83.笑顔の奥に
日常が始まる。本当なら、何も知らない、普通の一日なのに。
「おはようございます、リリアンナ様」
いつもの挨拶。ソーニャの、いつもの笑顔。
それを見ていて、何となく思い出す。
(……昨日の、あれ)
サーフィスたちの前で、思わず零れた「クリム」という名前。誰のことか、自分でもよく分からなかった。夢で見た誰かの名前だった気もするけれど、輪郭がぼんやりしていて、うまく思い出せない。
今日はそれより、ソーニャに伝えなきゃいけないことがあるんだ。うん、ちょっと、頑張ろう。
「リリアンナ様?」
「あ、ごめんなさい、ぼうっとしちゃって。おはようございます、ソーニャ様」
デュオルとレントールは今日は家の事情ということにして休んでいる。私より付き合いが長い訳だし、きっとそれぞれ考えているよね。
まず、私が動くんだ。
◇
放課後の魔道具研究会は、いつも通りに賑やかだった。
「ソーニャ様、見て見て。この間の光の玉、少し手を加えてみたの。さらに綺麗じゃない?」
「わあ、本当……!リリアンナ様みたいです」
「えーっ、褒めても何も出ないわよぅ?」
きゃっきゃした、いつもの会話。昨日の話は間違いなんじゃ、とも過るくらいに。……間違いであってほしいと願う自分も、正直、いる。
「リリー、これ、借りていたブレスレット。ありがとう、返すわね」
ソーニャからのブレスレットに、イデアーレが防護陣を入れてくれたものだ。自然に私の腕に通す。
「ありがとう、イデア。役に立った?」
「ええ、ありがとう、リリー」
その様子を見ていたソーニャが、口を開く。
「イデアーレ様のお役に立てたなんて、光栄ですわ。結構良くできたかしらと自負しているのですけれど」
自然に。微笑みも絶やさずに。いつもの、ソーニャだ。
「……ええ。細かい所まで、良くできていたと思うわ。勉強になった」
イデアーレもそう、微笑みながら応えると、ソーニャの微笑みが深くなった気がしたけど、気のせいかも知れない。あああ、この期に及んでまだ迷いが出てしまう。けれど、自分で言ったんだ。確認を取ると。
うん、と、心の中で深呼吸だ。
「ソーニャ様、クラブの後、食堂のカフェに寄らない?新しいスィーツが入ったって!」
「いいですね!ぜひ」
放課後の食堂カフェは、いつもより少し賑わっていた。
「わあ、これ美味しい……!何のベリーだろ」
「北の方から届いた新種だそうですよ。甘酸っぱくて美味しいですよね」
スィーツを頬張りながら、他愛のない話が続く。
「……そういえば」
ソーニャがふと、テーブルの向こうを見ながら呟いた。
「今日、デュオルたち、珍しいですよね。どうしたんでしょう」
独り言のような、でもどこか探るような響き。わたしは一瞬、返す言葉に迷った。
(今しかない、かもしれない)
胸の奥で、覚悟が決まる音がした。
「――ソーニャ様。実は……このブレスレット、気づいてしまったの」
そう言って、袖口からブレスレットを覗かせる。
向かいに座るソーニャの手が、止まった。
「……何を、ですか」
「これに、呪詛が仕込まれてるって。少しずつ、わたしの魔力を削り取るように」
カフェの喧騒が、急に遠くなった気がした。
「――誰からか、聞いたんですか」
声が、震えていた。今まで聞いたことのない硬さで。
「イデアーレが気づいたの。それで、みんなで確かめたって」
「みんな、で」
顔色をなくしたソーニャに、ああ事実なんだと悟ってしまった。
「ねえ、ソーニャ様。文化祭の時にエレナがしていたブレスレットもあなたが渡したの?デュオル様のアンクレットも?二人はソーニャ様の大事な人たちでしょう?今回のブレスレットだって、レン様だって、いいお友だちじゃない。なのに、どうして……こんな……」
「――どうして、って」
ソーニャの声が、低く沈む。テーブルの下で、拳が握られているのが見えた。
「リリアンナ様が、イレギュラーだからでしょう!」
叫ぶような声だった。周りの席から、何人かがこちらを振り向く。
「え……?」
一瞬、何を言われたのか分からなかった。
「イレギュラー、って……」
「――っ」
はっとしたように、ソーニャは自分の口を押さえた。周囲の視線に気づいて、さっと顔を青くする。
「……すみません。少し、外させてください」
椅子を鳴らして立ち上がると、逃げるように出口へ向かう。
「ソーニャ様、待って」
追いかけて、カフェを出る。夕暮れの渡り廊下に、二人分の足音だけが響いた。
校舎の外、人気のない渡り廊下で、ようやく追いつく。
「ソーニャ様!」
「……ついてこないでください」
背を向けたまま、ソーニャが言う。肩が、小さく震えていた。
「さっきの言葉、聞き逃せないわ。イレギュラーって、どういう意味?」
「――知らない。あなたに、何が分かるって言うの」
敬語が、崩れた。初めて聞く素の声。震えて、今にも泣き出しそうな。
「分からないわ。だから、教えてほしいの」
「……っ、嫌よ」
ソーニャは、両手で顔を覆った。
「嫌、嫌、嫌。こんなはずじゃ、なかったのに」
小さく、繰り返す声。それは、わたしに向けたものというより、自分自身に言い聞かせているような響きだった。
「ソーニャ様」
一歩、近づいて、その手首を掴んだ。
「――っ、離して」
「一つだけ、聞かせて。これ、ソーニャ様一人の考えなの?」
「……何を」
「誰かに、そそのかされてる訳じゃないの?」
ソーニャの目が、大きく見開かれた。ほんの一瞬。けれどすぐに、その目にまた硬い膜が張られる。
「――関係ありません」
強く腕を振り払われた。痛みより先に、その拒絶の強さに、胸が締め付けられる。
しばらく無言のまま、ソーニャは肩を震わせて立ち尽くしていた。それから、まだ震えの残る声で、絞り出すように言った。
「……今日は、これで」
去り際、振り返らないまま、小さく続けた。
「――逃げても、無駄ですから」
え、と思う間もなく、その背中は足早に遠ざかっていく。今、あれは。わたしに向けた言葉? それとも、自分自身に?
その後ろ姿が見えなくなるまで、わたしはじっと立ち尽くしていた。
(――やっぱり、何かある)
ただの悪意じゃない。ただの嫉妬でもない。
もっと、根深い何かが、あの子の中にずっと巣食っている。
それに、「イレギュラー」。あの言葉の意味を、まだ、掴みかねていた。
夕暮れの渡り廊下に、一人取り残されて。
「リリー!」
声のした方を振り返ると、フィスが息を切らして駆けてくるところだった。少し遅れて、マリーアの姿も見える。
「大丈夫か!?何かあったのか、顔が」
「フィス……マリー姉さま」
安心した拍子に、それまで張り詰めていたものが、どっと緩んだ。
「ソーニャ様、行っちゃった。呪詛のこと、全部話したの。でも……」
言葉を続けようとして、うまく続かない。
マリーアがそっと抱き寄せてくれた。
「よく頑張ったわ、リリー」
「……うん」
フィスが、去っていった方角をじっと見つめている。その横顔には、怒りとも心配ともつかない、複雑な色が浮かんでいた。
「追わなくて、いいのか?」
「うん。今は、追わないで」
「……分かった」
三人並んで、夕暮れの渡り廊下に立つ。
ソーニャの言った「イレギュラー」と「逃げても、無駄」という言葉の意味を、私はまだ、掴みかねていて……って、もしかして、イレギュラーって、私が本来は悪役令嬢って知っている?
「もしかして、ソーニャ様……」
私は二人に聞こえぬように、呟いた。




