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対の輪

沼地の霧から戻っても、耳の奥に鈴の音が残っていた。


あの音は、うるさくない。


うるさくないのに、頭の片隅に引っかかる。


“揃った”感じがするからだ。


森の家。


焚き火。


道具の手入れ。


いつもの夜。


それでも、ユキの鼻先だけが落ち着いていなかった。


ユキは入口へ行ったり、窓の方へ行ったりして、空気を嗅ぐ。


そして、ふいに外へ顔を向けた。


耳が立つ。


尻尾が、短く揺れる。


「……何かある?」


モリが声を落として聞くと、ユキは鼻を鳴らした。


匂い。


いつもの森の匂いの中に、混じっている。


湿った霧の匂い。


そして、薄い鈴の余韻。


沼地の奥と同じ匂いだ。


翌朝。


モリは採集袋を軽くした。


必要最低限。


板の束。


滑り止めの油。


弓とダガー。


ロッドは置いていく。


今日は釣りじゃない。


探しに行く。


森の徒歩圏の延長。


いつもの採集ルートを、ほんの少しだけ外す。


“外す”と言っても、道なき道じゃない。


森で暮らすと、道は二種類になる。


人が踏んでできた道。


それと――自分の足が覚えた道。


モリは後者を選ぶ。


苔の厚い場所。


根が露出している場所。


乾いた葉が溜まる場所。


そこは沈まない。


沈まないから、音が小さい。


足場板を一枚、腰から抜いて置く。


沈む場所を避けるためじゃない。


“沈む癖”がついた地面を、毎回同じように踏まないためだ。


板を置けば、足の置き場が決まる。


決まれば、迷わない。


迷わなければ、疲れない。


滑り止めの油を、靴底に薄く塗る。


乾くまで少し待つ。


待つ間に、周囲の音を聞く。


森は、音で危険が分かる。


枝の折れる音。


水の音。


鳥が飛び立つ音。


そして――急に静かになる音。


ユキは先を歩き、鼻先で空気を割っていく。


“こっちだ”と言っている。


銀狼の動きは早い。


早いのに、無駄がない。


止まるところで止まって、匂いを取って、また進む。


モリはその背中を見て、歩幅を合わせた。


合わせるのは速度じゃない。


間だ。


呼吸。


足音。


「……行ける」


モリが小さく言うと、ユキが耳を一度だけ動かした。


湿った土に混じる苔の匂いが濃くなる。


木々の間の風が、少し冷たい。


そして、嫌な匂い。


腐った魚みたいな、油みたいな。


沼地の匂いとは違う。


森の中で、あまり嗅ぎたくない匂いだ。


ユキが足を止めた。


尻尾が低くなる。


「……来る」


モリは弓に手をかけた。


茂みが揺れ、小さな影が跳ねた。


湿地ネズミ。


群れ。


弱い。


ただし、噛む。


噛まれると地味に痛い。


それに、放っておくと増える。


モリは一本、地面に矢を刺した。


狙いはネズミじゃない。


地面。


矢に仕込んだ小さな粉が散って、匂いが立つ。


苦い匂い。


獣避け。


群れが、進む方向をずらす。


その“ずれた先”へ、ユキが入った。


銀狼が一匹を噛み、投げる。


投げた先は、もう一匹。


ぶつけて、まとめて止める。


止まったところへ、モリの矢が落ちる。


一本目は足。


二本目は胴。


殺すためじゃない。


動きを止めるため。


ネズミが逃げる。


逃げた方向へは、獣避けの匂い。


戻ってくる。


戻ったところに、ユキの牙。


短い。


無駄がない。


群れは散って、森の音が戻った。


モリは弓を下ろし、息を吐く。


「……今のくらいでいい」


ユキが鼻を鳴らす。


赫い筋は出ていない。


出さずに終わった。


それが、ちょうどいい。


モリは頷いて、ついていった。


霧は出ていない。


なのに。


薄い膜みたいなものが、木々の間に残っている。


光が、そこだけ少し柔らかい。


昼の森の光が、夕方みたいに見える。


モリは立ち止まった。


「……ここか」


ユキが小さく唸り、地面を爪で掻く。


その下に、薄い光の線。


踏んでも音が出ない。


踏んでも、沈まない。


沼地の奥で見た“通路”の感触に近い。


モリは一歩だけ乗った。


冷たい。


水の冷たさじゃない。


霧の冷たさだ。


触れたままにすると、指先が痺れるような。


「……妖精の床だな」


周囲を見渡す。


木々の間に、小さな輪。


水面じゃない。


地面の上に、光の輪が浮いている。


沼地のダンスホールより、ずっと小さい。


でも形は同じだ。


“対”だ。


鈴の音がした。


耳の奥で聞こえるんじゃない。


本当に、近くで鳴った。


振り向くと、小さな光がひとつ。


妖精。


沼の奥で見た連中より、少しだけ人見知りの顔をしている。


逃げはしない。


ただ、距離を取る。


「……来たの?」


小さな声。


モリは頷いた。


「匂いがした」


妖精は眉を寄せた。


「……鼻、すごい」


ユキが誇らしげに胸を張る。


妖精は、輪を指さした。


「ここ、踊る場所。……小さいけど」


モリは肩をすくめた。


「邪魔しない。踏まない。騒がない」


言葉にすると、妖精の顔が少しだけ緩んだ。


「……それなら、いい」


モリは輪の並びを見た。


沼地の奥の輪と、同じ癖。


同じ“揃い方”をするはずだ。


ただ、今は繋がっていない。


鈴の音も、まだ揃っていない。


ここは“入口”で。


向こうは“舞台”。


そんな距離感がある。


モリは深く踏み込まないことにした。


見つけただけで十分だ。


森の生活圏の延長に、もう一つ部屋ができた。


それだけで、移動の感覚が変わる。


帰り道。


モリは採集袋に苔と樹脂を少しだけ入れた。


“霧を結ぶ”素材が、森側にもある。


そういう手触り。


ユキは軽い足取りで先を行く。


羽飾りの風が、時々草を揺らす。


モリは小さく笑った。


森から離れなくても、森は広がる。


夜、焚き火の前。


モリは今日の場所を地図に小さく印を付けた。


印は目立たない。


目立たない方が、長持ちする。


それでいい。

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