挿入話 ソーニャ=シュマール 1
「ああ、今日も楽しかったな……」
部屋で一人言ちてハッとする。
わたし、今、何て言った?
「待って、違う、だって、」
言いながら1日を反芻してしまう。
魔道具部の先輩たちの、大袈裟なくらい温かい拍手。イデアーレの丁寧な指導。レントールのあの個性的すぎる仕上がり。デュオルのため息交じりの苦笑い。
そして、リリアンナの笑い声。
「……っ」
ぶんっ、と首を振った。
鏡台の前に座って、自分の顔を見た。
頬が、ほんの少しだけ赤い。
(今日も楽しかったな)
また、そう思った。思ってしまった。
鏡の中の自分を、じっと見つめた。
『何か嫌じゃない。ちゃんとしないと』
『正しい話が好きなんです』
自分が言った言葉を思い出す。
あれは本心だ。いつだって本心だ。曲がったことは嫌いだ。正しくありたい。
前世で両親からずっと言われていた。正しさは、守らなければならい、美しいことで。間違えたらバチが当たると、間違えは正さなければならないと。それが人の道だと。
……だから、あまり友だちもできなかったけど。だって、正しく美しいものを見ているのは清々しくて、自分も綺麗になれる気がして。
だから物語を正しい形に戻すことも、正しいことだ。
リリアンナが笑いかけてくれても。
デュオルが隣で笑っていても。
『そうよ、ソーニャさん。ヒンターの言う通り、わたくし、普段はリリーやエルとぎゅっぎゅしてばかりの、ただのお姉ちゃんなのよ』
『わたくしはね、人って完璧じゃない部分もひっくるめて面白いと思うのよ。正しくない部分があっても、その人がどうしてそうなったかを知ると、全然違って見えたりするし。精霊さんだって、妖精さんだって、完璧じゃないところがあるから愛しいのかもって思うの』
「っ、だから、違う!」
一瞬、揺らいだのはきっと気のせいだ。きっと浮かべたであろう微笑みも、ただの外面だ。
「ちゃんと、しないと」
声に出して言った。
鏡の中の自分が、同じ口の動きで繰り返す。
そうだ。ちゃんとしないと。
リリアンナは悪役だ。物語を歪める存在だ。それは変わらない事実だ。
いくら笑顔が可愛くても。
いくら一緒にいると楽しくても。
いくら——。
「……やめ」
小さく、自分に言い聞かせた。
足元に、音もなく黒い気配が滲んだ。
『今日も順調だね、ソーニャ』
クロが、床から溶け出るように現れた。ふわふわの毛並みと、くりくりした紫の瞳。見た目はどこまでも愛らしいのに、声だけが夜の底みたいに静かだ。
「ええ。ブレスレットも上手く渡せたわ。ずっとつけてくれている。イデアーレの腕輪にも引っかからずにいるわ」
『そうだね。よくできてる。少しずつ、気づかれない程度に』
「もちろん。急ぎすぎたら意味がないもの」
クロを抱き上げて、その額に自分の額をくっつけた。
冷たい。
いつも、少しだけ冷たい。
「クロ。ブレスレットの効果が出るのはいつ頃?」
『一ヶ月から二ヶ月かな。本人も気づかない程度に魔力の流れが鈍くなる。愛し子の力が少し落ちれば、封印の維持にも響いてくる』
「そう」
ゆっくりと目を閉じた。
リリアンナの手首に光るブレスレットを思い出す。
『ありがとう、ソーニャ様。大切にするわね』
そう言った笑顔を思い出す。
「……」
『ソーニャ?』
「なんでもないわ」
目を開けて、クロを見た。
「ただ、確認していただけ。これで正しいのよね」
『もちろん。これが正しいよ』
「そう」
クロを膝の上に下ろして、もう一度鏡を見た。
頬の赤みは、もう引いていた。
「転生者かどうか、もう少し確かめた方がいいかしら。リリアンナが転生者だとしたら、物語への関与の仕方も変わってくるし」
『賢いね。でも焦らなくていいよ。今はただ、仲良くしていればいい』
「分かってる。楽しみは、ゆっくり取っておくものよ」
そう、微笑んで。
鏡の中の自分が、同じように微笑み返す。
完璧な笑顔だった。
明日も、この笑顔でいられる。
それだけのことを確かめて、ソーニャはランプを消した。
ソーニャが眠りに落ちると、暗闇の中でクロだけが紫の瞳を光らせていた。
『……』
クロは、しばらくの間、暗闇の中でじっとしていた。
ソーニャの寝息が、規則正しく聞こえ始める。
やがてクロは、音もなく窓際に移動した。
窓の外に、星が出ていた。
『……』
何も言わなかった。
ただ、星を見ていた。
どのくらいそうしていたか。
やがてクロは、静かに窓から目を逸らした。
そしてソーニャの眠る方へと戻って、小さく丸くなった。
その横顔は、夜の中に溶けて、見えなかった。




