86.私の知ってる物語~ソーニャ=シュマール~3
「ソーニャ嬢、よろしくお願いします」
正式に婚約者となったデュオル・グリッタは、そう言って、どこか硬い笑みを浮かべた。
侯爵家の次男。跡継ぎではないから、家同士の結びつきのための駒として使われる立場。それは、ソーニャにもよく分かっていた。
(この人も、選べなかった側の人間なのね)
哀れみにも似た感情が、ちらりと胸をよぎる。けれど、それより先に、頭の中では冷静な計算が動いていた。
(グリッタ侯爵家。悪くない。それに――)
顔合わせの席で見た、デュオルの表情。婚約というものへの、諦めにも似た従順さ。横柄な父親。義務感だけで頷く横顔。
(やっぱりこの人、チョロそうだわ)
そう思った瞬間、罪悪感より先に、確信めいた安堵の方が勝った。
――大丈夫。この人なら、うまくやれる。
◇
それから、婚約者としての付き合いが始まった。
「デュオル様、今日のお召し物、とても素敵ですわ」
「そ、そうですか……?」
照れたように視線を逸らすデュオルに、ソーニャは内心でにんまりと笑う。
「デュオル様は、いつも謙虚でいらっしゃいますのね。そのままで、十分素敵ですわ」
「……ありがとう、ございます」
言葉少なに礼を言う彼の耳が、少し赤い。
(ちょろい。本当に、ちょろいわ)
褒め言葉ひとつで、こんなにも簡単に絆される。可愛いと言えば可愛いけれど、同時に、どこか呆れる気持ちもあった。
「あの……ソーニャ嬢は、いつも優しいですね。俺、こんな婚約で申し訳ないと思っていたんですが」
「まあ、そんな。わたくし、デュオル様との婚約、嬉しく思っておりますのよ」
にっこりと微笑む。演技だとは、自分でも思わなかった。ただの、必要な作業。
(どうせ、この人の一番は姉君のエレナ様なんだし)
顔合わせで見た、あの柔らかい声色を思い出す。姉どころか、そもそも自分に本気で心を寄せることなんて、きっとない。ならば、罪悪感を持つ必要もない。
そう、自分に言い聞かせていた。
「そうだ、これ。お守りに、受け取っていただけますか」
ある日、ソーニャはそう言って、手作りのアンクレットを差し出した。
「え、俺に……?」
「ええ。デュオル様の無事を、いつも願っておりますから」
大きく心が痛むことはなかった。躊躇いすら、ほとんどなかった。ただ、粛々と、計画の一部として、動くだけだ。
「……大切にします」
嬉しそうに、そのアンクレットを見つめるデュオル。その笑顔を見ても、ソーニャの心は、凪いだ水面のように静かなままだった。
(これでいい。物語のためだもの)
◇
けれど、その凪は、長く続かなかった。
学園祭の事件――エレナ様が魔王の残滓に取り込まれかけた、あの騒動の後から。
「ソーニャ、大丈夫か? 顔色が悪い」
事件の後始末に追われる中、デュオルがそう声をかけてきた。心配そうな眼差し。
「……大丈夫です。デュオル様こそ、エレナ様の件で、お辛いのでは」
「姉は無事だった。それに――」
デュオルは、少し言葉を選ぶように、間を置いた。
「君も、無事でよかった」
その一言が、思いがけず、胸の奥に引っかかった。
(――何、今の)
エレナのことだけじゃなかった。自分のことも、ちゃんと心配してくれていた。
(気のせい。社交辞令、よね)
そう思おうとしたのに、その日以来、デュオルの視線が、時々自分を追っているような気がしてならなかった。
「ソーニャ、これ、好きだと言っていたお菓子。買ってきた」
「……わざわざ、ですか」
「たまたま、通りかかっただけだ」
そう言いながらも、少し照れたような顔。
(――噓。わざわざじゃない。前に一度、雑談で言っただけのことを、覚えていてくれた)
胸の奥が、ざわざわと落ち着かない。
(違う。これは、罪悪感。デュオル様に悪いことをしてる、その後ろめたさなだけ)
必死に、そう理由付けをした。それ以外の感情であるはずがない、と。
けれど、夜になると、頭の中に浮かぶのは、デュオルのあの、心配そうな眼差しばかりだった。
「――ばかみたい」
自分に、小さく毒づく。
(絆されちゃ、駄目。わたしは、物語を正しく戻すために)
そう繰り返しながら、ソーニャは自分の中に芽生えかけた何かに、必死に蓋をした。
そんな折、リリアンナのことも、ソーニャの中で複雑に絡み合い始めていた。
(イレギュラーの、はずなのに)
悪役令嬢のはずだった人。それなのに、王太子殿下にも、テンダー様にも愛されて。聖女様にも仲間にも……今では、エレナ様にも大事にされている。
(何なの、あの人。おかしいじゃない)
苛立ちが募る一方で、時折、ソーニャの中に、別の感情も顔を出した。
魔道具研究会で、リリアンナが見せる屈託のない笑顔。「気持ち悪い」と言い直して、二人で笑い合った、あの何気ない瞬間。
(――かわいい人、なのよね。本当に)
そう思ってしまう自分に、ソーニャは戸惑った。
物語のシナリオでは、リリアンナは悪意に満ちた敵役のはずだった。それなのに、実際に接してみれば、ただの、優しくて、ちょっと変わった、気のいい令嬢。
(イレギュラーのくせに、なんで、こんなに――)
なんで、こんなに、みんなに愛されているの。
その問いは、いつしか、別の問いにすり替わっていった。
――なんで、わたしは、こんなに一人なの。
その答えに、まだソーニャは、気づかないふりを続けていた。
一度沈んだ気持ちは、昔の記憶も引っ張り出してくる。
それは、婚約が決まって間もない頃のことだった。
「ねえ、クロ。デュオル様とエレナ様からだけじゃ、集まるの、時間がかかりすぎない?」
祠の前で、ソーニャはそう零した。負の感情を少しずつ引き出す作業は、想像していたよりずっと、遅々として進まなかった。
『焦らなくても、って言いたいところだけど』
クロは、面白そうに目を細めた。
『――もっと手っ取り早い方法、教えてあげようか』
「手っ取り早い……?」
『君の家、商売やってるでしょ。あの、屑石のアクセサリー』
「それが?」
『ちょっとだけ、僕の魔力を混ぜさせてよ。ほんの少しでいいから』
「混ぜるって……何が起きるの?」
『大したことないよ。買った人が、ちょっとだけ、苛立ちやすくなる。それだけ』
軽い調子で言われて、ソーニャは一瞬、迷った。
けれど、すぐに思い直した。
(顔も知らない、誰か)
デュオルの時とは違う。名前も、顔も分からない、街の誰か。それなら――罪悪感なんて、湧きようがない気がした。
「……分かったわ。少しだけなら」
『いいね、その調子』
満足そうに笑うクロを見ても、ソーニャの心は、不思議なほど凪いでいた。
それから、しばらくして。
「最近、街で小さな喧嘩が増えているらしいわ」
母の何気ない世間話を、ソーニャは澄ました顔で聞いていた。
「まあ、物騒ね」
「でも、大した被害はないみたいだから、大丈夫よ。皆、頭に血が上っただけみたいで、後から本人たちも、なぜあんなことをって不思議がってるんですって」
母の言葉に、ソーニャは静かに頷いた。
(――うまくいってる)
そう思う一方で、胸の奥に、ちくりとした痛みが走った気がした。顔も知らない誰かが、理由も分からないまま、怒りに駆られている。その様子を想像すると、少しだけ、息が詰まる。
(大丈夫。誰も、死んだりしてない)
そう自分に言い聞かせて、ソーニャはその痛みに、蓋をした。
そう、何もかもに蓋をしてーーー
――そして、今。
夕暮れの渡り廊下で、リリアンナに手首を掴まれ、核心に迫られたあの瞬間から、まだ心臓が早鐘を打っている。
屋敷に戻り、自室の扉を閉めた途端、ソーニャはその場に、へなへなと座り込んだ。
「クロ……」
震える声で、名前を呼ぶ。
窓辺の暗がりから、するりと黒い影が滑り出てきた。以前よりも、心なしか、輪郭がはっきりしている。祠から出て、こうして自由に自分のもとへ来られるようになったのも、最近のことだ。積み重ねてきた負の魔力のおかげで、クロの力も、少しずつ戻ってきているのだと言っていた。
『――随分、大変そうだったね』
「見てたの……?」
『少しだけ。心配、してたんだよ』
いつもの飄々とした調子で言われて、それでも、ソーニャは少しだけ、安堵する自分がいた。
「クロ……みんなに、バレたみたい……どうしよう」
声が、情けなく震える。膝を抱えて、その隙間に顔を埋めた。
『うん』
「これから、どうしたら」
『大丈夫だよ』
クロが、そっと寄り添うように、ソーニャの膝元に体を寄せる。
『まだ、間に合う』
その言葉が、慰めなのか、それとも別の何かなのか。うずくまったままのソーニャには、判断がつかなかった。
ただ、暗がりの中、紫色の瞳だけが、静かに、こちらを見つめていた。




