第九十四話 また後で
水車は、二晩回り続けた。
途中で軸受けの調整をした。
魔力蓄積槽の偏りも直した。
アバター二体分を想定した疑似負荷を掛けても、電力も魔力も落ちなかった。
朝になっても、水車は変わらず回っていた。
クロエは計器を見た。
アスラは魔力槽へ手を当てた。
二人とも、しばらく何も言わない。
リーゼが待ちきれずに聞いた。
「どうなんだ」
クロエが答えた。
「いける」
アスラも頷いた。
「こちらも問題ない」
「では」
リーゼが中央の大部屋を見る。
まだ誰も使っていない部屋。
クロエの電装工作室と、アスラの魔術工房。
その間に設けられた、娘二人のためのアバター室。
そこに今、一体だけ人型が横たわっている。
まだ動いていない。
クロエとアスラが作った仮の身体。
谷底で手に入る材料だけでは足りず、クロエ自身の持つ技術で形成した部品と、アスラの魔術で補った部分が入り混じっている。
見た目だけなら、眠っている成人女性だった。
リーゼは寝台の横へ近づいた。
「これがネイラになるのか」
「接続に成功すればな」
クロエが答える。
シズクも少し離れて見ている。
「ご本人は、今も向こうにいらっしゃるのですよね」
アスラが頷いた。
「ああ。こちらへ落として呼ぶわけではない」
「それは安心しました」
ノアも同じだった。
「失敗しても、向こうの身体に危険はない?」
クロエは即答する。
「それを最優先で組んだ」
アスラも続ける。
「接続異常が起きれば、こちら側を切る。本体へ逆流させない」
ノアが頷いた。
「ならいい」
エヴァは寝台の脇から人型を覗き込んだ。
「もう起こしていいんじゃねえか?」
クロエとアスラが同時に言った。
「触るな」
「触るな」
エヴァが手を引っ込めた。
「何だよ」
リーゼが少し笑う。
「珍しく息が合っているな」
「娘だぞ」
クロエが言った。
「当然だ」
アスラも言った。
それだけだった。
普段なら、そこから一言二言は罵り合う。
今日はない。
クロエはアバターの頭側へ座る。
アスラは反対側。
ティセラは測定用の魔術具を並べている。
リーゼは電力計を見る。
ノアは少し離れた場所にいた。
新しい屋根付きの食事場所と違い、ここは館内だ。
長時間いるつもりはない。
扉と大きな窓は開け放ってある。
シズクもそれを確認していた。
「風は通っています」
「ありがとう」
ノアが答える。
クロエが部屋全体を見た。
「始める」
アスラが頷く。
「接続術式を開く」
床へ刻まれた魔法陣が淡く光った。
同時に、部屋の壁際に置かれた電装設備が低い音を立てる。
水車から送られてきた電力が流れる。
蓄積していた魔力が術式へ入る。
クロエの銀髪がわずかに浮いた。
細い神経線が装置へ接続される。
アスラの足元から幾重もの魔法陣が広がった。
リーゼは計器を見る。
「電力、入った」
ティセラも言う。
「魔力消費、開始。安定しています」
クロエの瞳の奥に、細かな光が走る。
「経路確立」
アスラ。
「向こう側を探す」
数秒。
何も起きない。
エヴァが口を開きかける。
リーゼが腕を掴んだ。
「黙っていろ」
「まだ何も言ってねえ」
「言いそうだった」
さらに数秒。
クロエが小さく言った。
「見つけた」
アスラの顔が変わった。
「ネイラか?」
「ああ」
「本人確認は?」
クロエはしばらく目を閉じた。
「取れた」
アスラが息を吐く。
それから、妙に静かな声で言った。
「繋げ」
クロエが頷いた。
「接続する」
アバターの指が動いた。
ほんの少し。
シズクが息を呑む。
次に、胸がゆっくり上下した。
実際に呼吸が必要なのかは分からない。
人間として自然に動くために、その動作まで再現されているらしい。
瞼が震える。
そして。
目が開いた。
誰も声を出さなかった。
起き上がった女性は、しばらく天井を見ていた。
次に自分の手を見る。
握る。
開く。
反対の手も同じように動かす。
指を一本ずつ曲げる。
手首。
肘。
肩。
首。
いきなり周囲を見るのではなく、まず自分の身体を確認している。
リーゼが小声で言った。
「……冷静だな」
クロエが答える。
「ネイラだからな」
女性が上半身を起こした。
一度だけ身体が傾く。
すぐに手をつき、姿勢を戻す。
「重心が少し違う」
最初の言葉だった。
アスラが吹き出した。
「第一声がそれか」
女性が顔を上げた。
クロエを見る。
次にアスラ。
数秒。
その整った表情が、ようやく崩れた。
「……母さんたち?」
アスラが笑った。
「ああ」
クロエも答える。
「久しぶりだな、ネイラ」
ネイラは二人を交互に見る。
手を伸ばした。
最初に触れたのは、すぐそばにいたクロエの腕だった。
指で何度か触れる。
次に握る。
「触れる」
「そのための身体だ」
クロエが言う。
ネイラは今度はアスラへ手を伸ばした。
アスラがその手を取る。
「感触はどうだ」
「ある。少し遅延してる」
「どの程度?」
「気になるほどではないけど、私の身体とは違う」
ネイラはそう言いながら、アスラの手を離さなかった。
アスラも離さなかった。
クロエだけが少し不満そうに言う。
「こちらはすぐ離したな」
ネイラがクロエを見る。
「何ですか。妬いてるんですか?」
「違う」
「そうですか」
「口は変わらんな」
アスラが笑った。
「元気そうで何よりだ」
ネイラはようやく周囲を見る。
知らない女。
知らない男。
巨大な部屋。
巨大な扉。
巨大な家具。
ただし自分が小さくなったわけではない。
アバターの身体感覚から、それくらいはすぐ分かる。
「……ここが谷底?」
クロエが頷く。
「そうだ」
ネイラは天井を見る。
「大きい」
リーゼが言った。
「館が聖者仕様だからな」
ネイラの視線がノアへ向いた。
二メートルを超える巨体。
黒い角。
金色の目。
ノアは距離を保ったまま軽く手を上げた。
「ノア。二人からは聖者って呼ばれてる」
ネイラが少し姿勢を正した。
「ネイラです。母たちがお世話になっています」
リーゼの顔が明るくなる。
「礼儀正しい!」
ネイラがリーゼを見る。
「はい?」
「いや、何でもない」
エヴァが横から言う。
「大尉は、お前がまともそうで安心してる」
「エヴァ!」
ネイラは少し考えた。
「母さんたちは、こちらでも何かしたんですか?」
全員がクロエとアスラを見る。
クロエ。
「していない」
アスラ。
「大したことはしていない」
リーゼが叫んだ。
「初対面の娘に嘘をつくな!」
ネイラは目を細めた。
「やっぱり何かしたんですね」
アスラが話を逸らす。
「他の連中を紹介する」
「そうですね」
ネイラは寝台から降りようとした。
クロエが止める。
「待て」
「歩けるか確認します」
「転ぶかもしれん」
「だから確認するんです」
アスラが笑った。
「やらせてやれ」
クロエが嫌そうな顔をした。
「貴様は娘に甘い」
「貴様もだろう」
ネイラは慎重に足を床へつけた。
立つ。
少しふらつく。
それでも転ばない。
一歩。
二歩。
三歩。
途中で止まる。
「足裏の感覚はある。関節制御も問題なし。視野も普通。聴覚は少し広い?」
クロエが答える。
「調整できる」
「後でお願いします」
リーゼがネイラを見る。
本当に落ち着いている。
知らない場所。
知らない身体。
知らない人々。
普通ならもっと混乱してもおかしくない。
「貴様、怖くないのか?」
ネイラがリーゼを見る。
「母さんたちが二人ともいるので」
あっさりした答えだった。
リーゼが黙る。
ネイラは続ける。
「この二人がそろっていて、それでも危険なら、私が慌てても仕方ありません」
エヴァが笑った。
「信頼されてるな」
クロエとアスラは、ほんの少しだけ得意そうだった。
シズクが前へ出た。
「私はシズクと申します」
ネイラが丁寧に頭を下げる。
「ネイラです。よろしくお願いします」
「はい。こちらこそ」
ティセラ。
「ティセラです。魔法科学を研究しています」
ネイラの視線が、ティセラの持っている測定器へ向いた。
「その装置は?」
ティセラの顔が明るくなる。
「魔力測定用です」
「構造を見ても?」
クロエが即座に言った。
「駄目だ」
ネイラが振り返る。
「まだ触ってません」
「見るだけで終わらないだろう」
「構造を覚えるだけです」
アスラが笑い出した。
「出たぞ」
リーゼがクロエを見る。
「本当に最初からこれなのか」
「言っただろう」
ネイラは少し不満そうだった。
「戻せます」
クロエ。
「それも聞いた」
「なら問題ないでしょう」
「問題ある」
「何が?」
「他人の物だ」
ネイラはティセラを見る。
「分解していいですか?」
ティセラが口を開いた。
リーゼが割り込む。
「教授、許可するな!」
「まだ答えていません」
「顔が許可する顔だった!」
ネイラは少し笑った。
その様子を見て、アスラも笑う。
本当にいつもの娘らしい。
接続直後。
知らない世界。
仮の身体。
それでも、すでに他人の機械を分解したがっている。
クロエは頭を押さえた。
「まず身体の確認だ」
「はい」
「次に接続状態」
「はい」
「その後、館を案内する」
「はい」
「工作室へは勝手に入るな」
ネイラが止まった。
「工作室があるんですか?」
クロエは自分が失言したことに気づいた。
アスラが横を向いて笑いを堪える。
「クロエ母さん」
「何だ」
「何があるんですか?」
「後で見せる」
「今では駄目ですか?」
「駄目だ」
「何故?」
「まだ接続試験中だからだ!」
リーゼが笑った。
「委員長系ではなかったのか」
アスラが答える。
「見た目はな」
ネイラがリーゼを見る。
「何か問題がありますか?」
「いや。ない。たぶん」
クロエは計器へ視線を戻した。
電力。
安定。
アスラも魔力を見る。
こちらも安定している。
接続を開始してから、消費量は想定内。
異常な発熱なし。
魔力逆流なし。
通信断なし。
クロエがネイラへ聞いた。
「気分は?」
「普通です」
「頭痛」
「なし」
「吐き気」
「なし」
「本体側は?」
ネイラは少し目を閉じた。
「横になってる。接続も維持できています」
アスラ。
「無理はするな」
「分かっています」
「本当に?」
ネイラが少し呆れた顔をする。
「私を誰だと思ってるんですか」
クロエとアスラが同時に答えた。
「私たちの娘」
「私たちの娘だ」
ネイラが黙った。
「……そういう時だけ息が合いますね」
リーゼが勢いよくネイラを指差した。
「分かるか!」
「はい?」
「小官もずっとそう思っている!」
「そうですか」
「その反応まで冷静だな!」
しばらくして、最初の接続試験を終える時間になった。
クロエが言う。
「一度切る」
ネイラが少し残念そうな顔をした。
「もう?」
「最初から長時間はやらない」
「電力は安定していますよね」
「そういう問題ではない」
アスラも頷く。
「今日は接続が成立することを確認する日だ」
ネイラは二人を見る。
「二人とも妙に慎重ですね」
クロエ。
「娘だからな」
アスラ。
「当然だろう」
ネイラは少しだけ笑った。
「分かりました」
シズクが聞く。
「また来られますか?」
「そのつもりです」
ネイラはシズクへ頭を下げた。
「次は、もう少しゆっくりお話ししたいです」
「はい。お待ちしています」
エヴァが言う。
「今度、谷底の面白いもん見せてやる」
クロエが即座に止める。
「お前の面白いものは危険だ」
「鶏の木とか」
ネイラが止まった。
「鶏の木?」
リーゼが顔を覆う。
「そこから説明するのか……」
ティセラが言う。
「厳密には卵に酷似した果実を実らせ、鶏に類似した音を――」
「教授、今はいい!」
アスラが笑う。
「次に来る理由ができたな」
ネイラは頷いた。
「気になります」
クロエ。
「そっちより身体の調整が先だ」
「それも気になります」
「工作室は?」
ネイラは少し考えた。
「一番気になります」
クロエは目を閉じた。
アスラが大笑いした。
「やはり貴様に似たな!」
「うるさい」
接続を切る。
アバターの身体から、ゆっくり力が抜ける。
ネイラは最後に二人の母親を見た。
「また後で」
クロエが頷く。
「ああ」
アスラも。
「今度はもう少し長くな」
「はい」
目が閉じた。
魔法陣の光が消える。
電装設備の音も少し落ちる。
部屋が静かになった。
クロエは計器を見る。
アスラはアバターを見る。
誰もすぐには口を開かなかった。
エヴァが二人を見る。
「会えたな」
クロエが答える。
「ああ」
アスラも小さく頷いた。
「ああ」
二晩回し続けた水車。
何度も調整した発電機。
作り直した術式。
大きすぎる館の空き部屋。
全部が、たった今、一人の娘の「また後で」へ繋がった。
リーゼが静かに息を吐いた。
「成功だな」
クロエが首を振る。
「第一段階だ」
アスラも言う。
「まだルヴァナがいる」
エヴァが笑った。
「相変わらず慎重だな」
クロエは、眠ったように横たわるアバターを見た。
「当たり前だ」
アスラも同じものを見ていた。
「娘だからな」
その返事だけは、やはり二人そろっていた。




