100.祠にて
祠の闇の中から滲み出た気配が、犬のような形からゆっくりと人形をとる。
そこに立っていたのは、どこか儚げで、けれど底知れぬ冷たさを纏った――ソーニャをそそのかしたクロで、かつての魔王クリムの残滓だった。
私たちは身構えたけれど、彼は攻撃してくる様子なんて微塵も見せなかった。
ただ、自嘲気味にふっと息を吐き、私たちを眺める。
『――みなさま、お揃いで。わざわざこんな寂れた場所まで、ご苦労なことだね』
その声音はどこか冷ややかで、けれど驚くほどに軽かった。
『でも、期待外れだっただろう? 今の僕には、世界をどうこうするような仰々しい力なんてないよ。ソーニャも中途半端だったからね……ただの、消えかけの残滓さ』
そう言って見せた彼の姿は、かつての絶望的な魔王というよりも、ただ居場所を失った子どもようだった。
「……じゃあ、なんでこんな真似をしたんですか」
私は一歩前に出て---みんなが一瞬止めようとした気配を感じたけれど、それは置かせてもらって---彼を見据えた。
クリムはクスリと、自虐的に笑う。
『なんで、って……。他にどうしろと言うんだい?誰も僕を必要とせず、ただ恐れ、忘れていく。それならいっそ、あの頃の願いを形にしてしまえば少しは誰かの目に留まると思ったのさ。……滑稽だろ?』
その投げやりな自嘲に、私はさらに一歩前へ踏み出した。
「誰も必要としないって、本気で思っているんですか? 今、この祠にいて?」
私のその言葉に、クリムはわずかに目を丸くした。
『……それは』
言葉に詰まった彼を逃さず、私はさらに畳み掛ける。
「わかってますよね? 妖精さんと、人々の、かつての想い!」
クリムは絶句し、ぎゅっと唇を引き結んだまま無言を貫く。
その沈黙こそが、図星である何よりの証拠だった。誰にも望まれていないと思い込みながらも、彼自身がこの場所を選び、ここに引き寄せられていたのは、心のどこかでその温もりを知っていたからなのだから。
しばらくの気まずい沈黙の後、クリムは頭を押さえ、忌々しそうに、けれどどこか疲れ切った声で呟いた。
『……チッ……やはりお前は、あいつと魂が似ている……嫌なことを思い出す。だから、つい、あの夜も』
後半部分は聞こえなかったものの、その忌々しそうな呟きに、わたしは思わず眉を寄せた。
「あいつ、って?」
『……ニアだよ!』
クリムは投げやりに、そう吐き捨てた。
『まっすぐで、綺麗事ばかり並べて。人の痛いところを、平然と突いてくる。ああ、本当に嫌になる』
そうしてぐるりとみんなに視線を回して。
『そして、みんに愛されるんだ。ねえ?そうだよね、リリー?』
そこには、深い悲しみと寂しさと愛おしさをないまぜにして闇に堕ちてしまった、かつての魔王と呼ばれていた彼の、冷たい顔があった。
全員で、息を飲む。
『今生の勇者も、サラマンダーの愛し子にも愛されて。……ねぇ、周りの気持ちに気づいてるの?ウンディーネの愛し子のことは?精霊たちは?』
ざわざわと、森の気配が一段暗くなってきた。
この冷気は、怒りなのだろうか、悲しみなのだろうか。全体が、包まれていく。
「それ、は」
……確かに、わた、し、は……みんなの気持ちを知っていて。その上で甘えさせてもらって、一緒にいて。……傲慢、だったりするのかな。
暗い気持ちが、ぐるぐるする。
「ああ、もう、ウジウジと暗いわね!はい、浄化!」
私が鬱々した思考に入りかけたところで、マリーアがさらっと聖魔法を使う。……いや、一応魔王と対峙してるから、いいんだけど……いいのか?
ともかく、暗い霧が晴れた。
『ち、聖女が』
「仕方ないじゃない、リリーは世界一かわいいんだから、誰からも愛されちゃうのよ!」
マリーアが私を抱き締めながら、またシスコン丸出しのセリフを宣う。
『……貴様も、羨むだろう?そして、聖女なのにと、悩むだろう?』
「リリーのかわいらしさと優しさは、わたしより聖女らしくて羨ましいわよ?そう思うのは仕方ないわよね、だって人間だもの!ひとを羨まない人なんている?でも、それ以上に大好きが上回っているからいいの!」
マリーア、あい○みつ○さんをご存知で……?いや、そんなはずはない。さすが聖女ということにしておこう、うん。
『勇者も、愛し子も、僕と、同じじゃないの?届くかわからない相手に、焦がれて。……君たちも、いずれ僕みたいになるかもしれないよ』
「あ~、それ考えましたけど。……確かに、悔しいし、寂しいし、すぐには吹っ切れないでしょうけれど……みんなに愛される、リリーを好きになったのだから、仕方ないなと」
「うん、それだな。……ちょっと気持ちを抉るけど、クリム様みたいに隠してなくて伝えてますからね、俺たち」
『うっ』
あっけらかんと清々しく笑顔を向ける二人に、クリム様は力なく項垂れる。『……どうせ、闇の精霊だし……暗いのは仕方ないし……』とか、ブツブツ言っている。……なんか、可愛く見えてきた。この、覚えのある感情は、まずいやつでは。
『……なんだよ、勇者も聖女も、千年前よりふてぶてしいし……ちょっとは揺らげよ……』
「僭越ながら、クリム様」
『ウンディーネの愛し子……お前は、僕に怨み節があるんじゃないの?』
「いいえ。……いえ、そうですね、最初は。なかったとは言えないかもしれません。けれど、リリーのあっけらかんとした真っ直ぐさに救われました」
『……また、リリーかよ……』
エレナはクリム様のぼやきに、綺麗な笑顔で頷いて。
「ふふっ。そう、またリリーです。眩しいですよね、リリーって。マリーにも、他の愛し子の方々にも思っていましたけれど、光に憧れて届かなくて……だんだん、悲しくなるんです。自分との違いに。自分の、負の感情に。……強すぎる憧れの光は、とてつもなく深い暗闇を作り出しさえする」
『……』
「わかります。本当に僭越ですけれど、わかります、クリム様。わたくしはきっと、あなたに一番似ている。……けれど、それでも手を伸ばしてくれた光を掴みませんか?そしてその光を包み込む宵闇を取り戻しませんか?」
『……お前、リリーが邪魔じゃないの?』
「リリーはわたくしが追い求める光です。いつか、隣に肩を並べるくらいになりたいと、思っています」
それは、とてもとても綺麗な微笑みだった。押し付けるでもない、決意をした人の、微笑み。
『さすがわたしの愛し子!最高、エレナ!』
ウンディーネが、エレナをしっかりと抱き締める。
『……はっ』
その様子をじっと眺めていたルシールが、不意に腕を組んで話し出す。
『クリムよ。千年も生きて、まだそんなことも分からぬのか』
『……何が言いたいんだ、風の』
『愛というのは、独り占めできれば幸せというもんじゃない。届かなくても、それでも隣で支えたいと、思えるものもある。まあ、我はいつもリリーを独り占めしたいがな!』
『なんだ、その矛盾』
『否定は、せぬ』
しれっとそう答えるルシールに、クリム様は呆れたような顔をする。
『――お前は、僕を諭す気があるのか』
『あるとも』
『……』
『ははは。クリム、お前は勘違いしてる部分もあるのではないかの?』
サラも参戦してきた。
『勘違い……?』
『届かない相手に焦がれるのも、まあ、辛いだろうが。言わずに腐らせるのが、一番辛くないかの?テンダーは、しっかりと言った。リリーに。それでちゃんと、前に進めておる』
サラのその直球な物言いに、テンダーは少し照れたように頬を掻いた。
「うん、まあ……どうなるかは、あれだけど」
『でも、後悔は、してないんだろ』
「してない。今はちゃんと、前を向けてる。どんな結果でも、受け止める」
サラは誇らしそうにテンダーを見つめ、頷く。
『――僕も、実は』
不意に、イルスがそう切り出した。
「え、イル?」
イデアが、驚いたように彼を見る。
『いや、今のは独り言だよ。気にしないで』
イルスは、慌ててはぐらかしたけれど、その瞳には、確かに切ない色が浮かんでいた。
『……実は、僕も、届いてないんだよね』
イルスはそうっとクリムに近づいて、小さくそう呟く。イデアには……私たちには、聞こえないほどの声で。
『それでも、腐らずにいる。だって、腐ったところで何も変わらないから。それより今、そばにいられるこの時間を大事にしたい』
その静かな、けれど、確かな言葉に、クリムの瞳がわずかに揺れた。
『……お前らは、みんなそうやって……強いのだな。さすが、あの二人の子どもたちとでも言うべきか……』
クリム様は、楽しげに、でもどこか寂しげに微笑んで。
『もう、いい……』
そう、呟いた。




