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日々の積み重ね

夜の森は、静かだ。


静かさには種類がある。


風が止んでいる夜。


木々の葉擦れだけが、遠くで薄く鳴る夜。


焚き火の小さな爆ぜる音が、やけに大きく聞こえる夜。


モリの家の周りは暗い。


暗いが、真っ黒じゃない。


火の赤。


灰の白。


夜露で濡れた草の匂い。


湿った土の匂い。


それらが混じって、森の“夜”になる。


屋根の上で、時々、枝がきしむ。


どこかで小さな虫が鳴き、すぐに止まる。


森は、余計なものを長く鳴らさない。


静かなのに、やることは減らない。


モリは焚き火を落ち着かせ、炭を寄せて火を小さくした。


湯を沸かす分だけ。


明るさは、手元だけ。


それでいい。


それから道具箱の蓋を閉めた。


釣り。


沼。


妖精。


羽剥ぎ鰐。


ここ数日で増えた出来事を、頭の中でいったん棚に戻す。


大きい話は、いったん置く。


森の生活は、今日も今日で回さないといけない。


「……また、時間だけ食われてるな」


モリは湿地寄りの採集ルートを思い出して、小さく息を吐いた。


森の徒歩圏。


本来なら、散歩の延長で済む距離だ。


なのに、湿った地面が混じるだけで、やたらと消耗する。


足が取られる。


荷物が揺れる。


泥が跳ねて、道具が汚れる。


結果として、時間が吸われる。


戦闘より地味で、でも確実に疲れるやつ。


モリは作業台の上に、材料を並べた。


板材。


樹脂。


縄。


そして、薄い布。


「遠出するなら、道を作る。……自分用に」


誰かのための整備じゃない。


自分の生活のためだ。


モリが作るのは、簡易足場板。


幅は靴一足分。


長さは腕一本分。


泥の上に置けば沈みにくくなる、消耗品の板。


運搬の邪魔にならないよう、薄く。


ただし薄すぎると折れる。


だから樹脂を染み込ませて、芯だけ固くする。


板を削る。


樹脂を塗る。


乾かす。


最後に、束ねる。


束ね方が一番大事だ。


ほどくのに時間がかかれば意味がない。


モリは縄の結び目を、指先で探って止めた。


ほどく時に、一回だけ引けば外れる結び。


生活でよく使うやつ。


「……よし」


板の束は、背負った時に揺れない。


出す時は、指一本でほどける。


それだけで、明日の消耗が減る。


もう一つ。


滑り止めの油。


湿地の泥は、靴底の溝をすぐに埋める。


埋まった瞬間、滑る。


モリはたんぽぽの根を煮出した残りと、樹脂を混ぜて、薄い膜を作った。


乾けば、泥を弾く。


完全には防げない。


でも、詰まるまでの時間が伸びる。


それで十分だ。


そして、武器の手入れ。


生活の手順の中で、一番“効く”のはこれだ。


モリは弓を膝に乗せ、弦を指で弾いた。


――張りは、まだいい。


湿気を吸うと、戻りが遅くなる。


それが矢のブレになる。


だから、弦に薄く油を塗る。


滑らせて、余分は布で拭き取る。


量を間違えると逆に埃を拾う。


“ちょうどいい”だけ。


次に、矢。


鏃の先を布で拭いて、欠けを探す。


沼地の戦いは、骨に当たる。


硬い。


一本だけ、先が潰れていた。


モリは小さな砥石を取り出し、角度を決めて、少しずつ戻す。


削りすぎると軽くなる。


軽くなると飛びが変わる。


だから、削りは最小。


最後に、ダガー。


刃を抜いた瞬間、金属の匂いがする。


沼の泥は、刃に残る。


残ったままだと、錆より先に“鈍る”。


モリは刃の腹を布で拭き、根元の溝を爪でさらう。


それから短く研ぐ。


音が変わる。


シャリ、から、す、と滑る音へ。


「……これでいい」


派手な強化じゃない。


でも、手入れがしてある武器は、逃げる時に裏切らない。


作業の間、ユキは入口で寝そべっていた。


首元の羽飾りが、時々ふわりと揺れる。


速度上昇。


ユキにとっては、狩りのための便利品。


でも生活でも効く。


往復が少し早くなる。


それだけで、手順が乱れにくい。


それに――最近は、動き方そのものが変わってきた。


夜、焚き火の火が落ちる頃。


ユキは森の外れで、ひとりで短い訓練をしている。


“赫い森の怒り”。


戦闘時に体に走る、あの赤い筋。


あれを、ただの興奮で終わらせない。


息を整えて、怒りを溜めて、踏み込む。


そして、ほんの短い時間だけ――身体を大きくする。


暴走じゃない。


時間を区切って、戻る。


モリが気づいたのは、動きの癖だった。


昔。


ユキの兄がボス化して暴れた時。


あの“でかくなる”前の、溜めと重心。


ユキはそれを、真似していた。


真似して、飲み込んで、自分のものにしていた。


「……お前、最近よく動くな」


モリが言うと、ユキは耳だけをぴくりと動かした。


褒められた時のやつだ。


全部まとめて、道具箱に収める。


板の束。


油。


予備の縄。


釣り具の箱とは別に、生活用の箱が増えた。


増えたが、重くはない。


重いのは“迷い”だ。


準備が揃っていれば、迷いは減る。


モリは焚き火の前に座り、たんぽぽコーヒーを淹れた。


苦味が舌に残る。


けれど、この苦味は嫌じゃない。


落ち着く苦味だ。


「……明日、湿地の方を一回回るか」


大きな目的は、まだ言葉にしない。


ただ、生活のルートを伸ばす。


少しだけ楽にする。


それを積み重ねていけば、森の暮らしは広がっていく。


ユキが隣で丸くなり、尻尾を一度だけ床に打った。


許可の音。


森の夜は静かだ。


静かなまま、今日が終わった。

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