94.まだ、間に合う
「クロ……」
あの日から、ソーニャは、部屋に籠りきりだった。
家庭教師も、社交も、全て、体調不良を理由に断り続けている。窓の外を見る気力もなく、ただ、ベッドの上で、膝を抱えて座っているだけの日々。
「本当に、大丈夫なの……」
震える声で、そう呟くと、暗がりから、するりとクロが姿を現した。
「みんなに、バレたのに。デュオルにも、エレナ様にも、リリアンナ様にも……もう、誰にも、会えない」
『大丈夫だって、言っただろ』
「大丈夫なわけ、ないじゃない」
ソーニャは、両手で顔を覆った。
「わたし、これからどうなるの。断罪されて、全部、終わり……?」
『そう簡単には、終わらせないよ』
クロの声は、いつになく落ち着いていた。
「――何、その言い方」
『君の計画は、まだ生きてる』
クロが、じっとソーニャを見つめた。紫色の瞳が、暗がりの中で静かに光っている。
『封印は、もう、ほとんど緩んでる。あと少しだけ、力が足りればいい』
「あと少し……」
『千年、か……』
クロが、ぽつりとそう零した。
「千年……?何、それ」
『いや、何でもない。独り言だ』
はぐらかすように、クロは軽く笑った。
「クロ、教えて。あなた、本当は何のためにこんなことを」
『物語を正しく戻すため。君が望んだことだろ?』
「……そう、だけど」
その答えに、以前ほどの迷いのなさを感じられなかった。
「でも、みんな優しかった。デュオル様も、エレナ様も、リリアンナ様も。わたしを、見捨てないって、言ってくれて」
『――そうだね』
「なのに、わたし、こんな……」
言葉が続かなかった。ソーニャの目から堪えきれなかった涙が、ぽろぽろとこぼれ落ちていく。
クロはそれを、ただ静かに見つめていた。何かを言いかけて。けれど結局、何も言わなかった。
コンコン、と、控えめなノックの音が響いたのは、その時だった。
「お嬢様、あの……」
侍女の、遠慮がちな声。
「今、デュオル様とレントール様が玄関にいらしていて。何度も、お戻りくださいとお伝えしているのですが……」
ソーニャの肩が、びくりと震えた。
「――お断りして」
震える声で、そう告げる。
「はい……でも、もう、これで四度目でして。デュオル様は、毎日いらしています」
「四度目……」
侍女が去った後、部屋にはまた重い沈黙が落ちた。
「毎日、なんだ……」
ソーニャは、力なくそう呟いた。
「なんで。もう、全部知ってしまったでしょうに」
『――知ってるからこそ、じゃないか』
クロが静かにそう返した。
『何も知らなければ、放っておける。知ってしまったから、放っておけないんだろ、あの人は』
その言葉に、ソーニャの胸がまたぎゅっと締め付けられた。
(デュオル様……)
顔を合わせる勇気は、まだ、なかった。けれどその事実が、ソーニャの心の中に、小さな、けれど確かな、揺らぎを残していった。
『泣き止んだら、少し話をしよう』
「話……?」
『これからどうするか。まだ、選べる道はあるはずだ』
その言葉に、ソーニャは、涙に濡れた顔を上げた。
「選べる、道……」
しばらくして、泣き疲れたソーニャがようやく落ち着きを取り戻した。
「クロ……さっき言ってた『選べる道』って」
『うん』
クロは静かに、ソーニャの前に腰を下ろした。
『一つは――このまま大人しく、断罪を待つ道』
「……それは」
『みんなが、君を許そうとしてる。デュオルも、エレナも、リリアンナも』
「それ、は」
『でも、許されたところで、君の人生が元通りになる訳じゃない。婚約は、きっと解消される。家の信用も、地に落ちる。君はずっと、後ろ指を差されながら生きていくことになる』
淡々とクロはそう続けた。事実だけを積み上げるように。
「もう一つ、は」
『もう一つは――僕を、信じ続ける道』
ソーニャの顔が、はっと上がった。
『さっきも言ったけど、封印はもう限界に近い。ほんの少し後押しするだけで、魔王様は目覚められる』
「目覚めたら……どうなるの」
『世界は大きく変わる。今の秩序は壊れるだろう。でも――』
クロの瞳が、暗がりの中で妖しく光った。
『新しい世界では、君は選ばれた側の人間になれる。物語を正しく戻した、功労者として』
「わたしが……功労者」
その言葉の響きに、ソーニャの中で何かが揺らいだ。
(そんな、都合のいい話――)
そう思う自分と、同時に。
(でも、それなら。今までの全部が、報われるかもしれない)
そう縋りたくなる自分も、確かに、いた。
「クロ、それは……本当に、正しいことなの……?」
震える声でそう尋ねると、クロは少しの間、沈黙した。
『――正しいかどうかは、僕には分からない』
「え……?」
『でも君が、これ以上独りぼっちにならなくて済む道はこれしかないと、僕は思う』
その言葉に、なぜかソーニャの目に、また涙が滲んだ。
(この子は、いつも――)
いつも、正解を教えてはくれない。ただ、寄り添うことだけはしてくれる。それが優しさなのか、それとも別の何かなのか。ソーニャにはもう、判断がつかなかった。
(――独りぼっちに、ならなくて済む……)
その言葉の裏で、ふと、四度も玄関先に立ち続けているという、デュオルの姿が頭をよぎった。
(本当に、独りぼっちなのかしら、わたし――)
その小さな疑問は、まだ形になる前に涙の中に溶けていった。
「――少し、考えさせて」
『いいよ。時間は、まだあるから』
そう言って、クロはソーニャの膝に、そっと頭を乗せた。
その温もりに、ソーニャは力なく笑った。
「あなたって、本当に狡いわね」
『――かもね』
短く、そう答えたクロの声には、いつもの飄々とした響きの中に、ほんの少しだけ、何か、切ないものが混じっていた気がした。
夜は、静かに更けていった。
ソーニャの部屋の窓の外、遠い夜空には、いつもより少しだけ、明るい星が瞬いていた。




