挿入話 マリーア=サバンズ 6
「――ソーニャ様、行っちゃった。呪詛のこと、全部話したの。でも……」
リリーを胸に抱き寄せながら、わたしはまだ、さっき見た光景から抜け出せずにいた。
遠くから見ていた。フィスと二人、物陰から。近づかないでと言われていたから、ただ、見守ることしかできなかった。
リリーの手が、ソーニャ様の手首を掴む。
「誰かに、そそのかされてる訳じゃないの?」
その声が、こんなにも遠くまで、震えながら届いてくる。
ソーニャ様の顔が、崩れる。ずっと張り詰めていた何かが、あの瞬間、決壊するのが分かった。
(――同じだ)
わたしにも、覚えがある。
完璧でいなければ、と。誰かに認められるためには、絶対に間違えてはいけない、と。あの頃のわたしも、そうやって、自分を追い詰めていた。
(違ったのは、リリーがいてくれたこと)
わたしが崩れかけた時、リリーはいつも、無邪気な笑顔でわたしの手を掴んでくれた。「姉さま」と。何も知らないふりで、でも本当は、ちゃんと見ていてくれた。
ソーニャには、それが、いなかったのかもしれない。
「よく頑張ったわ、リリー」
そう言いながら、わたしの中で、何かがずっと疼いていた。
その夜、寝台に横になっても、なかなか眠れなかった。
(ソーニャさん……)
嫌いになれたら、どんなに楽だろう。リリーを傷つけた。わたしたちを謀った。許せない気持ちは、確かにある。
それなのに。
あの、両手で顔を覆って「嫌、嫌、嫌」と繰り返していた声が、耳から離れなかった。
(きっと、まだ、間に合う)
そう思う自分がいることに、少し呆れながら、わたしは目を閉じた。
◇
気づけば、知らない場所に立っていた。
見たこともない、けれど、なぜか懐かしい景色。緑深い森。空気が、澄んでいる。今の王都の空気とは、比べ物にならないほど。
目の前に、二つの人影があった。
一人は、優しい顔立ちの青年。もう一人は、闇色の髪と瞳を持つ、静かな佇まいの人。
「クリム」
呼びかけているのは、青年ではなく――わたし自身、だった。いいえ、違う。わたしの口が、勝手に動いている。これは、わたしの言葉じゃない。
(誰、この人)
戸惑う間もなく、景色は続いていく。
「クリム、聞いてくれ。ティティは、決して、お前を疎んで言ったんじゃないんだ」
青年――勇者、と、なぜかそう分かった――が、必死な様子で言葉を重ねる。
闇色の人は、何も答えない。ただ、静かに俯いているだけ。
「わたくしからも、お願い。誤解なの。ティティは、あなたのことを、大切に思ってる」
わたしの――いいえ、この身体の持ち主の声が、そう続けた。優しく、真っ直ぐな声。
けれど。
その優しさが、光が、まるで刃のように、目の前の闇色の人を、じりじりと切りつけているように見えた。
「――違う!ティティはそんなつもりで言ったんじゃないわ!」
必死に、必死に、伝えようとする。それなのに、言葉を重ねれば重ねるほど、目の前の人が、静かに、遠ざかっていく。
「……分かっている」
闇色の人が、初めて、口を開いた。
「分かっているんだ。皆、優しい。皆、悪気などない。それが――」
顔を上げたその瞳に、深い、深い孤独が滲んでいた。
「それが、一番、辛い」
その一言に、わたしの――この身体の持ち主の心が、はっきりと軋む音を立てた。
(違う。何か、違う。伝えたいことが、伝わってない)
必死に、手を伸ばそうとする。けれど、届かない。指先が、闇色の人の肩に触れる寸前で、景色が、ふっと霞んでいった。
◇
「――っ!」
飛び起きた瞬間、頬が濡れていることに気づいた。
「……夢?」
いいえ、違う。あれは、ただの夢じゃない。
誰かの、記憶だ。
わたしは、ベッドの上で、しばらく呆然としていた。あの闇色の人の瞳。あの、静かな孤独。あれは。
(クリム……、って)
この間、リリーが呟いていた名前。あれと、同じ。
心臓が、大きく音を立てる。
(強すぎる優しさが、時に、人を追い詰める)
あの光景を思い出すたびに、胸が締め付けられた。悪意なんて、どこにもなかった。ただ、誰もが、相手を思いやろうとしていた。それなのに。
(――ソーニャさんと、同じだ)
デュオルも、エレナも、皆、優しい人たちだ。悪意なんてない。それでも、ソーニャは、追い詰められていった。
優しさが、時に、凶器になる。
眩しすぎる光は、強い陰を作る。
その事実が、今のわたしの胸に、重く、静かに、沈んでいった。
窓の外は、まだ、夜明け前の暗い色をしていた。
(わたしは、何を、伝えればいいんだろう)
まだ答えは見えない。けれど、この夢が、ただの偶然だとは、どうしても思えなかった。
朝になったら、リリーに話そう。
そう決めて、わたしは、再び目を閉じた。




