84.私の知ってる物語~ソーニャ=シュマール~
「あなた、見てちょうだい。今日のお稽古の成果よ」
七歳のソーニャは、母親にそう言われて父親の前で完璧な礼をした。淀みない所作。教本通りの角度。
「まあ、上手にできたわね!」
母が手を叩いて喜ぶ。父も目を細めて頷いた。
「さすが我が家の娘だ。えらいぞ」
(――違う)
頭の奥で、誰かが囁く。褒め言葉なのに、なぜか喉の奥が締まるような感覚があった。
前世の記憶は、物心つく前からずっとあった。ぼんやりとした輪郭の中に、いつも鋭い声だけがはっきりと残っている。
『どうしてこんなこともできないの』
『恥ずかしいと思わないの』
『ちゃんとしなさい』
前世の両親は、いつもそう言っていた。完璧を、当然のように求めていた。できて当たり前。できなければ、失望される。
でも、今の両親は。
「ソーニャ、疲れてない? 無理しなくていいのよ」
母がそっと頭を撫でてくれる。父も「今日はもう休みなさい」と、優しく笑う。
(無理、してない)
そう答えながら、ソーニャはいつも思う。この人たちは、優しい。本当に、優しいのだ。できてもできなくても、変わらず愛してくれる。それは分かっている。頭では。
でも。
「ソーニャは何でもできて偉いなぁ」
近所の人にそう言われた時の、両親の誇らしげな顔。
「うちの子、すごいでしょう」
そう笑う母の顔。それを見るたびに、ソーニャの中で何かが小さく軋んだ。
(喜んでる。わたしが、ちゃんとしてるから)
違う、と誰かが言う。それは求められた喜びじゃない。ただ、娘の成長を嬉しく思う、それだけの親心だ。
でも、ソーニャにはもう、その違いが分からなくなっていた。
前世の記憶が、今世の優しさの上に、いつも薄い影を落としていた。
――ちゃんとしていないと、愛されない。
それは、誰も言っていない言葉だった。今世の両親は、一度もそんなことを言わなかった。それなのに、ソーニャの中では、いつのまにか絶対の法則になっていた。
だから、頑張った。誰よりも礼儀正しく。誰よりも聡明に。誰よりも、完璧に。
十歳になった年、ソーニャは魔力測定を受けた。この世界では十歳になって初めて、魔法を使うことを許される。
結果は、悪くはなかった。少し人並み以上ではあったけれど、特別に秀でているわけでもない。それでも両親は「ソーニャは優秀だ」と喜んでくれた。
(十分、頑張ったもの)
そう自分に言い聞かせながら、ソーニャは礼儀作法と魔法の勉強に、さらに打ち込んだ。
そしてその頃、王都から来た親戚が、こんな話をした。
「サバンズ侯爵家の御令嬢、お二人とも魔力測定が優秀だったそうよ。いろいろあって、お姉様のマリーア様も今年ご一緒に受けたでしょう?聖魔法の素養がおありのようよ!しかも妹様のリリアンナ様も、紫色の魔力だったとか。ご家族仲もよろしいみたいで、すっかり憧れの的よ」
両親が、「ほう、さすがサバンズ家ですな」とか、「国も安泰ですわね」とか相槌を打つ横で、
「サバンズ……、マリーア、リリ、アンナ?」
ソーニャの手が、止まった。
その名前。前世で読んだ、大好きだった小説――「サファイアの君と共に」に出てきた、聖女と生家の名前だ。
(まさか、そんな)
胸が、震えるほどに高鳴った。
大好きだった物語。何度も読み返した、聖女と勇者の恋物語。その世界に、自分は生まれ落ちたのだ。
もちろん、自分がヒロインだなんて思わなかった。名もないモブの令嬢。それでいい。むしろ、その方が都合がいい。物語の傍観者として、特等席で聖女様と勇者様の恋を見守れるのだから。
けれど、同時に違和感に気付く。
(サバンズ家の、腹違いの妹。リリアンナは悪役令嬢のはず)
だけど、親戚は家族仲もいいって言っていた。
(おかしい。物語と、違う)
物語は、リリアンナがマリーアにいろいろ嫌がらせをして、無理やり王子と婚約をして、でもマリーアと王子が恋に落ちてそれに嫉妬して、魔王の封印を解放してスタンピートを起こして断罪されるはず。そして、その流れの中でマリーアは聖女に完全に目覚めて、王子と結ばれる。
大好きな勧善懲悪のハッピーエンドだ。
「え、リリアンナが魔王を解放しなければ、聖女と勇者の物語は始まらないじゃない」
前世で私を支えてくれていた、ハッピーエンドの物語。大好きな話のひとつ。真っ直ぐに、真面目に、きちんとしていれば、王子様と幸せになれるお話。
「マリーアが、幸せにならないなんて、許せない」
でも、こんな男爵家の、モブ令嬢に何ができる?王都の侯爵家なんて、どうにもできないじゃない。ーーーそこで、魔が差したと言えばいいのか、子どもの無邪気な発想だったのか、歪んだ、正義か。
ともかく、思ってしまったのだ。
「魔王を解放するのは、リリアンナじゃなくてもいいわよね……?」
と。
だって、間違った話は、許せないから。




