87.ルシールの動揺
その夜、屋敷に戻ってからも、わたしはずっと考え込んでいた。
あの後みんなと合流して、流れを話して。みんなの心配と気遣いを感じながらも、どこか上の空になってしまっていた。考えることは、
(ソーニャ様……もしかして、転生者、なの……?)
これである。
「イレギュラー」という言葉。「物語」という言葉。あれは、ただの比喩じゃない気がした。まるで、本当に何かの「物語」があって、その筋書きを、ソーニャが知っているかのような。
(でも、それなら――)
もし、本当にソーニャが転生者で、この世界のことを、何かの物語として、いや、『サファイアの君と共に』を知っているんだとしたら。
(悪役令嬢を排除して、何がしたいの)
ヒロインなら……マリーアなら、その思考になるのは分かる。でもあの物語のようにするなら、悪役令嬢必要じゃない?
分からない。ただ、意地悪をしたいだけには見えなかった。あの、鬼気迫るような目。あれは、もっと切実な、何かを守ろうとするような目だった。
ふと、ソーニャの口癖を思い出す。
『わたくし、聖女と勇者のお話が、大好きなんです』
無邪気に笑いながら、そう言っていた。いつも、ただヲタ話だと聞き流していたけれど。
(いや、まさかね……)
「ないないないない」
「あーっ、もう!」と一人叫び、ベッドに横になって、天井を見つめた。
『――我が愛しのリリアンナよ。まだ起きておるのか』
不意に、低く落ち着いた声が響いた。
「ルシー!」
ふわり、と風が渦を巻くようにして、シルフのルシールが姿を現す。相変わらず綺麗な風の精霊さん。
「久しいな。息災であったか」
「うん、久しぶり、ルシー。会いに来てくれて嬉しい……けど、ちょっとこの時間はどうなのよ。レディの寝室よ?」
『そう言うな。なぜだか精霊界が慌ただしくての……例の話を聞いて、心配でリリーの顔を見たかったのに、なかなか来られなんだ。少しでも顔を見たかった』
ふわりと目を細めて、そっと頬に触れられる。顔面偏差値がMAXの精霊さんに、甘く心配されてしまうと、いつも弱い。
「まっ、まあ、今回はいいけどね?!……ちょうど、聞きたいこともあったし」
『聞きたいこと?』
「うん。ルシー、『クリム』って名前、聞いたことある? 妖精さんか、精霊さんか、分からないんだけど……」
その瞬間だった。
ルシーを取り巻く風が、一瞬、激しく乱れた。
『――っ』
「ルシー?」
『な、何故、その名を』
明らかに、動揺していた。いつも余裕たっぷりに振る舞うルシールが、こんな風に言葉を乱すのは、初めてだった。
「少し前に、夢で、見たの。……もしかして、あの、ブレスレットのせい?」
『例のブレスレットか。ソーニャとかいう娘に渡されたという』
ルシールの声が、さらに低くなる。周囲の風が、ぴたりと止まった。
「ルシー、教えて。クリムって、誰なの?」
『……それは』
言いかけて、ルシーは、ぐっと押し黙った。逡巡するように、風がゆらゆらと乱れる。
『すまぬ、リリアンナよ。我の口から、軽々に語れることではない』
「ルシー」
『本当に、すまぬ。これは、我一人の裁量でどうこうできる話ではないのだ。ただ――』
ルシーは、しばらく黙り込んだあと、意を決したように、低く続けた。
『クリムというのは。魔王が、まだ『魔王』と呼ばれる前の、闇の精霊であった時の、名だ』
心臓が、大きく跳ねた。
漠然と、やっぱり、と思う自分と、まだソーニャを信じたかった自分が、同じように下を向く。
「……魔王、の」
『うむ』
「じゃあ、あの夢は」
『詳しいことは、本当に、我からは語れぬ。許せ』
苦しそうに、ルシールは目を伏せた。
「大丈夫、無理に聞かないわ。でも……」
わたしは、深呼吸を一つした。
「これってもしかして、精霊の国の、ティターニア様や、オベロン様に伺えば、分かることなのかしら」
『――それは』
ルシーが、少し驚いたように、こちらを見て『いや、もしや今の精霊界の揺らぎも……?』と、呟き、少しの間を置いて口を開いた。
『……うむ。あのお二方になら、語れることもあろう』
「なら、みんなで、精霊の国に伺いたいの。マリー姉さまや、フィス、みんなと一緒に」
『そう、さな……』
ルシーは、しばらく考え込むように黙っていた。それから、小さく頷いた。
『うむ。我から、ティターニア様に取り次いでおこう』
「ありがとう、ルシー」
『ふ、礼には及ばぬ。そなたのためであれば、な。あ、たがやはり礼にハグでもしてもらおうかの?』
「だっ、今、そんな流れだった?!」
じたばたしていたら、結局いつものようにふわっと抱きしめられた。
『――リリー』
「なあに?」
『あまり、思い詰めるでないぞ』
その言葉に、優しさと、それから――何か言えない苦しさのようなものが、滲んでいる気がした。
「うん。ありがとう、ルシー」
窓の外、夜空に浮かぶ月を見上げながら、わたしは、まだ言葉にならない予感を、静かに抱えていた。
(クリム……)
その名前が、これから自分の運命に、どれほど深く関わっていくことになるのか。この時の私は、まだ、知る由もなかった。




