第七十九話 娘たちを呼ぶ
クロエが目を覚ました時、最初に見えたのは、見慣れない天井ではなく、すぐ隣で横向きに眠っているアスラの紫髪だった。
二人とも何も着ていない。
床にも寝台の周囲にも、衣服らしいものはほとんど残っていなかった。クロエの寝衣は昨夜の早い段階でアスラに切り裂かれ、アスラの忍装束も途中でクロエが外している。その後は互いに相手を拘束し、逃れ、また捕まえ、昔から何度も繰り返してきたエロ拷問の応酬になった。
クロエの手首や足首には拘束の痕が残り、褐色の肌にも昨夜の名残がいくつもある。アスラも同じだった。青い肌にはクロエが仕掛けた神経操作や拘束の跡が残り、寝台の端には途中で外された魔術具と、引きちぎれた細い金属糸が絡み合っている。
普段なら、こんな朝は二人とも起きるなり露天風呂へ向かう。
「あー、エロ拷問の後の露天風呂は気持ちいい」
などと言いながら湯へ浸かり、昨夜どちらが勝ったかでまた口論を始める。それが谷底へ来てから妙に定着し始めた二人の朝だった。
だが、今日は違った。
昨夜は終わらなかった。
普段なら、どちらかがある程度満足すれば、途中から単なる意地の張り合いになったとしても、最後には笑って終わる。それから風呂へ行くなり、水を飲むなりして、適当なところで寝る。
昨夜のアスラは、そこから先も仕掛けてきた。
クロエが一度形勢をひっくり返しても、アスラは止めなかった。
魔法陣を増やし、肉の触手を作り直し、拘束を破られれば別の方法を試し、クロエが神経接続を返せば、さらに魔術で押し返してきた。
いつもの負けず嫌いとは少し違った。
荒れていた。
クロエも途中で気づいていた。
だからこそ付き合った。
止めろとも言わず、昨夜は最後まで相手をした。
結果として、露天風呂へ行く余力まで使い果たし、二人とも全裸のまま、片付けもせず寝台へ倒れ込んだらしい。
クロエは身体を起こし、銀髪を肩から払った。
隣でアスラが小さく動く。
「……起きているだろう」
返事はなかった。
クロエはアスラの横顔を見る。
「寝たふりをするな」
「うるさい」
やはり起きていた。
「いつもなら、先に風呂へ行くと言うところだな」
「今日はいい」
クロエの目が少し細くなった。
その一言で、ほぼ確信した。
「アスラ」
「何だ」
「ホームシックか?」
アスラの目が開いた。
「違う」
「早いな」
「何がだ」
「否定が」
アスラは身体を起こし、乱れた紫髪を後ろへかき上げた。胸元から腹、腿にかけても昨夜の痕が残っているが、本人は気にする様子もない。
「貴様、朝から殺されたいのか」
「昨夜からずっと殺そうとしていただろう」
「まだ足りん」
「やはり荒れているな」
アスラの眉が動く。
クロエはそこで笑わなかった。
しばらく何も言わず、窓の外を見る。
谷底の朝は、地上より静かなようで静かではない。遠くの森から巨大な獣の鳴き声が響き、川の水音が絶えず聞こえる。時々、館の屋根よりはるか上を大きな影が通る。
暮らせる。
飯もある。
湯もある。
寝床もある。
敵もいる。
その敵とは、昔から何度も殺し合い、拷問し、共闘し、気が向けばこうして同じ寝床にいる。
だが、足りないものがある。
クロエ自身も、それを考えないようにしていた。
アスラが窓の方を向いたまま言う。
「……ネイラは、ちゃんと飯を食っているだろうか」
クロエは何も言わなかった。
ようやくアスラ自身から出た。
「私がいないと、あの子は作業に集中しすぎることがある」
「あるな」
「また何か妙な機械を拾ってきて、分解しているかもしれん」
「それもある」
「前に聞いたら、構造は覚えたから戻せると言っていた」
クロエの口元が少し緩んだ。
「私に似たな」
「そこは認める。あの子は頭がいい」
アスラは少し間を置く。
「口も達者だが」
「お前が育てているからだろ」
「貴様の娘でもある!」
いつもの調子が少しだけ戻った。
クロエは肩をすくめる。
「ルヴァナも何をしているか分からんな」
アスラがすぐにこちらを見る。
「元気だろう」
「元気すぎる方を心配している」
「先月、庭の石柱を持ち上げたと言っていたな」
「ああ」
アスラは嬉しそうに笑った。
「私に似た」
「考える前に動くところまでな」
「良いことだ」
「限度がある」
ネイラは姉だった。
清楚で生真面目そうな見た目をしていて、頭がいい。構造を理解するのが早く、一度見たものをよく覚える。変な機械を見つければ分解するが、戻せるのかと聞けば「構造は覚えたから大丈夫」と平然と言うような娘だった。
ルヴァナは妹で、姉とは対照的だった。
明るく、勢いがあり、格好も言動も軽い。だが身体能力は高く、特に力が強い。考えるより先に身体が動くところまでアスラに似ている。
普段、ネイラはアスラの家で暮らし、ルヴァナはクロエの家で暮らしている。
だからといって、どちらか一方だけの娘ではない。
二人とも、クロエとアスラの娘だった。
互いの家へ行く。
四人で飯を食う。
遅くなれば泊まる。
娘たちが寝た後に喧嘩を始めることもある。
相手用の寝具まで、互いの家に置いてある。
クロエはようやくアスラを見る。
「会いたいんだろ」
アスラは黙った。
「ネイラにも、ルヴァナにも」
「……貴様は違うのか」
クロエは少し考えた。
「同じだ」
アスラが目を瞬いた。
クロエが素直に認めると思っていなかったらしい。
「昨日、お前が荒れているのを見ていて分かった」
「だったら途中で言え」
「言ったらお前は否定する」
「今も否定している」
「だから昨日は黙って付き合った」
アスラが昨夜の痕だらけのクロエを見る。
それから自分の身体を見る。
「……付き合い方がおかしいだろう」
「私たちだからな」
数秒の沈黙の後、アスラが吹き出した。
クロエも小さく笑った。
ようやく昨夜から張り詰めていたものが少し緩んだ。
クロエは寝台の端へ腰を下ろした。
「呼ぶか」
アスラが顔を上げる。
「何を」
「娘たちだ」
今度こそアスラは完全に黙った。
「ここへ?」
「ああ」
「分つ河へ投げ落とすつもりなら、先に貴様を殺すぞ」
「そんなことをするか」
クロエは胸元の神経接続端子を指先で叩いた。
「アバターを使う」
アスラの表情が変わった。
すぐに意味を理解した。
「こちらへ疑似身体を置くのか」
「本体は向こうに残す。こちら側で動く身体だけ用意する」
「接続距離は?」
「普通なら無理だ」
「ならどうする」
「お前の魔術を使う」
アスラの片眉が上がる。
「貴様が私を頼るのか」
「娘のためならな」
その答えだけで、アスラはもうからかわなかった。
「分かった」
「早いな」
「娘の話だ」
クロエは頷いた。
そこだけは、昔から二人とも同じだった。
問題はすぐに出た。
クロエが指を折る。
「アバター本体。神経接続。演算装置。通信を代替する中継機構。それと電源」
アスラも続ける。
「魔力接続。意識保持。こちら側の身体と向こう側の本体を結ぶ術式。それと魔力供給」
「電力がいる」
「魔力もいる」
二人は顔を見合わせた。
「足りるか?」
アスラが聞く。
クロエは即答した。
「足りない」
「こちらもだ」
娘二人を少しの時間だけ映すなら、どうにかなるかもしれない。
だが、それでは意味がない。
話す。
飯を囲む。
館を歩く。
一緒に風呂へ入る。
寝る。
翌朝また起きる。
普通に家族として過ごしたいなら、アバターを安定して長時間維持する必要がある。
クロエは立ち上がった。
「風呂へ行くぞ」
アスラも寝台から降りる。
「ようやくか」
「このまま居間へ出たらリーゼがうるさい」
「服を着ればいいだろう」
「その前に洗いたい」
二人は昨夜散らかしたものを一瞥した。
片付けは後だ。
いつものように全裸のまま廊下へ出ようとして、クロエが一度止まった。
「何だ?」
「いや」
クロエはアスラを見る。
「娘たちを呼べるかもしれんと思ったら、お前の顔が少しマシになった」
「殺すぞ」
「それでいい」
その朝、二人はいつもより遅く露天風呂へ向かった。
そして朝食の頃には、娘二人を谷底へ呼ぶという話が、館の全員へ広がっていた。
「娘たちを呼びたい」
クロエがそう言うと、リーゼが食事の手を止めた。
「呼ぶ?」
シズクも顔を上げる。
「ネイラさんとルヴァナさんを、ですか?」
「そうだ」
アスラが続けた。
「ただし、本人を落とすわけではない」
ティセラはもう紙を出している。
「遠隔身体ですか?」
クロエが教授を見る。
「話が早いな」
「本体は元の場所へ残し、こちら側へ作った身体へ意識だけを接続する?」
「大体合っている」
リーゼが眉を寄せた。
「小官には大体どころか、ほとんど分からん」
ノアは少し考えた。
「本人を危険な谷底へ連れてくる必要がないなら、それが一番いいね」
クロエが頷く。
「問題は電力だ」
アスラも言う。
「魔力もいる」
シズクが尋ねる。
「今あるものでは足りないのでしょうか」
「短時間ならどうにかなる」
クロエは答えた。
「だが、娘を呼んで、一刻か二刻だけ話して消すつもりはない」
アスラも頷く。
「普通に一緒に暮らすなら、安定した供給が必要だ」
エヴァが朝食の肉を食べながら言う。
「増やせばいいだろ」
リーゼが見る。
「何をだ」
「電気と魔力」
「その増やし方を相談しているんだ!」
エヴァはノアを見る。
「聖者、何かないのか?」
ノアも窓の外へ目を向けた。
館の横を水が流れている。
飲み水。
調理場。
冷却。
生け簀。
洗濯設備。
谷底の暮らしは、かなりの部分を水へ頼っている。
「水かな」
「水?」
リーゼが窓を見る。
少しの間、黙っていた。
それから急に立ち上がった。
「待て」
全員が見る。
リーゼはノアを指差した。
「貴様、水を使って洗濯する装置を持っているな?」
「バルトリ?」
「そうだ! あれだけの水量を使っている。川もほぼ一年中流れているんだな?」
「今のところは」
「それなのに水車は?」
ノアが瞬きをした。
「ないよ」
「発電機は?」
「ない」
「動力用の水車も?」
「必要なかったから」
リーゼの目が輝いた。
「産業革命だ!」
シズクが隣のエヴァを見る。
「何が始まるのでしょう」
「知らん」
ティセラは興味深そうにリーゼを見ている。
リーゼは一気に元気になった。
「水がある! 流れがある! 落差もある! なら回転力を取れる! まず水車だ。そこから動力を取り、発電し、工作機械を――」
クロエが手を上げた。
「発電機なら私が設計できる」
リーゼの笑顔が止まった。
アスラも続ける。
「回転運動を魔力へ変える術式なら組めるぞ」
ティセラ。
「変換効率はこちらで測定できます」
ノアも言う。
「前世で水力発電の仕組みくらいなら知ってるよ」
リーゼの両手が、ゆっくり下がった。
「…………」
エヴァが笑う。
「産業革命、終わったか?」
リーゼは椅子へ座った。
「小官の産業革命が……」
クロエが首を傾げる。
「何故落ち込む」
「お前たちは何でも持ちすぎなんだ!」
アスラ。
「便利でいいだろう」
「そういう問題ではない!」
リーゼはしばらく俯いていたが、やがてノアを見る。
「ノアぁ……」
「何?」
「お前だけは、小官と同じ側だと思っていたのに……」
ノアは困ったように笑った。
「僕も専門家じゃないよ」
「そこではない!」
娘二人を呼びたい。
ただそれだけから始まった話は、その日の朝には水車と発電設備を作る計画へ変わっていた。
そして帝国航空隊大尉リーゼは、産業革命を始める前から、谷底に集まりすぎた技術体系へ少し心を折られていた。




