


釣りも少しだけして帰る。


欲張らない。


森に戻ったら、手入れをする。


それが、生活だ。

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