羽剥ぎ鰐
沼の奥の“ダンスホール”は、思ったより静かだった。
妖精たちは鈴の音で踊り続けている。光の輪がゆっくり回って、霧がやわらかく揺れる。
釣りをするだけなら邪魔にならない。
妖精がそう言った意味が、ようやく分かった。
水に落ちる音は小さい。
むしろ、その小ささが気持ちいい。
「ここ……落ち着くな」
タクミが、声をひそめたまま言った。
「落ち着く場所ほど、長居したくなるっすね」
ケンジが笑って、ルアーを投げる。
――ぽちゃん。
輪っかの光が一つだけ震えて、すぐに元に戻った。
その次の瞬間。
ケンジの竿が、ひったくられた。
「うおっ!?」
反射で踏ん張る。
足元が滑りかけるのを、ケンジは膝でこらえた。
「で、でかいっす……!」
糸が走る。
水面の下で、重いものが横に逃げた。
モリは竿を置いた。
釣りの引きは知っている。
だがこれは、魚の動きじゃない。
「タクミ。ケンジを固定。引かれるな」
「了解!」
タクミが盾を地面に立て、ケンジの横に入る。肩で支えるように位置を取って、足場の良い場所へ一歩だけずらした。
沼の水が、盛り上がった。
霧の薄い水面から、黒い頭が出る。
目。
そして――歯。
「……ワニ!?」
タクミが息を呑む。
魚じゃない。
大型の鰐型モンスター。
頭部だけが妙に発達していて、硬い骨の節が段になっている。
妖精たちが、一斉に悲鳴の代わりの鈴を鳴らした。
高い音が乱れて、踊りが止まる。
光の輪が、ばらける。
恐慌。
妖精にとって、こいつは天敵だ。
モリの脳裏に、単語が浮かぶ。
羽剥ぎ鰐。
妖精を主食にする。
霧の中で光を見つけて寄ってくる。
「ケンジ、糸切れ。引くな、離せ」
「む、無理っす! 食いついて――!」
言いながらもケンジは手を放さない。
釣りの本能だ。
モリは矢筒から一本、短い矢を抜いた。
弓じゃない。
手投げ用。
「ユキ」
銀狼が一歩前に出る。
霧の中の匂いを割って、鰐の側面へ回り込もうとする。
――その瞬間。
羽剥ぎ鰐が、首を振った。
水が弾ける。
ケンジの身体が持っていかれそうになる。
タクミが盾の縁を入れた。
“止める”。
盾を当てて、受け流す角度。
衝撃が横に逃げた。
ケンジの足が残る。
「切るっす!」
ケンジが叫び、メイス側を掴んだ。
竿を抱えたまま、柄尻で水面に叩きつける。
だが硬い。
相手は鱗じゃない。
甲殻みたいな骨。
「タクミ。口を開けさせる。俺が止める」
モリはダガーを抜いた。
正面から斬っても通らない。
だから、関節。
「ユキ、目を取れ!」
ユキが跳ぶ。
水面すれすれを蹴って、鰐の顔へ。
爪が走り、目の上を浅く裂いた。
羽剥ぎ鰐が唸る。
その一瞬、顎がわずかに開いた。
タクミが踏み込む。
盾で、顎の下を押し上げた。
“角度で持ち上げる”。
力じゃない。
支点をずらして、口を開かせる。
「今!」
モリはダガーを、顎の付け根へ差し込んだ。
刃が滑る。
硬い。
――だが、止まった。
骨の節の“隙間”に、先端だけが噛んだ。
「ケンジ。糸、切れ」
「……はいっ!」
ケンジがナイフで糸を断つ。
糸が解けた瞬間、羽剥ぎ鰐の意識が“獲物”から外れた。
狙いが変わる。
こいつの本命は、妖精だ。
霧の奥で、光が震えている。
妖精たちは逃げ場がない。
水面の上に作った床は、守りじゃなく舞台だ。
モリは息を吐いた。
ここで倒す。
長引かせない。
「タクミ、前を取れ。ケンジ、回復は薄く。ユキ、横」
三人と一匹が、同時に動いた。
タクミは前。
盾で進路を切る。
鰐が妖精へ向かう角度を、斜めにずらす。
ケンジは祈りを落としながら、間合いに入る。
持続回復を重ねて、タクミの削れを“戻す”。
ユキは横。
飛び込みすぎない。
噛まれない距離で、目と鼻先を狙う。
モリは後ろ。
弓を引いた。
狙いは目でも頭でもない。
足。
沼地の鰐は、地面が柔らかいほど動きが鈍る。
だから――沈ませる。
矢が飛ぶ。
足の付け根、薄い膜の部分。
刺さった。
羽剥ぎ鰐の動きが一拍遅れる。
タクミが、その遅れを逃さない。
蹴り。
盾で押し込んだ直後に、足で重心をずらす。
倒すためじゃない。
沼に“取らせる”ため。
鰐の腹が、ぬる、と沈んだ。
「沈んだ!」
ケンジが即座に前へ。
メイスを持ち替え、一撃。
狙いは頭じゃない。
首の根元。
骨の節が重なる場所。
鈍い音がして、羽剥ぎ鰐の頭が少しだけ落ちた。
タクミが、剣を突き込む。
節の隙間。
浅く、短く。
止まる場所だけ。
ユキが同時に噛みつく。
鰐の頬。
引き裂きはしない。
引っ張って、向きを変える。
モリは最後の矢を、口の奥へ通した。
今度は、柔らかい。
喉。
矢が奥へ消え、羽剥ぎ鰐の動きが止まった。
水面に、重い泡が一つ。
それで終わりだった。
妖精たちの鈴の音が、恐る恐る整い始める。
一匹、二匹。
光の点が集まって、輪を作る。
踊りが戻る。
――そして。
妖精たちが、こちらへ押し寄せてきた。
「たすかった!」
「すごい!」
言葉は幼い。
でも、必死だ。
タクミが照れたように頭をかいた。
「いや、俺らも……焦った」
ケンジは息を吐いて、笑った。
「大物、ヒットしすぎっす……」
モリはユキの頭を撫でた。
銀狼は涼しい顔で鼻を鳴らす。
妖精の一匹――さっき前に出てきた少し大きいのが、胸を張った。
「あなたたち、妖精を助けしもの!」
称号が、視界の端に出た。
『称号:妖精の助けしもの』
三人分。
ユキの分も、なぜか出る。
「こいつにも?」
タクミが呟くと、妖精は自信満々に頷いた。
「もちろん!」
釣果は十分だった。
それに、今日はもう満腹だ。
モリは竿を畳む。
「帰る。約束は守る。ここは言わない」
妖精が、少しだけ困った顔をして、それから嬉しそうに笑った。
「うん。じゃあ、おれい!」
妖精たちが、四つの“贈り物”を運んできた。
まずタクミ。
足首に巻く、軽いブーツ。
『妖精のブーツ』
速度が上がる。
そして、蹴り技に補正がつく。
「……俺、足取られるの嫌いって言ったから?」
タクミが苦笑すると、妖精は得意げに胸を張った。
次にケンジ。
小さなロザリオ。
『妖精のロザリオ』
神聖魔法に、速度上昇のバフが付く。
「薄く入れるの、早くなるっすね」
ケンジは楽しそうに指で揺らした。
そしてモリ。
細いナイフ。
刃が羽みたいに薄い。
戦闘には向かない。
だが、硬いうろこを裂ける。
『妖精のナイフ』
――解体向き。
モリは、その“生活寄り”の選び方にだけ、少し笑った。
最後にユキ。
小さな羽飾り。
首元に付けると、ふわりと風が回った。
速度上昇。
ユキが尻尾を一度だけ振る。
「……ちゃんと分かってるな」
モリが呟くと、妖精は照れたように回った。
鈴の音が、元のリズムに戻る。
四人はそれぞれ礼を言い、沼地を引き返した。
来た道を戻る間、タクミがぽつりと言った。
「ここ、誰にも言わない方がいいな」
ケンジも頷く。
「人が来たら、また荒れるっす」
モリは短く返す。
「言わない。俺たちは釣りをした。それだけだ」
霧の向こうで、鈴の音が小さく続いていた。




