第八十九話 壁を作らない食堂
新しい物干し場が使われ始めると、そのすぐ近くで別の工事が始まった。
ただし、今度は洗濯物を干すためではない。
エヴァが太い柱を一本支えながら聞いた。
「これ、何作ってんだ?」
リーゼが答える。
「共同食事場所」
「食堂?」
「完全な室内にはしない」
ノアが横から言った。
「大きな屋根付きバルコニーかな」
エヴァが頷く。
「最初からそう言えよ」
リーゼが振り返った。
「小官が名前を決めたわけではない!」
誰が最初に何と呼んだのかは、もうどうでもよかった。
必要なのは、ノアが皆と同じ場所で食事をできる構造だった。
これまで、ノアは体質を理由に館の中へ長く留まらないことがある。
特に皆が集まる食事時は、軒下や屋外へ出ることが多かった。
戸を開けておけば話はできる。
声も届く。
誰かが皿を持っていくこともできる。
エヴァが隣へ行くこともある。
それでも、基本的には他の者が館内、ノアは外という形になりやすい。
シズクは何度も、その様子を見ていた。
「聖者だけ、いつも少し離れていますから」
ノアが答える。
「その方が安全だからね」
「はい。でも、完全に別の場所でなくてもよいのではありませんか?」
ティセラが建設予定地で風の向きを確認する。
「フェロモン様作用そのものを消せるわけではありません。ただ、閉鎖空間に滞留させないだけでも意味があります」
クロエも周囲を見る。
「三方を開ける?」
リーゼが頷く。
「もっとだ。基本は柱と屋根だけでいい」
アスラが言う。
「風が止まった時だけ、送風術式を使えばいい」
「常時それに頼るのは避けたいが、補助ならありだな」
ノアが少し離れた場所に立って、自分と皆との距離を見る。
「僕の席だけ遠くする?」
リーゼが首を振った。
「それでは今までと大差ない」
ノアが意外そうな顔をする。
「そう?」
「安全距離は取る。だが同じ卓を囲むために作るのだろう」
シズクが頷いた。
「はい」
エヴァが笑う。
「聖者、追放されなくてよかったな」
「今まで追放されてたの?」
「自分から出てた」
「なら追放じゃないでしょ」
「似たようなもんだ」
「違うよ」
聖者仕様の館へ接続するため、柱も梁も大きい。
屋根の位置も高い。
普通の人間向けなら必要以上の高さだが、ノアが普通に立って歩けることを考えれば、このくらいになる。
さらにエヴァも大柄だ。
結果として、完成予定のバルコニーは小さな宴会場くらいの広さになった。
リーゼが図面を見る。
「……食事場所としては、やはり大きすぎないか」
ノアが言う。
「館に合わせたらこうなった」
「聖者仕様、何を作ってもでかいな」
「ごめん」
「謝るところではない!」
シズクが別の使い方を考えた。
「食事以外にも使えますね」
クロエも頷く。
「地図を広げる」
アスラ。
「作業会議」
ティセラ。
「標本の屋外観察」
リーゼが即座に止める。
「最後の用途だけ却下!」
「安全な標本です」
「食卓予定地で標本を広げるな!」
卓についても工夫した。
一枚の巨大な固定卓ではなく、聖者用の高さに合わせた大きな卓をいくつか作る。
人間側には高い椅子や足台を使う。
必要なら卓を組み合わせる。
全員で食べる時。
少人数の時。
地図を広げる時。
大量の料理を並べる時。
配置を変えられる。
クロエが言った。
「ノアの位置は風向に応じて変えるべきだ」
ティセラが頷く。
「固定席より合理的です」
リーゼも同意した。
「なら、聖者席というもの自体を作らない。風向と体調に応じて、その日ごとに位置を変える」
エヴァが笑った。
「大尉、急に聖者の扱いが丁寧になったな」
「今までも丁寧だ!」
「軒下で食わせてたぞ」
「小官が来る前からだろう!」
ノアが苦笑した。
「僕が自分でやってたことだから」
工事は意外に早かった。
木材はすでに確保してある。
ノアが加工する。
エヴァが太い柱と梁を運ぶ。
クロエが接合部を確認する。
リーゼが配置と動線を見る。
アスラは必要な場所だけ魔術で補助する。
シズクは座る場所と料理の運びやすさを確認する。
ティセラは風を測っていた。
リーゼが聞く。
「教授、今度は何を記録している」
「風向と滞留時間です」
「それは必要だな」
「それと、聖者が座った際の各座席への影響――」
「食事中に実験するなよ」
「観察です」
「言い換えても駄目だ!」
夕方。
最初の食事を、新しい屋根の下で取ることになった。
まだ木の匂いが強い。
風が横から抜ける。
屋根があるので、上から水が落ちてきても慌てて片付ける必要はない。
シズクが料理を運ぶ。
エヴァが大皿を置く。
リーゼとティセラ。
クロエとアスラ。
そしてノア。
ノアはいつもの癖で、料理を受け取ると屋根の外へ行きかけた。
エヴァが袖を掴む。
「どこ行く」
「外」
「ここも外みたいなもんだろ」
「あ」
リーゼが呆れた。
「何のために作ったと思っている」
「癖で」
シズクが笑った。
「聖者はこちらです」
ノアは示された席へ座った。
少し距離はある。
だが別卓ではない。
大きな卓を組み合わせた同じ食卓の一部だった。
風が通る。
ティセラはしばらく様子を見ていたが、問題ないと判断したらしい。
「この程度の距離と通風なら、少なくとも閉鎖された居間より管理しやすいですね」
リーゼが言う。
「食事中くらい記録板を置け」
「持ってきていません」
「珍しいな」
「食事ですから」
リーゼは少しだけ教授を見直した。
その横で、クロエとアスラが隣同士に座りかけ、互いに気づいて席を一つ空けた。
リーゼが見る。
「何故離れる」
クロエが答える。
「こいつの隣は嫌だ」
アスラも。
「私もだ」
リーゼの眉が動く。
「夜中は互いの部屋へ忍び込むくせに、飯では隣が嫌なのか!」
「それとこれは別だ」
「何が違う!」
エヴァが笑いながら肉を取る。
シズクも料理をよそう。
ノアがシズクへ声をかける。
「それ、こっちにもお願い」
「はい」
シズクが皿を卓の上で渡す。
それだけだった。
以前なら、わざわざ軒下まで持っていった。
今は同じ卓の上で届く。
シズクが少し嬉しそうに笑った。
リーゼも気づいたが、何も言わなかった。
エヴァは気づいた。
「大尉、いい顔してるぞ」
「何が」
「自分が聖者を仲間に入れてやったみたいな顔」
「最初から仲間だ!」
「でも飯は外だった」
「だから直したんだ!」
クロエが言う。
「行政改善だな」
アスラが頷く。
「やはり役人ではないか」
「小官は軍人だ!」
屋根の下に笑い声が広がった。
ノアは少し黙って、全員を見た。
エヴァが気づく。
「どうした」
「いや」
「何だよ」
ノアは笑った。
「近いなと思って」
シズクが聞く。
「嫌ですか?」
「逆だよ」
誰かに近づくこと自体が、ノアにとってはいつも慎重さを伴う。
安全のために離れる。
長居しない。
自分から一歩外へ出る。
それは必要なことだった。
その必要をなくすことはできない。
だが、安全のために距離を取ることと、一人でいることは同じではなかった。
壁をなくす。
風を通す。
卓を少し広くする。
ただそれだけで、同じ場所にいられる。
食後も、誰もすぐには立たなかった。
エヴァが椅子へ深く座る。
シズクとリーゼが話す。
ティセラが食後の茶を飲む。
クロエとアスラが娘たちの接続設備について言い合っている。
ノアもそこにいる。
これまでの軒下とは違う。
ノアのための場所ではない。
皆の場所だった。
シズクが屋根を見上げた。
「これから、ここで食事をすることが増えそうですね」
ノアが頷く。
「うん」
エヴァが言う。
「冬もいけるか?」
リーゼが考える。
「風を通すのが目的だから、寒さ対策は別に考えないとな」
クロエ。
「部分的な風除け」
アスラ。
「暖房術式」
ノア。
「床を少し暖めるとか」
リーゼが卓を叩いた。
「完成した日に改修案を増やすな!」
また笑い声が上がった。
大きな屋敷に、また一つ新しい場所が増えた。
部屋ではない。
壁もない。
それでも、今までよりずっと皆が同じ場所にいるための場所だった。




