90.精霊の国へ行こう!その3
『もう、何百年も前――いいえ、正確には、千年以上も前のこと』
ティターニア様の声が、静かに、けれど深く、その場に染み渡っていった。
『当時のわたくしは、まだ、今よりずっと未熟な、半人前の精霊だったの』
その言葉と共に、景色が、ふっと滲むように変わっていく。
◇
まだ、ファーブル王国が形を成す前。人と魔とが、今よりずっと近い場所にいた時代。
女神の名の下、選ばれた若い精霊たちが、集められていた。国を築き、人々を守るための、修行にも似た共同作業。
その中に、若きティターニアと、オベロン、そして――クリムがいた。
『クリム、また森の獣たちと遊んでいたのか』
オベロンが、呆れたように、けれど親しみを込めて声をかける。
『遊んでいたわけじゃない。様子を見に行っただけだ』
『ふふ、素直じゃないのね』
ティターニアがそう茶化すと、クリムは、少し不貞腐れたように顔を背けた。
三人は、対等な同期の精霊だった。将来、この国を治める王や女王の候補として。他にも、大勢の精霊や妖精たちが、同じように切磋琢磨していた。
クリムは闇属性の精霊だったけれど、それを理由に疎まれることは、ほとんどなかった。光と闇は表裏一体ーーーみんな、分かっていた。
『クリムの闇魔法、本当にすごいわ。夜空の星々を、まるで手元に呼び寄せるみたい』
『大袈裟だ』
『大袈裟じゃないもの。わたくし、あなたの創る夜空、大好きよ』
そう言われて、少しだけ、頬を染めるクリム。彼は、昼の眩しさと同じくらい、静かな夜の美しさを愛する、心優しい精霊だった。
三人は、いつしか、誰よりも近しい存在になっていった。
◇
けれど、平穏な時代は、長く続かなかった。
真の「魔」――理性を持たない、ただ破壊と混沌をもたらす存在たちが、少しずつ、人々の暮らす土地を脅かし始めたのだ。
『また、村が一つ、襲われた……』
戦いは、日を追うごとに、激しさを増していった。ティターニアもオベロンも、クリムも、それぞれの力を尽くして、人々と、生まれたばかりの妖精たちを守ろうとした。
『クリム、無茶はしないで』
ある夜、深手を負って帰ってきたクリムに、ティターニアは、震える声で言った。
『僕の力は、闇の"魔"にも通じやすい。だから、僕が前に出た方が、犠牲が少なく済む』
『それでも……!』
『大丈夫だ、ニア。僕は、まだ、負けない』
そう笑うクリムの目の奥に、その頃から、少しずつ、何かが変わり始めていたことに――ティターニアは、気づけなかった。
◇
ある日、決定的な出来事が起きた。
クリムが守っていた小さな集落が、彼の到着の、わずかに前に、真の「魔」に襲われ、壊滅したのだ。
『――何で』
瓦礫の中に立ち尽くすクリムの声は、これまで聞いたことのない、凍りつくように冷たいものだった。
『もっと早く、もっと強ければ、救えたのに』
その日を境に、クリムは、変わった。
『中途半端に守るから、こぼれ落ちるものが出るんだ。……全部、断ち切ってしまえば』
『クリム、それは――』
『脅威になりうるものは、根こそぎ、消してしまえばいい。そうすれば、もう、誰も、失わずに済む』
その言葉に、ティターニアは、強い違和感を覚えた。それは、優しさから出た言葉のようでいて、あまりにも、極端で。まるで、子どものように、まっすぐで、残酷な理屈だった。
『守るということは、そういうことじゃないわ』
『――お前に、何が分かる』
初めて、クリムが、ティターニアに、鋭い言葉を向けた。
『お前は、何も、失ったことがないだろう』
その一言に、ティターニアは、何も言い返せな
かった。
◇
それから、クリムは、少しずつ、自分の力を、際限なく、拡げていった。
真の「魔」を、片端から狩り、その力さえも、自分に取り込むようにして。
『クリム、力を求めすぎるのは、危険よ』
『危険なのは、力が足りないことだ』
もう、彼の目には、以前のような、星空を愛でる優しさは見えなくなっていた。ただ、燃えるような、頑なな決意だけが、そこにあった。
(彼は、間違ってなんかいない。ただ――)
ただ、あまりにも、純粋すぎた。子どものように、まっすぐに、一つの理屈だけを、信じ続けてしまった。
守るためには、脅威をすべて消し去ればいい。失わないためには、より強くなればいい。
その、あまりにも単純で、あまりにも残酷な純粋さが、彼を、少しずつ、少しずつ、闇の深みへと引きずり込んでいった。
◇
景色が、そこで、一度、途切れた。
『――ここまでが、始まりよ』
ティターニア様の声が、現実に戻ってくる。
『彼は、誰かを憎んで、闇に堕ちたわけじゃないの。ただ、あまりにも真っ直ぐに、一つの正しさを、信じ続けてしまった』
その声には、何百年経っても癒えない、深い痛みが滲んでいた。
私は、ふと、リリスが言っていた言葉を思い出す---
「こわいけど、こわくない……って、そういう……?」
「リリー?どうしたの?」
一人呟く私に、マリーアが声をかける。ティターニアにも聞こえていたようで、ふっ、と表情を和らげた。めちゃめちゃ眩しい。以前ルシールが言っていた、誰もが惑わされてしまうと言うことが、めっちゃ理解できるご尊顔だ。
『妖精で、言っていた子がいたかしら?』
「ええ、仲良くしてくれている花の妖精さんです。私がリリスって名前をつけさせてもらって」
『ふふ、そう。花の……リリスも彼と仲が良かったから……』
ティターニア様は、昔を思い出すように目を細める。
『奴を……クリムを封印後に、理解しつつも悲しんでおった妖精はたくさんいたのだよ。わたしたちに隠れて偲んでおったな』
オベロン様も話に入る。その顔を見るに、妖精さんを咎める気持ちはないらしい。
みんな、優しい。厳しいかもだけど、優しい。
「……クリム、様はなんで、留まれなかったのでしょう……」
私と、みんなも思っているのであろう、頷いてティターニア様を見つめる。
ティターニア様は、静かに、頷いた。
『本当の過ちは、この後――わたくしが、彼の想いを受け止めきれずに……むしろ踏みにじって……。聖女と勇者も巻き込んでしまったことから……』
秀麗なお顔を曇らせ、ティターニア様は少し俯き、オベロン様がそっとその肩に手を置いた。
まだ話は続くようだ。




