89.精霊の国へ行こう!その2
扉をくぐった瞬間、空気が、がらりと変わるのを感じた。
澄んだ、けれど、どこか重い空気。まるで、深い森の奥に迷い込んだような、そんな感覚。
「これは……」
思わず、小さく呟いた。
「ちょっと想像と違うような……」
普段の精霊の国は、もっと明るく、生命力に満ちているイメージだったが、今日は、空気そのものが、沈んでいるように感じる。
「ルシー、これって」
『うむ……我も、来るたびに、感じてはいたのだが』
ルシールの表情が、珍しく曇った。
『――ティターニア様のお心の乱れが、国全体に伝わってしまっているのかもしれないのよねぇ。やっほー、他の愛し子ちゃんたち!ウンディーネよ!』
「えっ、ウンディーネ様?」
『んもう、リリーったら!他のと同じようにディーとでも呼んでよ!』
きゃっ、と言いながら私をハグするウンディーネを、ルシールが剥がす。ウンディーネのイメージの違いに、エレナ以外は目が点だ。エレナは微笑をたたえている。
『ウンディーネ、お主は変わらぬな……。全く、呼んでもなかなか来なかった奴が……』
『エレナの初精霊界だからね!来るでしょ!』
『『それは同意だ』』
ウンディーネがエレナに抱きつきながら悪びれもせずに答えると、サラとイルスも二人の隣にそれぞれさらっと現れた。
『お主らは……』
『我らも向こうできちんと残滓を追っておったぞ?』
『そうそう!それにブレスレットは僕のお手柄でもあるでしょ?気づいたのはイデアだけど!』
ルシールは『全く……』とため息を吐いて、諦めることにしたらしい。うん、正解だと思う。周りが自由だと、誰かがオカン化してしまうのは、精霊も同じなのか。
『まあ、よい。話は急ぎだからの』
「そうだ、さっきティターニア様のって……?」
『精霊は、感情に敏感でな。特に、女王たるティターニア様の心の揺らぎは、この国全体の空気に影響してしまうのだ』
その言葉に、わたしの胸が、ぎゅっと締め付けられる。
(もしかして、わたしたちが聞こうとしていることと、関係あるの……?)
『行けば、分かる。ティターニア様のところへ、案内しよう』
ルシールに先導されて、わたしたちは、重い空気の中を、静かに進んでいった。
木々の隙間から差し込む光さえも、心なしか弱々しく見える。
しばらく歩くと、木々の向こうに、淡く発光する泉が見えてきた。
その泉のほとりに、佇む人影がある。
透き通るような虹色の髪と瞳。人ならざる美しさを纏った、けれど、今にも崩れ落ちそうな儚さを湛えた女性。夢の彼女だと、ストンと理解した。
『ティターニア様だ』
ルシールが、静かに告げた。
近づくにつれて、彼女の周りの空気が、はっきりと分かるほど、重く沈んでいるのが分かった。花々も、心なしか俯いているように見える。
『――来てくれたのね』
ティターニア様は、こちらに気づくと、力なく微笑んだ。その微笑みは美しかったけれど、どこか、罅割れた硝子のようだった。
「初めまして。リリアンナ=サバンズと申します」
わたしが一礼すると、マリー姉さまも、フィスも、それぞれ丁寧に礼を尽くす。
『ええ、知っているわ。シルフから、いいえ、ルシーね。いつも話を聞いているもの。みんなもよ』
ティターニア様はそう言って、ふっと目を伏せた。
『今日、来てくれた理由も、分かっている。……クリムのこと、よね』
その名前を、彼女自身の口から聞いた瞬間、空気が、さらに一段、重さを増した気がした。
「はい。……夢で、その名前を聞いたんです。マリー姉さまも」
『……そう』
短く応えて、ティターニア様は、ゆっくりと泉のほとりに座り込んだ。まるで、立っているのもやっとだというように。
『オベロン、来て』
彼女がそう呼ぶと、木々の奥から、静かな足音とともに、もう一つの人影が現れた。長身の、鋭い目つきをした男性。やはり虹色の髪と瞳でーーーオベロン様だと、直感で分かった。
『――ティターニア。もう、話すのか』
オベロン様の声には、隠しきれない、深い憂いが滲んでいた。
『ええ。もう、隠しておける段階じゃないもの。それに――』
ティターニア様は、わたしたちを見渡して、静かに続けた。
『あなたたちには、知る権利があると思うの。特に――』
その視線が、まっすぐに、わたしに向けられた。
『リリアンナ。あなたには』
「わたし……?」
『クリムの夢を見たのなら、もう、他人事じゃなくなっている。そうでしょう?』
その言葉に、心臓が、大きく跳ねた。
『これから話すことは、長い、長い後悔の話よ』
ティターニア様は、泉の水面を見つめながら、静かに、話し始めた。
『――もう、何百年も前のこと』
風が、ぴたりと止まった。
わたしたちは、固唾を呑んで、その先を待った。




