第九十二話 ダチョウ卵苗床の呪い【一般公開版】
早朝の露天風呂には、まだ薄い靄が残っていた。
谷底へ朝の光が届くには時間がかかる。それでも空は少しずつ明るくなり、湯の向こうにある森や館の屋根が、ぼんやりと形を取り戻し始めている。
湯船の中では、クロエとアスラが並んで岩へ背を預けていた。
二人とも、ひどく満足そうだった。
昨日の水力発電完成祝賀会は、大いに盛り上がった。
水車が回った。
電気が灯った。
魔力も蓄えられた。
ノアが皆と同じ卓を囲める屋根付きの食事場所も完成した。
長く続いていた作業が一段落し、誰もが少し浮かれていた。
酒も出た。
料理も多かった。
その熱は、食事が終わってからもしばらく冷めなかった。
皆、誰かと夜を過ごした。
巨大な館の中では、深夜になっても絶えずどこかから誰かの声が響いていた。
館が聖者仕様で大きく、部屋同士が離れていることを考えれば、かなりのものだった。
そして、クロエとアスラも例外ではない。
娘たちに会えるかもしれない。
まだ実際に呼べたわけではない。
電気が少し作れるようになった。
魔力も少しずつ蓄えられるようになった。
ただそれだけだ。
それでも、昨日までは存在しなかった道が一本、確かにできた。
宴が終わり、それぞれの部屋へ戻る途中。
クロエとアスラは、どちらからともなく相手を見た。
どちらが先だったのかは、朝になった今でも意見が一致していない。
アスラはクロエが先に挑発したと言う。
クロエはアスラが先に部屋へ入ってきたと言う。
結果だけは同じだった。
対拷問訓練が始まった。
しかも最初から、どちらが尋問する側で、どちらが捕虜役なのか分からない。
娘たちに再会できるかもしれない。その高揚感が、二人の普段以上の歯止めを外した。
クロエは神経ケーブルを展開する。
「感度十万倍」
アスラの平衡感覚、時間認識、触覚が一斉に増幅され、身体が跳ねた。
「ならば、秘技・感度十万倍返し!」
アスラの魔術式が起動し、増幅された感覚がクロエへ跳ね返る。
二人とも膝をついた。
「……いいぞ」
「まだ序盤だ」
幻覚。偽の足音。時間感覚の引き延ばし。記憶を乱す魔術。神経系への偽信号。
ダチョウ卵ほど巨大な何かを抱えさせられたような圧迫感を再現する魔術を、アスラは得意げに『ダチョウ卵苗床の呪い』と呼んだ。
「技名が下品だ」
「効いているだろう」
「なら、こちらは無限ゆで卵」
「それも大概だ!」
二人は部屋を替え、廊下を這い、互いの術式を奪い合い、最後にはどちらの幻覚が誰へ作用しているのか分からなくなった。
長い夜が過ぎた。
どちらが先に力尽きたのか、どちらが勝ったのか、それすら分からないまま、二人は床へ転がって眠りに落ちた。
そして朝。
ほとんど同時に目を覚ました二人は、顔を見合わせた。
アスラが言った。
「風呂だな」
クロエも即答した。
「ああ」
勝敗の確認より先に、二人そろって露天風呂へ来た。
そして今、ひとっ風呂浴びたところだった。
アスラが大きく伸びをする。クロエも湯船へ深く沈みながら、同じように息を吐いた。
「あー、対拷問訓練の後の露天風呂は気持ちいい」
二人はしばらく黙った。
朝の風が湯気を流す。
遠くから水の音が聞こえる。
さらにその向こうでは、新しく作った水車が一定の周期で回り続けている。
クロエが先にそちらを見た。
「まだ回っているな」
アスラも耳を澄ませる。
「ああ」
昨日の祝賀会が始まる前から、水力設備は止めていない。
水車。
発電機。
蓄電設備。
魔力変換設備。
魔力蓄積槽。
すべてを長時間動かし続けている。
娘たちのアバターを呼ぶ前の、最初の耐久試験だった。
アスラが湯の中で腕を組む。
「一晩は越えたか」
「まだ一晩だ」
「分かっている」
「最低でも今日一日は見る」
アスラが横目でクロエを見る。
「慎重だな」
「貴様も止めていないだろう」
「娘に使う設備だからな」
クロエは少し笑った。
「私も同じだ」
普段なら、こういう時にはどちらかが先に試そうと言い出す。
危険なら自分が先。
面白そうなら自分が先。
相手が止めれば、なおさら先。
二人はそういう性格だった。
だが、娘たちのことになると違った。
短時間だけなら、もう昨日の時点でも接続試験を始められた。
数分。
条件が良ければ、もう少し。
それだけなら、電力も魔力も足りている。
だが、クロエはやらなかった。
アスラもやろうとは言わなかった。
久しぶりに娘の顔を見る。
声を聞く。
触れられる形まで作れるかもしれない。
その直後に、
電力が足りない。
魔力が足りない。
だから切る。
そんなことをしたくなかった。
アスラが湯を手ですくった。
「ルヴァナなら、切れたあとすぐもう一回やれと言うだろうな」
「言う」
「ネイラは?」
「原因を聞く」
「それから?」
「勝手に設備を開けようとする」
アスラが吹き出した。
「やるな」
「止める」
「開けるぞ」
「止める」
「貴様に似たな」
クロエが少しだけ胸を張った。
「私に似た」
アスラは笑った。
「ルヴァナは最初に水車を見に行くだろうな」
「石柱を持ち上げる娘だからな」
「私に似た」
「そこは認める」
二人はまた水車の音を聞いた。
昨日まで、あの音はなかった。
娘たちもいなかった。
今もまだいない。
だが、少なくとも呼ぶための力は作り始めている。
クロエが湯船から立ち上がった。
「行くぞ」
アスラが聞く。
「朝飯か?」
「設備を見る」
「風呂上がりすぐか」
「気になるだろう」
アスラも立った。
「まあな」
結局、二人とも同じだった。
朝食へ行く前に、水力設備へ寄った。
水車は回っている。
夜中に大きく水量が変わった形跡はない。
軸も異常なし。
仮設の発電部も動いている。
クロエは計器を確認した。
「電圧変動、許容範囲」
アスラは魔力蓄積槽へ手を当てる。
目を閉じる。
「こちらも問題ない。多少の揺れはあるが、術式が吸収している」
クロエが水車を見る。
「一晩でこれだけか」
アスラ。
「少ないか?」
「いや。悪くない」
昨日、娘二人を常時動かすには足りないと思っていた量が、一晩中途切れず積み重なっている。
発電所として見れば小さい。
クロエの世界なら、設備と呼ぶのもためらう規模かもしれない。
だが、必要なのは都市を動かす電力ではない。
二体のアバター。
それを長時間、安全に維持できるだけの電力と魔力。
そこへ少しずつ近づいている。
アスラが言う。
「昼まで問題がなければ、接続系を空のまま動かすか」
クロエが頷く。
「アバターなしで負荷だけ再現する」
「魔力側は私が疑似負荷を入れる」
「電気側は私がやる」
二人が顔を見合わせる。
クロエ。
「競争ではないぞ」
アスラ。
「分かっている」
「本当に?」
「娘の設備で競争するほど馬鹿ではない」
クロエは少し黙った。
「昨日、感度十万倍で競争していた奴が言うと説得力がない」
アスラが眉を寄せる。
「貴様が先にやった」
「貴様が返した」
「返されるようなことをするな」
「対拷問訓練とはそういうものだ」
「なら問題ないだろう」
二人とも少し考えた。
「問題ないな」
「問題ない」
話がまとまってしまった。




