85.私の知ってる物語~ソーニャ=シュマール~2
それから、すこし経って。
ソーニャは両親の買い付けに付いてきていた。
シュマール領は良質なサファイアと魔石が取れる。それを加工して商会で販売をしているのだ。
先日、屑石を集めてデザインして、庶民に安く売るのはどう?と、ちょっと前世持ちあるあるの提案を両親が『さすがソーニャだ!』とさっそく販売を開始し、商会の経営は右肩上がりだ。
鉱山は危ないから入れないけれど、魔石が取れる森の手前にある加工場の見学は許されるから、いつものように眺めていた。
職人によって原石が磨かれていく様を見ているのが、ソーニャは好きだった。
その時、ふとひとつの石に呼ばれた気がした。
深い、紫色の魔石。
「……これ」
思わず、指先が伸びる。加工前の、まだ粗い原石。他のものより、心なしか黒ずんで見えた。
「お嬢様、それは屑石ですよ。魔力が偏りすぎていて、加工に向かないんです」
職人がそう説明してくれたけれど、ソーニャの目は石から離れなかった。
「――これ、もらってもいい?」
「そんな屑石でよろしければ。どうぞ」
あっさりと渡されて、ソーニャはそれを大事に、ポケットにしまった。
その夜、屋敷の裏庭で、ソーニャは月明かりの下、石を取り出した。
「きれい……」
暗い紫が、月光を吸い込むように、深く沈んで見える。じっと見つめていると、不思議と、心が落ち着く気がした。
(――込めて)
囁くような声が、頭の中に響いた気がした。誰の声とも分からない、けれど確かに、そう聞こえた。
(気のせい、よね)
そう思いながらも、ソーニャは石を両手で包み込み、少しだけ、魔力を流し込んでみた。
石が、じんわりと熱を持つ。
「わっ」
驚いて手を離しかけた瞬間、石が淡く光り、そこから、小さな黒い影が滲み出るように現れた。
「……犬?」
ふわふわの黒い毛並み。丸くて、紫色の瞳。まるでポメラニアンのような愛らしい姿。
『やあ』
「し、喋った……!」
『喋るよ。呼んでくれて、ありがとう』
黒い子犬――正確には、犬のような何か――は、くるりと一回転して見せた。
「あなた、何なの……?」
『さあ、何だろうね。強いて言うなら、この石にずっと眠ってた、はぐれ者かな』
「はぐれ者」
その響きが、なぜだかすとんと胸に落ちた。
「クロ、って呼んでいい?」
『いいよ、気に入った』
クロと名乗った子犬は、機嫌よさそうに尻尾を振った。それから、じっとソーニャを見つめて、こう言った。
『――ねえ、君、何か願い事があるんじゃない?』
「……え?」
『さっき、込めてくれた魔力。ただの魔力じゃなかった。願いの色が、混じってた』
心臓が、跳ねた。
「わたし……」
言葉にしていいのか、迷った。けれど、目の前のこの生き物には、なぜか、話してもいい気がした。誰にも言えなかったことを、初めて。
「――物語を、正しい形に戻したいの」
『物語?』
「この世界は、わたしの知ってる物語なの。でも、途中から、話が違う方向に進んでる。本当は、聖女様と勇者様が結ばれるはずなのに」
ぽつぽつと、堰を切ったように話し始めた。前世の記憶のこと、大好きだった小説のこと、サバンズ家の姉妹のこと。
クロは、静かに耳を傾けていた。相槌一つ打たずに、ただじっと。
「……変よね、こんなこと言うわたし」
『ううん』
クロは、ゆっくりと首を振った。
『――君の願い、叶えられるかもしれないよ』
「……え?」
『ちょうど近く、少し面白い場所があるんだ。付いてくる?』
そう言って、クロが視線で示した方角。それは、屋敷から少し離れた、あの森だった。
「そこ……確か、魔物が出るから、一人で入っちゃいけないって」
『大丈夫、僕がいれば平気だよ』
躊躇う気持ちが、胸の中でせめぎ合う。危険だと、分かっている。けれど。
『君の願いを、叶えられるかもしれない』
もう一度、そう囁かれて。ソーニャの足は、気づけば、クロの後を追っていた。
夜の森は、思っていたよりも静かだった。木々の隙間から差し込む月光が、道を淡く照らしている。
クロの先導で、迷うことなく奥へと進む。しばらく歩くと、古びた、けれど不思議と荒れていない小さな祠が見えてきた。
『ここ』
「……祠?」
『昔、ある人を偲んで作られた場所らしいよ。詳しいことは、僕も知らないけどね』
クロは、祠の前にちょこんと座ると、ソーニャを見上げた。
『――魔王様を、復活させたいの?』
直球で問われて、ソーニャは息を呑んだ。
「……それが、正しい物語の形なら」
『そう』
短く、クロは答えた。それ以上、良いとも悪いとも言わなかった。
『じゃあ、教えてあげる。魔王の封印を弱めるには、負の感情が要るんだ』
「負の、感情?」
『恨み、妬み、憎しみ。そういうもの。誰かの心の奥に溜め込まれた、暗いもの。それを少しずつ集めれば、封印は緩んでいく』
「そんなこと、できるの……?」
『やり方は、僕が教えてあげる。――それで、心当たりはある?』
クロの紫の瞳が、じっとソーニャを見つめた。まるで、答えを急かすように。
(心当たり――)
考えを巡らせて、ふと、脳裏に浮かんだ顔があった。
先日、両親に紹介された婚約者候補。デュオル・グリッタ。侯爵家の次男で、物腰は柔らかく、悪い人ではなさそうだった。けれど。
(あの人、あの時――)
顔合わせの席で、デュオルが見せた、ほんの一瞬の表情。取り繕った笑顔の下に見え隠れした、家のためだけの婚約への諦念。それに、姉君のことを話す時だけ、心底柔らかくなる声色。
(誰かを、大事に思ってる。でも、その相手はきっと、わたしじゃない)
「……いる、かも」
ソーニャは、静かに呟いた。
『――誰?』
「わたしの、婚約者になるかもしれない人」
クロが、ゆっくりと目を細めた。満足そうに。
『いいね。じゃあ、そこから始めようか』
夜の森に、二人分――一人と一匹分の、密やかな声が、静かに溶けていった。




